06:地面~コミュニケーション~終焉の予感
もし機会があるなら音楽を、PINK FLOYD「Wish You Were Here」、NICK DRAKE「Pink Moon」、MY BLOODY VALENTINE「Loveless」などを聴きながら読んでみてください。それらを流しながらこれを書いていました。
遠くの方の、湖の際の土が、不思議に盛り上がっている。盛り上がりは、その下に何か生き物がいることを示していて、不規則に位置が変わり動いている。ジッとよく眺めてみれば、それは地表に同化した影が、寝転がってモゾモゾと、右に左に地表を這っている姿だった。影と土は一つになって映る。
何か胸の奥の方をくすぐられたような少女は、素早くうつ伏せになった。手足をベタリと地面につけて、地面から水平にその方をそっと覗き見た。土の盛り上がりの動きが止まる。
お互いがお互いを意識して、警戒し合っているのが伝わってくる。なおさら楽しくなってくる。絶対に捕まえてみせる、少女の気持ちは更に固くなる。
少女は右手を這うように、ゆっくり地面を滑らせた。
影は、動かない。
今度は、左手を。
まだ、動かない。
右、左、右、左、その姿は小さな爬虫類のように、細心の注意を払って、モソモソと近寄っていく。息を出来るだけ細めて、自分は石ころか土くれになり切る。時折止まって明後日の方を見たり、目をつむってみたりして。
狙い定めた餌にじりじり近寄る動物のように、互いの間に張られた糸を切れないようにと、様子を見ながら慎重にたぐるように、時間を掛け時間を掛けて、距離を零に限りなく近づけていく。
真上に、乗っかる。そこには、少女の姿だけのようだった。一人で地面に這いつくばっているだけのようだった。
白い地面を、細かい石ころや砂を、見る。小さな隙間の黒い無数を、見る。息を吹きかける。砂の一粒がそれぞれ渦に巻かれて、ある粒は縦に小刻みに震えるように跳ねたり、水平に舐めるように流れてなだらかな波を作ったり、地面に押さえつけられ少し苦しそうにしがみついている、砂。
吹く度に、砂の表面の粒は、位置を変え形を変える。同様に、砂と砂の隙間の無数の黒い穴も、目にとまらない物凄い速さで……プツプツプツ……細かくあちこちに動いていく。
「見えてるよ」
黒い穴の奥に向かって、少女は悪戯にそう投げ掛けてみる。
しかし砂の向こうからは何の反応も来ない。
「ねえ、この壁は決して断絶してはいないよ。いつもどこかは繋がってる。私の体温感じる?」
そう言って少女は、砂の上に手の平を乗せた。そこから微かな呼吸の風を感じる。触ることは出来ないけれど、そこに居ることを感じることは出来るから、伝える。
「隠れていないで、怖がらないで出てきて。怖いのは、あなただけじゃないから」
砂の向こうは依然、沈黙し続ける。
少女は、手をつけていた腕を真っ直ぐ伸ばしていく、膝をつけていた足を伸ばしていく。肢体を緩め落としていって、ベタリと地面の上に、全身をくっ付けて寝そべった。少女が耳を付けた砂の面、そのすぐ裏側を擦る指の音が聞こえる。指が立てられ、とても静かに、こするというより、さすっているかのような音が、ほんの微かに聞こえる。
少女は指先で、砂越しに叩いて応えた。相手の指が砂面から離れたのが分かった。少女は自分のしたことを少し後悔した。
でも少女は、指で叩き続けた。ゆっくりと静かに、決して脅かさないようにと慎重に、二回のリズムで叩く。繰り返し同じテンポで。トントン、トントン、トントン、トントン、眠りを誘うような優しいリズムで。
そのうち、指の先の砂の裏側に、影の手のひらが、こちらの指先を受け止めるような形で、当てられていた。少女は更にゆっくり、指を当て続けた。トン、トン、トン、トン、トン。二回のリズムから一回に変えて。更にゆっくり、静かに。止まりかけるほどに、当てる一つ一つの音を長く伸ばすように。
そしてやがて、指はピタリと砂の上に止まる。砂を境に、二人の指と手のひらが、それぞれ向かい合う。
「見える?」
少女は体を少し横にずらして、背中の向こうの景色を砂面の前にさらした。
空の只中に浮かぶ太陽は今、まるで急速に高いところへと昇り詰めようとする様に、あるいは空の底へと沈みこんでいくように、その大きさを小さく一点へと集中していっていた。もうほとんど空の青色が、その逞しい姿を呑み込んでしまいそうだった。消えゆこうとする最後のともし火のような太陽の光は、しかしまだぎりぎりの力を保っていて、潰えてしまう最後まで世界を照らし続けようとしていた。
空の青さは少し前よりも一層増していて、厚く何重にも塗りたくられたような濃さと深さを持っている。天の色は少しずつ黒さを増しつつあり、かつての目に沁みるような鮮やかさは徐々に失いつつある。
変化は、経過を物語っていた。変わらないものと思えたそれは、影の記憶が生まれる毎に、この世界の終わりへと近づいていく。でもそれは、元のところへと戻るということだった。全ての元は闇であり、徐々に闇へと還り始めていた。
少女は頭を上げて、辺りを、湖の上から、湖畔、学校の方、山の方、巡り見た。絵のように止まった姿があるばかりだった。今はもう、ずっと少女の声ばかりが湖面に硬く響いていた。
「寂しい」
その言葉は、少女の心の全てを表していた。この世界の終わりがくることを、ある程度はずっと心に留めてはいた。でもこの時、少女は思ったことを素直に、率直に口にした。
指を開いて、手のひらを、砂の上に当てた。その反対側にある手と合わせるように。
そして口惜しそうに、砂の面を摩り始めた。二人の間の壁を削り取ってしまいたかった。何度も何度も擦り続けて、こちらの体温を相手に伝えたかった。細かく立った砂や石のつぶてが、手の皮膚につき立ち、執拗な刺激に徐々に痛みが出てきた。我慢できる程度に、ゆっくり摩り続けた。次第に感触が麻痺するようになってきた。手のひらを痺れさせながら、ずっと繰り返し続けた。
やがて砂の面が、少し歪んだ。
初め気のせいかと思ったその感覚は、徐々にたわみが大きくなっていくことに気付くことで、確信の喜びを得た。裏側の突き立てられた影の手の指も、激しく砂の面を擦りつけていた。砂面は、柔らかい布のように、しかし決して破れない鉄のように、大きく湾曲し、揺れ動いていた。
二人は指を立てる。爪の間の痛み、むしろその爪で削るように砂に当てて、懸命に擦り続けた。しかし、どれだけ経っても、何も変わることは無かった。
そして影が、手のひらで柔らかく面を叩いた。もう止めよう、という合図であることに少女はすぐ分かった。その意思は伝わったので、だからすぐに少女も止めた。止めてしまったら、余計に悲しくなってきてしまった。少女は急速に、奥より込み上がるものを抑えることが出来ず、突然に、涙がこぼれた。少女は傷の付いた手のひらで、あえて涙を拭いて、その痛みに耐えた。痛みを与えて、自分を苦しめたかった。
そしてその痛みは、少女の意志を固く立たせた。自分に出来る精一杯を、起こしたかった。
「手を、強く当てて」
少女は涙を鎮め、地面を見つめる。二人は力を込めて、手をあてがった。砂と砂の間に、皮膚を少しでも押し込もうとした。もう少しで二人は触れられそうなのに、あと少しがどうしても縮まない。ほんの僅かな厚みの砂の壁が、絶対的な距離を作り出している。
もっと押し込む、砂の間には黒い隙間があるのだから、こうすればきっと届く。力を込めて震えながら、あと少しを埋めるために、身体すべてを懸命に密着させて。
少女の前髪が、揺れた。さらに続いて、揺れた。そよいだ。それは影の吹いた息が、砂壁越しに、通り抜けて少女に届いたのだった。その唐突の感覚に驚いて、少女の息は一瞬止まる。しかしやがて少女は平静さを取り戻す。細く緩やかに届くその息に、温かさと共に安らぎを与えられる。そして今度は少女の方も、影の息が一旦途切れるのを待って、同じものを返す。頬や額を撫でるように、息を伸ばして触れようとする。
記憶を持たない赤ん坊が、眠りの間際、母親の腕の中であやされながら子守唄を聴いている、そんな優しい息吹きを、二人は感じ合っていた。
「さようなら」
二人はそう言葉を交わし、最後にもう一度、砂壁越しに手を合わせた。影は地の底へと吸い込まれていくように、奥の闇の中に消えていった。
少女は体を起こした。少女はまた、涙を流していた。けれど、目のまぶたはもう腫れてはいない。涙は細く静かに垂れ続けている。ほとんど切れそうなほど薄く、いつまでも続いている。枯れることを知らない大地の生命力、染み出る山河の源流のように、弱弱しくも淡々と。
けれど、もう今はただ、涙を流してばかりではいられない。雫を落としてばかりではいられない。涙は、それをすくい、与えるためにあるのだから。決して無駄にしてはならないから。