一章《街》は生きている 二話
フラミンゴ色の長めのショートカット。
丸くて大きな双眸。小さな鼻。
健康的な肌色の柔らかそうな頬っぺたに、華奢な体つき。
《マチビト》のマグと名乗ったその人物は、十歳前後の女の子といった風貌をしていました。
しかしその井出立ちは異様で、例えるならコウモリでした。
額の上へずらしたゴーグルは額当てと一体になっており、両翼を広げたオオミミオオコウモリの形をしていました。
右肩の肩当てに取り付けられたマントも、コウモリの羽を模しています。
下半身にはこげ茶をしたハイウエストの大き目ズボンをはいていますが、上半身は素肌の上に胸当てを着用しているのみでした。
(これが、この子が、《街》のスペシャリストだって?)
歴戦の剣士や狡猾な狩人の姿を想像していたジョルジュは面を食らってしまい、二の句が継げず口をパクパクとさせていました。
魚の真似事を披露するジョルジュに、マグは痺れを切らしました。
「ヘイ、どうしたボーイ。オレに用事があったんじゃないのか?」
「ボ、ボーイ?」
ジョルジュは一度だって、年下の女の子からそのように呼ばれたことはありませんでした。
「そいつの見かけにダマされんじゃねーぞ、ボ~イ? そんなナリしてっけど八十年は生きてっからなぁ!」
縮めた身を元に戻した強面の男性が、からかい口調で声をかけてきました。
「本当ですか?」
驚いたジョルジュが強面の男性に訊ねる一方、マグはすました顔をしていました。
「おおよ。《マチビト》はテメェの体をアチコチ改造してんだ。もう人間じゃねぇ。噂じゃソイツちんちんも機械だって聞くゼ?」
「エッ」
絶句するジョルジュの頬をかすめて、弾丸のようなものが飛び出し、強面の男性の額にヒットしました。
「あイデー⁉」
「《マチビト》のワンダーゾーンについて軽々しい口を利いた罰だよ、荒くれボーイ」
ターゲットを仕留めた弾丸が食堂の床に転がりました。
それはビー玉でした。
ビー玉を手に取ったジョルジュは後ろを振り返りました。
マグは先ほどと変わらず静かに座っていましたが、マグの前に置かれたラムネ瓶のビー玉はなくなっていました。
「さて、用件を聞こう。ボーイ」
何食わぬ顔でマグは言いました。
ジョルジュはマグの対面に腰を下ろすと頭を下げて言いました。
「お、お願いします」
強面の男性はと言えば、腫れた額の痛みに耐えかねて床にうずくまり、見兼ねたウエイトレスに介抱されていました。
「もぉ~、どうしてそういつもマグさんに突っかかるんですかねー。敵いっこないのに。モウコハンの数だって把握されちゃっているくらいお世話になっているじゃないですか、私達って」
ウエイトレスは強面の男性の額に濡れタオルを当ててあげました。
「イツツ……、うるせー! それが気に食わねぇんだよ! 俺様のことをガキ扱いしやがってよぉ!」
「そうやって反抗期してちゃあ世話ないでしょ。――そろそろお昼休みで混んでくる時間なんだから、あんまり長居しないでよ?」
「俺様は客だっつーの!」
「そういうセリフはツケてる分の支払いを済ませてから言いなさよね」
「ぐぅぅ……」
強面の男性とウエイトレスの軽快な言葉の応酬をBGMにしながら、ジョルジュは簡単な自己紹介を済ませました。
そして本題――財布が紛失した経緯をマグに話して聞かせようとしました。
がしかし、一言「財布」と口にした途端、マグがジョルジュの言葉を遮ってこう言いました。
「あー、スリスに掏られたな」
「僕まだ話している途中……え? リス?」
「スリス。名前の通り、掏りをするリスさ」
「はぁ……。それは、誰かに盗みを働くよう調教されたリスということですか?」
マグは首を左右に振りました。
「いいや違う。スリスは《街》が生み出した《街獣》の一種だ」
耳慣れない単語が飛び出し、ジョルジュはオウムになって同じセリフを口にしました。
「スリスは《街》が生み出した《ガイジュウ》の一種?」
「ああ。街の獣と書いて《街獣》。《街》が不思議な力を宿しているのは知っているかな?」
探るまなざしを向けられたジョルジュは、コクコクと頷きました。
「《街》はその不思議な力で、一癖あるも二癖もある生物を生み出すことができるんだ。スリスは一番ポピュラーな《街獣》だな。アイツらはあらゆるところから金品を盗み出す。一匹なら掏り程度だが、大群になると金庫なんかも盗みやがる」
「な、何でそんなことをするんですか?」
「簡単なこったい。《街》は人に仇なす存在だからだ」
そう答えるやいなや、マグは立ち上がりました。その上背はやはり小さく、ジョルジュのお腹の辺りまでしかありませんでした。
マグはテーブルにお代を置くと、玄関へ歩き出します。
「ちょっと? あの、どこへ?」
「んあ? 財布を取り返してくるんだよ。ボーイはここでランチでも食べて待っておいで。多めに置いておいたから」
目にゴーグルを装着したマグが、親指でテーブルを示しました。
そこにはラムネ一本分よりも多いお金が、それこそランチを堪能できるぐらいのお金が残されていました。
マグがウエイトレスに呼びかけます。
「ロマナ、ボーイに日替わりランチをご馳走してやってくれ」
「はーい! マグさんオットコ前ですね~」
「そうなんだよ。加えてこのキュートフェイスだ。最強だろう?」
「はぁい、最強ですー!」
お花畑のような会話が繰り広げられる傍ら、ジョルジュは躊躇をしていました。
けれど心を決めてマグに願い出ました。
「マグさん! 僕も連れて行ってくれませんか? 僕も行きたいんです。僕は《街》へ移住をするつもりできたんです、だから《街》のことをもっとよく知りたい。《マチビト》のあなたと一緒に、この目で見て知りたいんです!」
ジョルジュは熱いまなざしを向け、一生懸命に訴えかけました。
マグはジョルジュには答えず、ロマナに言いつけました。
「ロマナ、ランチはキャンセル。代わりに、移動しながらでも食べられるような軽食を頼む」
その言葉は同行を許すことを意味していました。
マグは、今度はジョルジュに言いました。
「魚、食いっぱぐれたんだろう? すきっ腹で追いかけっこじゃ身が持たんよ。スリスはすばしっこいんだ」
「……ありがとうございます!」
ジョルジュはロマナからホットサンドを受け取り、マグと共に《街》へと繰り出しました。
+++
外へ出てみると、食堂に入る前とは打って変わって辺りは薄暗くなっていました。
ジョルジュが意外そうな声で言いました。
「一雨きそうですね。でもおかしいなぁ、あんなに晴れていたのに」
マグは空を睨み、厄介な客人の来訪を告げるように言いました。
「ああ、確実に降るだろうな。一針」
一針という単語に、ジョルジュには閃くものがありました。
それは魚屋の店主の言葉でした。
『なんてたってこの《街》は、《針の雨》なんておっかねーもんも降らせちまうんだからよ』
あれは冗談などではありませんでした。
「一、針……って、まさか?」
ジョルジュは恐る恐る、空を仰ぎました。
丸まったハリネズミのような雲が、頭上に控えていました。
雲は食堂付近の一帯を覆う大きさでした。
当然ですが、雲に覆われていないところはしっかり晴れています。
ジョルジュが目印にしたマンボウ型の浮遊物は、姿を消していました。
どうやら雲の上に出ているようです。
そして唐突に、けたたましいサイレンの音が《街》を轟きました。
音の発生源付近にいるジョルジュは慌てて両耳を塞ぎ、素っ頓狂な声を上げました。
「なんだぁ⁉」
「警報だ! 《針の雨》に備えろと住民達に報せている! この上にマンボウが浮いていただろ? あれが鳴らしているんだ!」
「な、なるほど! すごい音ですね!」
「だろう! ちなみにあのマンボウはオレんちだ! 《街》で採れる《街異物》(がいいぶつ)っていう最高に不思議な石で作った超ド級のマイホームだ!」
不敵に微笑んだマグが親指を立てましたが、ジョルジュはそれどころではありません。《街》の新たな情報を理解しようと必死になっていました。
サイレンは、マグが立てた親指をスッと下ろすのと同時に止みました。
ハリネズミの雲が、いよいよ針を降らさんとしてブルブルと震え始めました。
恐れとちょっとの好奇心から、ジョルジュは固唾を呑み込みます。
不気味な静けさの中、マグが声を発しました。
「久しぶりの移住者に我を忘れて高揚しているのか、それとも拒絶反応か……」
聞こえてきたのは独り言でしたが、横に立つジョルジュの目には、明確な相手に向かって語りかけているように映りました。
それを裏づけるように、マグはジョルジュではない誰かに問いかけました。
「どっちだい、ねーちゃん」
言うが早いか、マグはジョルジュを腕に抱えると、矢のような速さで食堂の屋根へ上っていきました。
そしてとんでもないことに、そのまま屋根から屋根へと飛び移りながら移動を始めました。それも尋常ではないスピードです。
ジョルジュは突然の浮遊感と、目まぐるしく変化する視界に絶叫を上げていました。
「うわぁあああーーー⁉」
ジョルジュは、かつて手綱を誤って馬から投げ出された経験を思い出しましたが、今はその時の何百倍もの衝撃と恐怖を覚えていました。
そのため数秒前まで抱いていた疑問は、すっかり頭から吹き飛んでしまいました。
(――ねーちゃんって、どういうことだろう?)
+++
ジョルジュとマグは無事、《針の雨》の範囲外へと逃げおおせました。
移動の激しさに酔ってしまったジョルジュを休ませる間、マグは食堂付近へ取って返し、被害の確認にあたっていました。
警報が功を奏し、建物の損壊以外の被害者はいませんでした。
ジョルジュはベンチに横たわってマグを待っていましたが、ふと自分を呼びかる声に気づき、起き上がりました。
外していたメガネをかけ直し、前後左右を確認します。
どこを見ても通行人ばかりで、ジョルジュに用がありそうな人影は見当たりませんでした。
気のせいと諦めかけた時、再び声がしました。
「おーい。こっちだよ、こっち」
霞がかったような、奇妙な響きを持った声でした。
その声は背後から聞こえてくるようでした。
ジョルジュの背後には、民家と民家の間に続く路地がありました。
路地は陰になっていてあまり見通しがよくありません。
「そう。こっち、こっち」
声は、ジョルジュが路地へ目を向けたことを喜ぶように言いました。
一方ジョルジュは困惑していました。
「えっと、どなたですか……?」
「オレだよ、オレ」
《街》へ来たばかりの自分に、そんな砕けた言い回しで声をかけてくる人物といえば、マグしか思いつきませんでした。
「マグ、さん……?」
「そう! マグだよ、マグ。なあ、ちょっとこっちへ来てくれないか?」
「なんだ、マグさんだったんですか。そんな狭いところからどうしたんですか?」
「ちょっとな。いいからこっちへ来てくれよ」
「わかりました」
ジョルジュが右足を踏み出したその時でした。
後ろからジョルジュの服を掴んだ何者かが、乱暴に引き留めるのでした。
「ぐぇっ⁉」
「――待てコラ」
甘さの残る声に振り返れば、可憐な少女の幼い顔をしかめ面にしたマグがいました。
「あぇ? マグさん⁉ あれ? どーゆこと?」
路地とマグとを見比べながらジョルジュは混乱していました。
「騙されるな、ジョルジュ。あれは《誘いの霧》だ。目を凝らして路地を見てみろ」
ジョルジュは言われた通りにしました。
路地をよくよく見てみると、そこは陰になっているのではなく、大群の虫がうごめいているような黒い霧が発生していたのでした。
「うっえ~。げろげろ~。気色わっるぅ!」
嫌悪感を吐き出す勢いでジョルジュが舌を出しました。
その様子を見守っていたマグは、難しい時期に入った年頃の女の子のような反応だなぁと、こっそり苦笑していました。
「何なんですか、あのキッショイのは」
「《誘いの霧》な。《針の雨》と同じ《街》が起こす加害現象の一つだ。あの黒い霧の中から知人の声で呼びかけて事故に遭わせる。あの路地の先は段差になっていて、落ちたらまず骨折ものだ。悪くすると命すら落としかけないほどの、な」
ジョルジュの背筋を冷たいものが伝っていきました。
ジョルジュはマグのマントを両手で胸に引き寄せると、親猫とはぐれた子猫のような表情で請いました。
「ぼ、僕もうマグさんから離れたくありません」
「おぼこ娘の哀願かい! 知らない人が聞いたら誤解するわ!」
殺し文句じみたジョルジュの言葉にマグは気色ばんで言い返しましたが、表情を引き締めると、凛として告げました。
「まあでも、それが得策だな。オレもなるべく離さないようにするから、お前もオレから離れるなよ? ジョルジュ」
マグが男前に笑うので、ジョルジュは幼い見た目や性別などといった些末なことは忘れ、素直にときめいていました。
かくしてマグとジョルジュは、お互いを離さぬように行動をしようと決めたのでした。
その結果、マグはジョルジュを腕に抱き、抱かれたジョルジュはマグの首にしがみつくという、少々熱烈なポーズを取ることとなりました。
マグの縦横無尽を飛んで駆ける移動方法にも、ジョルジュはやがて慣れました。
それどころか、サンゴ礁のような街並みを自由に泳ぎ回るみたいで楽しいと感じ始めていました。
ただ運ばれるだけではなく目でスリスを探し、時に目についたもので気になるものがあれば、質問をする余裕さえありました。
「マグさん! そこの表示板、この先の道にサーカスから逃げ出したトラが出るって書いてあります!」
表示板を通り過ぎたマグは、しゃべりつつ、ステップを踏むような軽やかさで引き返します。
「そりゃあ、よっと! 《偽り板》(いつわりばん)だ!」
「《偽り板》ですか?」
「ああ。嘘の情報で人々を惑わす表示板のことだ。これも《街》の――っ、とりゃあっ!」
マグが《偽り板》を回し蹴りで破壊しました。
「加害現象なんですね!」
「そうだ。悪質な偽情報で人心の不安を煽り、暴動にまで発展させることもある。……いいか、ジョルジュ。目の前の情報をただ鵜呑みにするな。オマエも人間なら自分の目と耳と脳みそでもって見極めろ。これは何も《街》に限ったことじゃないからな」
「はい!」
ジョルジュは教師の教えに答える優等生のような返事をしました。
「しっかし見つからんのう。いつもだったらその辺をチョロチョロ~っとしてんだけどなぁ」
耳の後ろの髪をガシガシ掻きながら、不機嫌そうにマグが言いました。
二人はあちらこちらを巡りに巡り、教会のある頂上へ来ていました。ジョルジュにとっては本日二度目となる登頂です。
「マグさん、あのー、言いにくいのですが……僕が財布のないことに気がついたのは、もっと下の方なんですけども」
「んなこた、わーっとるわい。スリスは移動するんだよ。落としたのとはわけが違うんだ」
「そっか、そうですね……」
ジョルジュは神妙な顔をしてつぶやきました。
「《街》は思っていた以上に容易くない場所なんですね。マグさんがいなければ、僕はこの《街》じゃ命がいくつあっても足りなさそうです」
「頻度の多い少ないはあるにせよ、他の普通の街だって同じようなものだろう。ここはわかりやすいだけだよ」
「そうでしょうか?」
とてもそうは思えないと、そんなニュアンスが含まれた言い方でした。
マグは淡々と事実を口にします。
「どんな町だって、村だって、誰かしら命を落とす。事故も、殺人だって起こりうる。《街》は危ないが治安はいいんだ。《街》は人間同士が助け合わないと生きていけないからな」
マグはゴーグルを外しました。薄いグレーの瞳がジョルジュを見据えました。
「ジョルジュもこの《街》の一員になるなら忘れるな。人間同士、守り合え。人間同士、助け合え」
ジョルジュはまた優等生の返事を返そうとしましたが、なぜだか呑み込んでしまいました。
軽はずみな返答を寄せつけない、ナイフの切っ先のような迫力がマグにあったからです。
返答に詰まったジョルジュは心の中で喘いでいました。
(何しているんだ僕は? 早く何か言わなくちゃ、「はい」って返事をしなくちゃ!)
「……はっ――」
ジョルジュはかすれた声を辛うじて絞り出しました。
しかし続く言葉は、下の方から聞こえた「きゃーーーーっ‼」という悲鳴によって遮られてしまいました。
「この声は……っ、ジョルジュ!」
「は、はい?」
「悪いが寄り道をする!」
承諾を待たずにマグは飛び出しました。
マグが進むのは道なき道ばかりで、ジョルジュは嫌な予感がしました。
「寄り道って、寄り道って……まさか、そこからぁあああああ⁉」
下り道は使わず、断崖となっている場所から眼下の街並みへ向かってダイブをしました。
よっぽど急いでいるようです。
「急がば回れって言うでしょうよぉおおおおーーー⁉」
「おー、良く知っているなー。そいつは《街》のモットーだ!」
「モットーなら守ってくださいよぉおおぉうわぁぁぁあああ!」
よせばいいのに、ジョルジュはつい下を見てしまいました。
確認できた石畳は、もうじき二人が叩きつけられるであろう落下地点です。
「着地、着地! 着地はどうするんですかマグさんんン⁉」
「そう急くなって。……よっと。いったん左腕を離すぞ。しっかりしがみついてろよー?」
「えー⁉ ヤダヤダヤダ離しちゃイヤァァー!」
「……乙女かオマエは」
マグは左腕を背中へ回し、あるものを手首に装着しました。
あるものとは、巨大な機械時計から取り外してきたような歯車型のチャクラムでした。
マグはチャクラムを前方にある建物に狙いを定めて構えます。
そしてボウガンのように発射しました。
放たれたチャクラムは真っ直ぐな線を引きながら外壁へと打ち込まれました。
チャクラムには細かな鎖を編んだワイヤーが結ばれており、マグの腕の中に仕込まれたウィンチが巻き取ることによって、対象物を引き寄せたり、逆にマグ自身を対象物へ引き寄せたりできます。
マグが今行っているのは後者でした。
石畳への激突は免れたものの、急激な方向転換による重圧が襲いかかり、ジョルジュは歯を食いしばって耐えていました。
「ぐぅっ」
同じ移動を二度繰り返し、マグは見つけました。
着地をするやいなや、マグはジョルジュを下ろします。
「ジョルジュ、オマエも来い。《街八分》(まちはちぶ)だ」
マグはやはりジョルジュの返事を待たずに行ってしまいました。
衝撃から立ち直れていないジョルジュは、揺らぐ視界の中でそれを目撃しました。
そこにはお下げを振り乱して逃げる女の子を、ひとりでに動いている植木鉢やレンガや空き瓶が後を追うという奇妙な光景がありました。
それだけではありません。
どこからともなく《偽り板》があらわれて、女の子の外見や性格を中傷し、女の子の体にまとわりついたスリスが逃亡の邪魔をしていました。
「《街》が人をいじめている……?」
他の言い表し方をジョルジュは思いつきませんでした。
故郷の農村でのジョルジュは裕福な農民でした。
家族では手に負えない大きさの畑を持ち、貧しい農民達を雇えられる富農でした。
羨みや妬みの対象である上に、気弱な性格が災いして、ジョルジュはよく貧しい農民の子供達からいじめられていました。
大勢が寄ってたかって一人をいじめる。
ジョルジュの前で行われているのはまさにそれでした。
――たすけて!
過去を思い出したジョルジュの心の叫びと、目の前の女の子の叫びが重なり合います。
「オレに任せろ」
答えたのは二つのチャクラムを構えたマグでした。
マグはチャクラムをヨーヨーのように操って、女の子に降りかかる災厄を木っ端みじんにしていきました。
「ったく、いないと思ったらスリスのヤツ、こんなところにいたのか」
あらかたを片づけたマグは、茫然自失としている女の子の前に片膝をつきました。
「カレン。遅くなって悪かったな。オレが来るまでよく耐えてくれた。偉いぞ」
「……ひっく、う、うわぁぁぁぁん! マグさん怖かったぁぁぁぁぁん!」
カレンと呼ばれた大人しげな女の子は、マグにしがみついて泣きました。
ジョルジュは二人の元へ駆け寄ろうとしましたが、ドダドタという足音が近づいてくることに気づき、何事かと立ち止まりました。
集まってきたのは武器を携えた住民達でした。十数名ほどいます。
彼らは口々にカレンの名を呼び、その安否を案じていたので、無事を確認すると一様に胸を撫でおろしました。
集まった住民達の先頭にいた、口髭を生やした紳士然とした壮年の男性が、マグとカレンの元へ進み出ました。
「おぉぉ、マグ君! 来てくれたんだね。ありがとう、助かったよ」
「おう、ヴィルヘルム。間一髪だったけどな。オマエ達もご苦労さん」
マグが労った住民達は皆、生傷をこさえていました。
「いやいや。カレンが《街八分》に遭っていると知って助けに入ったものの、スリスに邪魔されてこのざまだよ。マグ君が来てくれなければ大切な住民を守れなかった。街長としてもう一度お礼を言わせてもらうよ。マグ君、本当にありがとう」
マグに頭を下げたヴィルヘルムは、次にカレンにも頭を下げた。
「カレンには怖い思いをさせてしまったね。力及ばずまことに申し訳なかった」
「い、いえそんな! 街長さんも皆さんも一生懸命私を守ってくれたのに、私が勝手に一人になっちゃったからで……あの、こちらこそすみません! それから、ありがとうございました!」
頭を下げ合う二人の姿に、他の住民達から笑い声が上がりました。
ジョルジュは、和気あいあいとした空気から一人取り残されていました。遠い国の出来事を見るような心持でその光景に立ち会っていました。
マグはそんなジョルジュの様子に気づくと、なじる顔をしました。
そして低い声でヴィルヘルムに言いました。
「ヴィルヘルム。カレンのことはいったん任した。オレは客人の相手をしなくちゃならない」
「心得ているとも。ところで彼はいったい? もしかして移住希望者かな?」
「いや。客人だ。今のところは、な」
マグは背中を向けてそう答えました。
「……ふむ」
マグが不機嫌であることを察知したヴィルヘルムは、口髭に手を当ててその原因を思案してします。
考え事の最中に髭を触るのが彼の癖でした。
ヴィルヘルムは、マグが客人を乱暴に引っ張っていくのを見届け、そのシベリアンハスキーのような目を閉じました。
「なるほど。そういうことでしたか」
ヴィルヘルムは誰に言うでもなくつぶやきます。
「《街》は人間同士が助け合わないと生きていけませんからね」
ヴィルヘルムの耳には、集まった住民一人一人に丁寧にお礼をしているカレンの声と、それに応える気のいい住民達の声が聞こえていました。
+++
一方、人気のない場所まで連れてこられたジョルジュは、マグのその強引なやり方にとうとう我慢がならず、抗議をしました。
「イタタッ。ちょっとやめてください、痛いですってばマグさん! 何なんですか⁉」
ジョルジュの不満などどこ吹く風で、マグは問い返しました。
「どうしてカレンの助けに入らなかった?」
その灰色の瞳には侮蔑の色が浮かんでいました。
気にしていたことを指摘された上に、冷たい目を向けられたジョルジュは、ついカッとなって言い返しました。
「それは……、足がすくんで……し、仕方ないじゃないですか! 僕は今日《街》に来たばかりなんですよ? それをいきなりあんな無茶苦茶な現象に太刀打ちしろだなんて、そんなことを言う方がどうかしていると思います!」
怒りに支配されたジョルジュの心は、「自分は間違っていない、間違っているのはマグの方だ」という思いでひしめいていました。
マグは諦めたように首を振ります。
「《街八分》は明日は我が身だ。いじめの対象は無作為に選ばれる。見かけたら助けに入るのが住民のモットーだ。じゃなきゃ自分がいじめの対象になった時、誰にも助けてもらえなくなるからな」
「そんなこと言われたって、すぐにはできませんよ」
ジョルジュがいじけた子供のような口を利くので、マグは呆れていました。
「オマエは何をしに《街》へ来たんだ?」
「そんなの自由を求めてに決まっています! 《街》は危険だけどエキサイティングでもあって、最高にクールな場所だって聞いて……だから、もっと自由な場所だと思っていたのに」
ジョルジュは典型的な《街》をユートピア視する若者でした。
《街》は毎日変化をするため、住民達は柔軟に適応していかなければなりません。
その様が《街》の外の者からは自由で格好よく映りました。
そうして《街》の魅力的な噂ばかりが一人歩きをして、《街》に行けば自由に暮らせる、自分は変われると夢を抱いたジョルジュのような若者が訪れるのでした。
また、《街異物》を採取できることから一獲千金を狙った者達も多く訪れます。
そういった者達の面倒を見るのも《マチビト》たるマグの役目なのでした。
「自由は自由なんかじゃない」
マグは静かな声で言いました。
「自由って言葉は魔物だよ。ありもしない全能感を抱かせる。それにこの《街》に自由を求めるヤツは、大体が自分に都合のいい現実を自由と置き換えている。オマエはどうだ? ジョルジュ」
ジョルジュは否定をしようとして、できませんでした。
「なぁ、ジョルジュ。自由になるっていうのは不自由さを知るってことだ。自由は不自由なものなんだ。それに耐えられないなら、出ていけ」
マグはあえて突き放す言い方をしました。
夢を、希望を、憧れを、ジョルジュは打ち砕かれました。
(自由が不自由ならば、街道から《街》を目にした時に感じた幸福は何だったのだろう)
(自由が不自由ならば、《街》の美しさに感動して流した涙は何だったのだろう)
(自由が不自由ならば、自由を求めて《街》に来た僕は何だったのだろう)
絶望が垂れ込めたジョルジュの心は、拒絶反応を起こし暴走しました。
「自由は自由だ! 不自由なんかじゃない! 僕が証明してみせる! 僕は自由だ、自由な僕はスリスくらい一人で探し出せる! 《マチビト》なんかもう必要ない!」
ジョルジュの心の悲鳴に呼応するように、突如として《街》は牙を剥きました。
石畳や壁が、文字通り牙の形に変形し、マグを目掛けて噛みついてきたのです。
マグはすぐさまチャクラムで応戦しました。
しかしその隙に、ジョルジュは《街》の内部へと呑み込まれてしまいました。
「くそっ! 人見知りのくせに負の感情には引っ張られるとか、困ったねーちゃんだなぁオイ……!」
マグが文句を言うと、ピチャンと水面を叩くような音が鳴りました。