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蟻地獄の少女は……

 ああ、とうとう八月も終わり。


 あの雨の日の偶然の再会からしばらくの間、僕と日山、そして野々宮の間はいたって平穏な、静かな海辺のような空気が、湿気っぽい空の下に似合わず広がっていた。幸か不幸か、野々宮に言い寄ってくるような男も、因縁をつけるような相手もおらず、彼女は学友たちと一緒に平和なキャンパスライフを過ごしていたので、僕たちは安心して大いに講義をさぼっていた。

「――なるほど、思いのほか平和な状況にある、というわけだな。ならば安心だ」

「まさか真樹さん、こうなることを予期していて、僕に下請けしたんじゃないでしょうね」

「当たらずとも遠からず、かな。越州傘岡、若き女の陰に七紙魚神社あり、と言われるくらいじゃないか。きみのような好事家が知らないとは言わせないぜ」

「参ったなァ……」

 講義を抜け、日山にくっついて彼のなじみの古書店「真珠堂」へ来た僕は、店主である青年・真樹啓介の長い前髪越しにあびせられるけだるい視線を受けつつ、お茶菓子代わりに出された焼き鳥をほおばっていた。

 その間、日山はこうして、話を振ってきた張本人である真樹さんと話をしているわけなのだが、いったいこの真樹啓介という人は、どこでこんな人の縁と、奇妙な知識を得てくるのだろう、と思うほど、二人の会話は濃密だった。

「――で、宮坂くん。君からみて、野々宮みすずという少女はどういう子なんだい。率直なところを教えてくれよ」

 いきなり話の矛先がこちらへ向かってきたので、のどにひっかけそうになったつくねを無理やりお茶で飲み下すと、僕は息を整えてから、素直なところを話してみた。

「僕の知っている中で、あれほど清純派、という印象にぴったりな子はいないですね。まあ、今度の一件で、案外大胆なところもある、というのには驚かされましたが……」

「ふーん、清純派……でいて、案外大胆、か」

 しばらく、真樹さんは目を右へ左へ動かしていたが、やがて膝を打つと、

「君、過去にあの子へかなわぬ感情を抱いたことがあるだろ。ないとは言わせないぞ……」

「へえ、そうだったのか。なるほど、そういうこと……」

 と、日山ともども妙な笑みを浮かべて僕をみつめてくるではないか。

「そ、そんなことは……ないといったら、嘘になるなぁ」

「――やっぱりな。彼女の話が出るたびに表情が豊かになってるなあ、とは思ったんだ。口では隠せても、心のうちは隠せないらしいぜ、宮さん……」

「ばれてましたか……」

 日山に痛いところをつかれ、僕はとうとう、彼女に対する感情をありのままにさらけだした。確かに、僕は高校時代、年齢に似合わぬしっかりとした性分の野々宮にうっすらと好意を寄せたことがあった。ただ、なんとなくその時は、僕には勿体なさすぎる美人だ、という、やや卑屈な思いが勝さって、言わずじまいになったのだったが。

「ところが、こうして何の因果か再会しちゃって、二年ぶりに気持ちに火がついてさ。でも、かといって七人目の死人になりたかねえし、だいたい、あいつからしたらオレはただの先輩だぜ? 同級生にもっといいのがいるんじゃないか……? とか、思っちゃうわけ」

「なるほどねぇ……」

 ちゃぶ台の上の急須から、自分の湯飲みへお茶を注ぐと、真樹さんはひと口飲んでから、しばらく腕組みをして考え込んでいた。が、そのうちに手をほどくと、

「ま、正直なところ、こればっかりは彼女次第だろう。宮坂くん、君はしばらく、そうやって悶えてなさい」

 と、やけにドライな調子で突き放すように言ってのけたが、そのすぐあと、

「だってさ。さすが、十九そこらの女子大生にアタックされて負けただけのことは――」

「馬鹿ッ、その話はするなと……! 宮坂くん、今のは忘れなさい。ほら、つくねもう一本上げるから……わかったね?」

 日山の口をふさいで、しきりに焼き鳥をすすめてくるあたり、真樹さんにも何か、恋愛事情に関しては複雑な諸々があるのかもしれない。

 ひとしきりの話も終わり、僕と日山が真珠堂を出たころにはいくらか日も傾いて、どことなく閑散とした雰囲気がそこかしこに漂っていた。いつものように日山と別れ、混みだした市電の、どうにか空いていたロングシートへ腰を下ろすと、お茶うけの焼き鳥のせいでいくらか眠くなっていた僕は、舟をこぎながら近くの電停まで運ばれることとなった。足元からあがる、つりかけモーターの鈍い音は、ひどく眠気を誘うのだった。

 自動ドアの開く音に目を覚まし、ねぼけた手つきで財布の中の回数券をさぐると、僕は集札箱へそいつを放り込んで、涼しい風の吹く電停の上に降り立った。夕方特有の、どことなくけだるい雰囲気がただよう電停の上には、僕のほかには上り電車の来るのを待つ客が数人、新聞や携帯電話を片手に、反対側の線路をじっとうかがっているばかりだった。

「帰ろ……」

 口の中でつぶやき、住宅街へ続く道を渡りかけたところで、ふと、視界の隅に、どこかで見たような、猫背気味の男が立っているのに気が付いた。

 ――誰だったっけ……?

 気にはなるものの、いちいち相手にするのも面倒くさく、そのまま通り過ぎてしまおうとすると、相手のほうがこちらの前に立ちはだかり、おい、と、ひどく座った声で話しかけてきた。

「――野々宮みすずの先輩の、宮坂昭だな」

「おい、どうしてそれを……!」

 見も知らない相手から声を掛けられ、僕の体はすっかり固まってしまった。逃れようにも足が重く、張り倒そうにも手が出ない……そんなところなのだ。

「――いいか、野々宮に伝えておけ。三日後の正午、七紙魚神社のご神木の前まで来い。約束を守らないと、死、あるのみだと、そう言っておくんだ……」

「おいっ、ちょっと、まてっ」

 だが、こちらの緊張がほぐれ、相手の顔へ手をのばせそうになった時には、フードパーカーを深々とかぶったその男は、悠々たる調子で、数メートル先へと走り去っていたのだった。

 ――何か始まりだしたな……。

 下り電車の鈍いモーターの音が、遅まきにあがったこの奇妙な出来事の幕開けを伝えるように近寄ってきていた。

 ともかく、こんなことを放っておくわけにはいかず、その日のうちに日山と野々宮へ話を伝え、相談の結果、三日後の約束の時間は三人連れで七紙魚神社へ行こう、ということになった。

「とうとう、来るべき時が来たか……」

 迎えた当日、朝からの雨をやり過ごすべく、いったん「いこい」へ集まった僕たちは、コーヒーカップを持ったまま、やり場のない感情をどうにか胸の内にひっこめて、天候の回復を待った。

「いったい誰なんでしょう。足が速い人なんて、探せば大勢いるけれど……」

 心当たりが思いつかないのか、話を聞いて以来、野々宮は浮かない顔をしている。そこへ日山が、持ち前の人懐っこい顔で、

「――ま、会えばわかるでしょ。別にやっこさん、単身で来い、とは言ってなかったんだ。こうしてオレたちが来たからには、すっかり泥を吐かせるさ。なあ?」

 やつの無理くりなこじつけに辟易しつつ、まあねえ……と返事をしかけたところで、どこか遠くのほうから、激しい雷の音のしたのに気付いて、僕は言葉を喉の奥へ引っ込めた。

「ひどくなってきましたねぇ。落ち着くまではもうしばらくかかりそうですよ」

 お冷を運んできていたウェイトレスの言葉に、だれかれともなく、うーん、と唸ってしまった。このまま無理に向かって、雷の餌食になってもたまらない。仕方なく、遅刻を承知で、僕たちは待ち合わせの時刻ぎりぎりまで「いこい」のテーブルへ粘ることになった。

 雨雲もどこかへ消え、正午を少し過ぎたあたりにようやく七紙魚神社の門前に近い電停へつくと、普段ひっそりとしているはずの境内のほうがやかましいのに気づいて、胸騒ぎを覚えた。こんな天候の中で縁日があるわけでもないだろう、と鳥居のほうまで行くと、救急車とパトカーの中から、お巡りさんや救急隊員がタイガーテープの向こうとこちらをひっきりなしに往復しているのがわかり、不安が確信へと変わった。

「ついに、七人目の死者が出たらしいな……」

 雨上がり特有の、湿気を含んだ風が、僕たちをくるむように吹き付けて行った。

「――で、結局、死んでいたのは誰だったんだい」

 しばらくたって、事の顛末を伝えに「真珠堂」をたずねた僕たちに、若き店主・真樹啓介はけだるげな調子で、七紙魚神社での待ち合わせの最中、雷を受けて死んだ、七人目の死者となった学生のことを問いただした。本格的な梅雨がはじまり、それでいながら、ひどく暑い、ある日の午後のことである。

「落雷で死んだのは、野々宮さんをひそかに付け回していたストーカーだったんですよ。亡くなった後、部屋から隠し撮りの写真がわんさと出てきまして……」

 そこまで聞くと、真樹さんはしばらく腕組みをしてから、罰が当たったのかねえ、とどこか嘲るようにつぶやいた。

「まあ、そうなれば宮坂のことを知ってても無理はないでしょう。彼氏か何かと勘違いして、あの日は本人を前に、別れろだのなんだの、迫るつもりだったのかもしれませんよ」

「なるほどねえ……」

 話がひと段落したのを合図に、真樹さんはお茶のお代わりを出すと、買い置きだというざらめせんべいを小皿に入れて、めいめいの手元へと配った。

「そういや、とうの野々宮さんはどうしてるわけ? 七人死んで、苦痛でとうとう仏門にでも入ったり?」

「んなわきゃないでしょう。元気に学生生活やってますよ。あんな形とはいえ、懸念事項がきれいさっぱり消えたんだから……」

 僕がいくらか苦言を混ぜながら返すと、真樹さんはふーん、と前おいて、こんなことを言いだした。

「しかしまあ、しばらくはあの蟻地獄みたいな子も、なにかと苦労が絶えないだろうねぇ。ことに、自覚がないんじゃあ……とくにね」

「蟻地獄? 真樹さん、そらまたどういうこと……?」

 日山の問いに、真樹さんはウスバカゲロウって知ってるか? と聞き返してきた。カゲロウといえば、羽根が透き通っている、命短し、はかなさの象徴のような昆虫だったはずだ。

「カゲロウは寿命が短いんだが、ウスバカゲロウだけはちょっと長生きでな。で、その幼少期の名前が、俗にいう蟻地獄というわけなんだが……。まるでそっくりじゃないの、男という名の蟻を引きずり込んで、自身はその人生を謳歌するなんてとこは――」

「真樹さん、それじゃあんまりです。野々宮が悪女だって言うんですか」

 耐えかねて声を張ると、真樹さんはまあ、終いまで聞きなよ、と、立ち上がった僕をなだめた。

「本人がそれを意図しているなら別だが、この場合に限っては、呪いの札を買った以外は、まるきり無罪放免さ。ただ単に、彼女が背負っている、生まれながらの業のようなものが、蟻地獄みたいだと、そういいたいだけさ」

「しかし、そうなると彼女もなにかと苦労が絶えんでしょうねぇ。愛する伴侶まで、なにかのはずみで失ったりしたら……もう絶望だろうなぁ。で、だ」

 と、日山が正座をしたまま、器用に僕のほうへ座り直し、こちらの目を食い入るように見つめてくるので、僕はなんだよォ、と引き気味に尋ねた。

「宮坂。お前は苦労多かりしあの子を、ただただ放っておくような薄情な男じゃあないだろう。だが、そうなると、お前さんにも多かれ少なかれ、不幸が降りかかってくることになるのかもしれないぞ。それでも宮坂、お前は彼女を守る……いや、愛するのか」

 胸の内をすっかり見透かされているのがわかって、僕は驚いてしまった。たしかに、あの一件以来、僕の野々宮への好意は日増しに熱を帯びていた。これは、まぎれもない事実だった。

「――ああ、もちろんだ。彼女の返事次第だし、あまり期待はしていないけど……。あの子、みすずのことは心の底から愛している。これは偽らざる本心さ。たとえ、俺自身が蟻地獄の中へ落ちようとも、な」

 照れやケレンもない、真正直な顔で自分の本音を吐き出すと、真樹さんと日山は顔を見合わせてから、満足そうな笑みを浮かべ、僕のほうへ向き直り、こういうのだった。

「安心しな。蟻の世界には縄をかけてやるようなやつはいないが、人間の世界にはいる。不幸なカップルを見るのは性に合わないから、いざとなれば縄ぐらい、投げてやるよ」

「――だとさ。もちろん、おれもそのつもりだからな……」

 二人の心強い味方がいれば、おそらく、僕自身も、そして、野々宮みすず自身も、ある程度は救われるのかもしれない。たとえ、一緒に蟻地獄に吞まれるようなことがあったとしても、きっと最後の最後に、挽回の秘策が浮かぶのかもしれない。この二人ならば……。

 いったい、彼らはどうなっていくのでしょう。こればかりは神のみぞ知る領域でしょう。

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