一章《街》生きている 一話
運命はしばしば人へ投げかける。
喜びを、怒りを、哀しみを、楽しみを、投げかける。
人はただ受け入れる。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、なす術もなく受け入れる。
しかし、無垢なる少女にだけは選択肢が与えられる。
少女の喜びは甘いアメ玉。少女の楽しみは雪解けの春。
少女の怒りは幼馴染の不慮の死。少女の哀しみは思い思われていた男の子の帰らぬ命。
少女はきっと喜びは受け入れられるだろう。楽しみもきっと受け入れられるだろう。
では怒りはどうであろうか。哀しみはどうであろうか。
おそらくは到底受け入れられるものではないだろう。
さすれば少女は願う、奇跡を。また少女には与えられている、選択肢が。
故に奇跡は叶えられるだろう。
だが多くの場合、叶えられた奇跡には度の外れた代償が伴う。
そして、奇跡を叶える存在というものは大抵がロクなものでない。
《街》は生きている。意思がある。街はある日突然《街》となる。
カサトトへ続く街道に一人の少年が立っていました。
年は十七、八といったところ。背は高くも低くもありません。
質素だが、仕立てのしっかりとした服を着て、メガネをかけています。
良く言えば朴訥な、悪く言えばぱっとしない風采をしていました。
少年の名前はジョルジュ。
ジョルジュの全意識は、街道の先に聳え待つ《街》に注がれていました。
小麦色に焼けた顔を「これでもか」というほどに綻ばせているのには理由があります。
《街》はジョルジュにとって一度は訪れたい憧れの地なのでした。
ジョルジュが住む農村からカサトトへは、徒歩で三日かかります。しかし、憧れの地を目前に捉えたジョルジュは三日分の疲れも忘れて駆け出しました。
《街》へ向かってまっしぐら、一目散にひた走りました。
《街》への到着は、予定していたよりも早く、昼前でした。
《街》の入り口には門番が立ち、《街》を訪れた人々の素性や来訪の理由を質問しています。
ジョルジュは今朝も散々確かめた身だしなみを今一度整え、門番の質問に臨みました。
三十代ほどの男性の門番が丁寧な口調で訊ねました。
「おはようございます。ようこそカサトトへ。我が町へは何をしに来ましたか?」
「い、移住希望です!」
「……我がカサトトは現在《街》の支配下にあります。《街》には意思があり、《街》にいる人々を害します。最悪命を落とす危険性もあります。承知していますか?」
門番のよどみない説明にジョルジュは大きく頷きました。
「はい、もちろんです!」
「わかりました。ではどうぞ、お入りください」
門がゆっくりと開かれる間、ジョルジュの心臓は早鐘のように脈打っていました。
「移住希望の方は、まず役場へ向かってください。そちらで手続きを行います。役場は、今日は東にあります。案内板に本日の地図が貼りだされていますのでご覧ください。何か困った事がありましたら、住民か、もしくは《マチビト》を頼ってください。遠慮はご無用ですよ」
「わかりました。ご丁寧にありがとうございます」
ジョルジュは門番にお辞儀をしてから門をくぐりました。
門をくぐったすぐ先は広場でした。噴水やベンチがあり、人々が憩っています。門番が言っていた案内板もありました。
ジョルジュは案内板へ駆け寄りました。
地図は大きな紙にフリーハンドで描かれていました。
細かい書き込みはなく、病院や役場などの主要施設の場所が記されているのみで、地図と呼ぶにはお粗末な出来栄えでした。
土地勘のないジョルジュが一生懸命地図を記憶していると、
「ちょっとごめんよ~」
と、住民らしい小太りの男性が、ジョルジュの前にせかせかと割って入ってきました。
男性は金髪の禿頭で、人懐っこい少年のような笑顔を浮かべて言いました。
「熱心に眺めているところ悪いけど、場所をド忘れする前に地図を更新させてもらうよ」
どうしたことかとジョルジュが面を食らっていると、男性は案内板に設置されたペンを手に取り、地図へ書き込みをしました。
「ええっと〝パン屋マシュー〟、〝営業中〟っと」
小太りの男性はペンを置くと、ジョルジュに振り返りました。
「すまなかったね、割り込みをしてしまって」
「いえ。ところで今のはいったい何をしていたんですか?」
「何って地図の更新だよ。ひょっとして、お兄さん《街》は初めてかい?」
「はい! あ、僕はジョルジュと言います。移住希望者です」
小太りの男性は「そうかい、そうかい」と人懐っこい笑みを浮かべました。
「おじさんの名前はマシューってんだ。今書いた通りパン屋をやっているよ。移住希望なら贔屓にしておくれ」
さりげなく自分の店を宣伝したマシューが更に続けます。
「ジョルジュ君は《街》が生きていることは知っているね?」
「ええ。――生物のように意思を持っていて、毎日街の形を変えるんですよね」
「そう。だから地図も毎日新しくしなきゃならない。けど細かい書き込みをしていられないから、病院とか役場とか重要な場所だけを書いて、あとの場所は住民達に委ねられているんだよ」
今はまだお昼前だから書き込みが少ないけれど、お昼を跨げば賑やかな地図になるとマシューは付け足しました。
「移住の手続きが済んだら、おじさんのパン屋に来るといい。街一番のパンをご馳走してあげよう」
下手くそなウインクを残して去っていくマシューを、ジョルジュは手を振って見送りました。
視線を地図へと戻したジョルジュは、感激した様子でしきりに頷きました。
「そうか。これが今日の地図か……。すごい。本当に生きているんだ、この《街》は……!」
大興奮したジョルジュは広場を後にしました。
役場の場所を完全には把握できていませんでしたが、《街》への好奇心が勝ったのです。
(《街》の観光も兼ねて一通り探検してみよう)
(歩いていれば、いずれはたどり着くだろう)
村育ちのジョルジュはそう高を括り、人で賑わう大通りを選んで進みました。
大通りを行くと世界が一変しました。
《街》にはサンゴ礁のように豊かな色彩が溢れていたのです。
この世の色という色が《街》にはありました。
精緻を凝らした多彩な名画でも敵わない、生命の美が宿っていました。
ジョルジュは、あまりの色彩の多さに目が耐えられず、パンクしてしまうのではないかと思いました。
それでも《街》を眺めることをやめられませんでした。
ジョルジュは辺りをキョロキョロと見渡しながら、大通りをうろつきました。
行き交う住民や、行商人や、店先に立つ人々は、コーラルフィッシュのように鮮やかな服装をしていませんでしたが、活気に満ち満ちていました。
ジョルジュが耳を澄まさなくても、商人の生きのいい声が四方八方から聞こえてきます。
「いらっしゃい、いらっしゃい! うちは今日は魚屋だよ! 取れたて新鮮! なんてたって今朝方空から降ってきたんだ! 《街》の粋な計らいってやつだな! 生け簀を用意するのに苦労したけどよぉ……。そぉら、ピチピチ跳ねてるぞー!」
聞き捨てならない謳い文句にジョルジュが目を向けると、大小様々な川魚が店先の生け簀の中をところ狭しと泳いでいました。
「わぁっ、すごい!」
ジョルジュは思わず歓声を上げました。
すると、店主がうれしそうに声をかけてきます。
「お! メガネの兄ちゃん、あんた見ない顔だね、どうだいすごいだろう?」
「はい! 本当にこの魚達が空から降ってきたんですか?」
「あたぼーよ、こんなことたぁ《街》に住んでりゃザラにある。なんてたってこの《街》は、《針の雨》なんておっかねーもんも降らせちまうんだからよ」
そう言った後で店主は「ガハハハハ!」と豪快に笑いました。
店主の話を一瞬信じかけたジョルジュでしたが、冗談だと気が付き、店主に合わせて笑いました。
ひとしきり笑った後、店主は人のいい商人の顔で言いました。
「でだ、一匹どうだい、メガネの兄ちゃん? 炭火焼にしてやるぞ」
「――じゃあ、その胸ビレのところが黄色っぽくなっている魚を一匹ください」
「あいよ! 毎度あり~!」
店主が網で魚を掬う傍ら、ジョルジュは財布を用意します。
しかし、ショルダーバッグの中をいくら探してみても財布が見つかりませんでした。ジョルジュは決して落としたりしないように、バッグと財布を紐で結んでおきました。
それにもかかわらず、財布はなくなっていたのです。
ジョルジュは店主に事情を説明しました。
すると店主は腕組みをして、訳知り顔でこう言いました。
「こりゃあ《街》に財布を掏られたな、メガネの兄ちゃん」
「……え? す、掏られるんですか⁉ 街に財布を⁉」
「ああ。《街》に初めて来る奴ぁおしなべてな」
「えーーっ⁉ ど、どうしよう! どうすれば? あれには当面の生活費が入っているのに……」
店主はわかりやすく路頭に迷うジョルジュの肩を叩きました。
「安心しろ、メガネの兄ちゃん。《マチビト》に助けを求めな。それですべて解決すらぁ」
「まち、びと……?」
「何でぇ、《マチビト》も知らねぇのか。メガネの兄ちゃん」
「《街》の住民とはわけが違うんですか? てっきり《街》独特の言い回しなのかと」
「違う、違う。《マチビト》ってのは《街》のスペシャリスト集団のことでな、《街》から俺ら住民達を守ってくれているんだ。何でも《マチビト》は組織を作っていて、一つの《街》に必ず一人の《マチビト》が就くようになっているんだとよ」
「知りませんでした……」
ジョルジュの住む村には《マチビト》の話が伝わっていませんでした。
肩を落とすジョルジュの背中を、店主が励ますように叩きました。
「メガネの兄ちゃんみたいな新入りの面倒を見るのも、《マチビト》の仕事のうちだからよ。行ってみるといい。この時間ならアルマーテの食堂にいるはずだぜ」
背中を叩かれたジョルジュは気を取り直して答えました。
「アルマーテの食堂ですね。ありがとうございます! 行ってみます!」
まだ憧れの《街》に着いたばかりです。落ち込んでなんかいられません。
ジョルジュは店主へお辞儀をすると、意気込んで駆け出しました。
「おーい、メガネの兄ちゃーん! アルマーテの食堂に行きたけりゃ空を見ろ! 何だこりゃってもんが浮いているその下が目的地だ!」
ジョルジュは手を上げて答えました。
店主の助言らしき言葉は、いまいち要領が得ませんでしたが、とりあえず従ってみることにしました。
大通りは途中から緩やかな上り坂へと変わりました。
カサトトは平板な地形の街だったのですが、《街》化に伴って中心部が競り上がり、山の斜面に築かれたような街並みへと様変わりしました。
ジョルジュは空を見上げながら大通りを駆け上り、頂上へ達しました。
頂上には今日は教会がありました。
教会の扉は開かれており、中の様子がうかがえます。
年若い神父が集まった子供達に本の読み聞かせをしているようでした。
それを横目に眺めながら、ジョルジュは《街》を見下ろしました。
思わず息を忘れるほどの絶景が広がっていました。
高所から一望する《街》は、下から眺めた時よりも更に美しく感じました。
サンゴ礁の街並みは空の深い青さと相まって、まるで本当の海中世界のようでありました。
「知らなかった、世の中こんなに美しいものがあるなんて……、星空よりも美しいものがあるなんて、知らなかった」
ジョルジュは我知らず、はらはらと涙をこぼしていました。
ややあって感涙が治まったジョルジュは、頂上をぐるりと一周しました。
すると、店主の言葉通りのものが目に飛び込んできました。
「な、何だこりゃ……⁉」
見たことも聞いたこともない円盤状の生物が宙に浮かんでいました。
背ビレのようなものと尻ビレのようなものが上下に長く突き出ています。
その形は少し太陽を連想させました。
口は小さく、おちょぼ口のようにすぼまって見えます。
どこを見ているのかわからない目をして、ちょっととぼけた顔つきでした。
「見たことないけど、魚なのかな……?」
ジョルジュの育った農村は海から離れているため知る由もありませんが、眼下にあるそれはマンボウを模した浮遊物でした。
マンボウ型の浮遊物は、尻ビレの先からロープが伸びていて、とある建物とつながっていました。
「何だこりゃってもんが浮いているその下が目的地! 魚屋さんが言っていたのはこれに違いない!」
ジョルジュは来た道とは反対側の道を下っていきました。
あれだけ大きな目印があれば、土地勘のないジョルジュでも、たどり着くことはさほど難しくありませんでした。
「ここがアルマーテの食堂。宿と兼業しているのか」
看板には「アルマーテ食堂兼宿屋」の文字がありました。
ジョルジュは食堂の中へ入りました。
ドアベルが鳴り、ウエイトレスがやって来ます。
十代後半ほどの、金髪を二つに結んだ女の子でした。
「いらっしゃいませ~って、うわわぁ⁉」
ウエイトレスが何もないところで躓きました。
「え? ちょっ!」
ジョルジュは慌てて助けに入り、間一髪でウエイトレスの肩を支えることに成功しました。
「スススス、スミマセンお客様!」
「い、いえいえ」
思いがけず女の子と接近したジョルジュの頬が、赤く染まっています。
対するウエイトレスは、よくあることなのか「またやっちゃったぁ~」と神妙な顔をしています。
罰として自分の頬をつねると、気を取り直して笑顔を向けてきました。
「大変失礼しました、お客様。お食事ですか? それともご宿泊ですか?」
「えっと、そのどちらでもなくて……」
「はい? ああ、じゃあ《マチビト》さんですね?」
ジョルジュが用件を告げる前に、ウエイトレスが言い当ててしまいました。
「《マチビト》さんでしたら、あちらです。窓際の一番奥の席にいる――」
ウエイトレスが手で示した先をジョルジュの目が追います。
窓際の、おそらくは一番日当たりのいいテーブルでした。
テーブルの上にはラムネ瓶が一本。
その前に座る人物は黒いゴーグルのようなものをつけ、黒いマントで体をすっぽりと覆っていました。
顔は見えないものの、体躯は小さく見るからに子供でした。
「――あの方が《マチビト》さんです」
首を傾けながら微笑むウエイトレスと、彼女に《マチビト》と紹介されたその子供を、ジョルジュは交互に見比べました。
ジョルジュは信じられないといった面持ちをしており、メガネも若干ずり落ちています。
「え? あの人が?」
「そうですよ」
ジョルジュは一つ手前の席に座る、見るからにゴロツキの強面の男性を指さして言いました。
「あっちのゴロツキっぽい人じゃなくて?」
ジョルジュにゴロツキっぽい人と認定された強面の男性が吠えました。
「あぁん⁉ 誰がゴロツキっぽい人だゴラァッ⁉」
「ええ、違いますよ。あのゴロツキっぽい人は強面で筋肉隆々のくせして、実はケンカも虫もとっても苦手なか弱い人なんですよ~」
ウエイトレスにサラッと弱点をバラされた強面の男性は、大人しく席に着き、身を縮めていました。
「《マチビト》さんはその奥にいる、フラミンゴ色の髪をした方です。――おーい、マグさーん! マグさんにお客様ですよー?」
マグと呼ばれた、見るからに子供の《マチビト》が顔を上げました。
《マチビト》はまずウエイトレスに頷き返し、次にジョルジュに向かって手招きをしました。
ジョルジュはしばし逡巡しましたが、
「マグさんがおいでおいでしてますよ、お客様」
そうウエイトレスに促され、窓際の一番奥の席へ向かいました。
《マチビト》の前に立ったジョルジュは改めて訊ねます。
「あの、あなたが《マチビト》ですか?」
《マチビト》は目元のゴーグルを外しながら答えました。
「ああ。オレが《マチビト》のマグだ」
ゴーグルの下から現れたのは、可憐な少女の幼い顔でした。