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めちゃくちゃに頭を振って逃れようとした。
けれど、姫の左手によって額が柱に押し付けられた。動かせない。
あたしは覚悟を決めた。
ぎゅっと目を閉じる。
ダスティンの姿が自然と脳裏に浮かんだ。
と同時に、こめかみに鋭利な衝撃が走る。
ガン!!!
「どうして?!」
姫の叫び声。
頬を生温かいものが伝う感触も。
(血が流れてる…。けれど、あたしは生きている?)
目を開けると、姫が二撃目を繰り出すところだった。
咄嗟に首を振る。
額の手は、一撃目の失敗の後外されていたのか、容易に動かすことが出来た。
どん!と頭の後ろで音がする。
柱に、杖の刃物が突き刺さる音だった。
気付けば目隠しが外れていた。
いや、一撃目で切れてしまったのかもしれない。
見上げると、悪魔のような形相の女が、柱に突き刺さった刃物を抜こうと荒い息で肩を上下させていた。
暖炉の炎が照らすその姿。銀の髪に菫色の瞳、アラバスターのように輝く肌。王様が、『欲しくならない男はいない』と言った意味がよく分かる。
ただし、その表情は、様々な醜い思惑に塗れていた。
(これが、ダスティンが数百年を捧げた女…)
「ええい!忌々しい!どうしてくれようか!」
そこではっと思い当たった。姫があたしに刃物を突き立てた場所には、骨がある。
彼女の非力な力では、それを突き破ることは出来なかったのだ。
しかも、あたしの意識がはっきりとしているということは、受けた衝撃も大したものではなかったということ。
「こめかみは急所だと聞いていたのに…!!!」
確かにそうだろう。こめかみに強い打撃を受けていれば、今頃あたしは昏倒している。
力の強い男に刺されていれば、その刃は確かに骨を突き抜けて、あたしの命を奪ったはずだ。
だが、姫はあたしの命を奪えなかった原因をそうとは思わなかった。
「お前…魔法を使ったわね…」
後ろに一歩後ずさり、両手を縛られているあたしから、距離を取る。
姫は、あたしの魔力が封印されていることを知らない?!
あたしはごくりと唾を呑む。
そして、一か八かの賭けに出た。
「だったらどうする?」
少しでも余裕のある顔を作ろうと、必死で口角を上げる。
上手くできているとは思えなかったが、姫はその瞬間、恐怖に捕らわれた顔をした。
「見ないで…」
さらに後ずさる。
「その真っ黒な瞳で、見ないで…。見ないで!!!」
とうとう足を取られ、姫は倒れ込んだ。
姫はあたしがこの目を使って魔法をかけると思っているに違いない。
さらに強い眼差しで、睨みつける。
「ああ~~~~!!!見ないで!!!見ないで~~~~!!!」
完全に形勢が逆転したと思ったその時だった。
狩猟小屋の扉が、閂ごと吹っ飛ばされるように開いたのは。
「ジリアン!!!」
飛び込んできたのは、ダスティン!
黄金の髪を振り乱し、長剣を片手に息を切らしている。
そして、あたしの姿を一目見るなり、その表情は憤怒に変わった。
あたしを見ながら怯えている姫。
ああ!姫を害する人間に、あんたは容赦をしないってことなのか?!
ずきんと胸が痛くなって、さっき死んでおくんだったとすら思う。
けれど、彼はその形相をそのまま姫に向け、ぎりぎりと奥歯を噛みながら声を絞り出した。
「マルティエーヌ、いや、マグノリア、これはどういうことだ?」
姫の顔色は紙のように白くなり、ガタガタと震えだす。
ダスティンはもしかして、姫に怒っているの?!
しかも、その表情は完全に冷静さを欠いている。まるで言葉の通じない獣を前にしたような恐怖感。
「おのれ…。モーリッツのところに俺を行かせたのは、このためだったのか…」
長剣を持つ彼の右腕に力がこもるのが分かる。
そして、その剣が、すでにたっぷりと血を吸っていることも。
(まさか、姫を殺す使用人、モーリッツを殺してきたんじゃ…)
「ダスティン・メレビウス。剣を捨てろ」
突如、別の男の声がした。
そして、ダスティンの昔の名前を口にする。
もしや、紅血の契約の第三の人物、モーリッツ?
声のする方に顔を動かせば、ダスティンの後ろ、吹っ飛ばされた入口に別の男が立っていた。
クロスボウを肩に担ぎ、そのつがえられた矢は確実にどこかを狙っている。
その男はそのままの体勢で話し続けた。
「わたしがどこを狙っているか、戦場で何年も生きて来たお前ならすぐ分かるはずだ」
ちらりと男を見たダスティンは、すぐさまそれが分かったのだろう。
そして、それはあたしにも。
なぜなら、その矢の先端が、あたしの上げた視線の真正面にあったから。
「下手に動けば、この矢は真っ直ぐその女の眉間を刺し貫くだろう。動くな。剣を捨てろ」
きっとこれは張ったりじゃない。
この男は、愛する姫を何度も殺すぐらい、狂気に侵されている。
あたしを殺すことに躊躇なんてない。
「モーリッツ!」
恐怖で動けなくなっていた姫が、歓喜の声を上げる。
じりじりと、あたしを狙った照準を外さないようモーリッツは慎重に動くと、姫の優雅に差し出した手を取り、立ち上がらせた。
モーリッツは、芸術家が丹精込めた彫像のような、完璧な美しい容姿を持った男だった。
こんな優男が、身分違いの姫に執着し、ダスティンとの婚姻に絶望して殺してしまっただなんて…。
姫はモーリッツの上着にすがり、その背に身を隠す。
けれど、あたしは不思議に思った。
どうして姫は、この男に全幅の信頼を寄せているような表情をしているのだろう。
モーリッツが姫を愛しているのは、その眼差しの熱っぽさですぐに分かる。
けれど、同じほどの熱量を、姫から感じるのはどうして?
「モーリッツ、あの女を殺して」
支配階級特有の傲慢さで、姫がこともなげに命じる。
けれど、モーリッツはその美しい顔を一瞬歪ませると、姫に優しく話しかけた。
「あの女はまだ殺しません。メレビウスを意のままに動かすには必要なのではありませんか」
どういうこと?ダスティンを意のままに動かす?何のために?
すると、姫は我が意を得たりとばかりに微笑んだ。
ぞくり…と、背筋に寒気が走る。
その姫の表情…?!
姫は輝くばかりの微笑を浮かべ、すっと手を差し出した。
「ダスティン、昔の約束通り、惚れ薬をちょうだい」
惚れ薬!何百年も前に、あたしが作った惚れ薬。
何度も輪廻を繰り返したダスティンが、持っているはずがない。
でも、さっき姫は彼がこれを持っていると言っていた。
本当に?
でも、これを使って、姫は永遠にダスティンとモーリッツ、三人で追いかけっこをするのだと…!!!
ダスティンとモーリッツを交互に見る。
なぜか、モーリッツがかすかに視線でうなずいたように見えた。
ダスティンが外套の内に手を入れる。
取り出された手は、ギュッと握り込まれていた。
そして、ゆっくりと手のひらが開かれる。
そこには、あの日と寸分たがわない、緋色のビンが…。
本当に持っていたんだ!どうやって?!
ああ、あんたが持っていると、本当に小さく見える…。
「ご所望の、惚れ薬だ」
ダスティンは一切表情を変えず、そう言う。
「こちらに放れ」
モーリッツが堅い声音でそう言った。すると、それは無造作に放り投げられ、モーリッツが空中でパシリと受け取る。
手の平だけを後ろに差し出し、恭しく姫に差し出された緋色のビン。
姫は両手でそれをそっと取り上げ、暖炉の炎に透かして見た。
「ああ…これがあれば…」
姫が、万感込めた声を出す。
あたしの胸にも、この輪廻の始まりのあの時のことが、昨日のことのように去来した。
ダスティンが、姫と幸せな婚姻が結べるように作った惚れ薬。
姫と愛し合えるように。
ダスティンが幸せになれるように。
愛する人が、幸せになれるように…。
こんな、心が壊れてしまった姫が望む、永遠の追いかけっこのためでは、決してない!
思わず体が動いたその瞬間、わたしの顔の横を矢がかすめた。
「次に動いたら、確実に眉間を貫くぞ」
「貴様!」
モーリッツの冷たい声と、ダスティンの怒気をはらんだ声。
ああ、どうすれば良いんだ…。
しかし、それらが耳に入らない様子の姫は、モーリッツの腰に下げられた矢の先端で、何のためらいもなく指先を傷つけた。
「ふふふ。使い方を昔聞いておいて良かった」
真っ白な指先に膨れ上がる、真っ赤な血のしずく。
姫は器用に片手でビンの栓を抜くと、そこにその血をぽたりと滴らせた。
途端に、甘い匂いが小屋中に充満する。
姫は満足気にその血を混ぜるべく、ビンの中をちゃぷちゃぷと振った。
そして、ダンスでもするかのように、モーリッツの背の影から一歩を踏み出す。
一直線。ダスティンに向かって。
流れるようにドレスの裾をさばきながら歩くその姿は、ここが狩猟小屋だということを一瞬忘れさせるほどの優雅さに溢れる。
そして、ダスティンが求め、モーリッツを狂気に走らせた美貌が輝いていた。
暖炉の炎が、かすかに動く銀の髪をきらきらと照らす。
あたしは無意識に、無残にも切り捨てられた自分の残りの髪をいつしか左の手で握っていた。
見た目だけでも、こんなに違うんだ…。
ダスティンは昔も今も、国一番の騎士。姫は有力な豪族の娘で、今じゃ王女殿下。
あたしは…、魔女。不吉で、恐れられていて、利用されたり監視されたり。
そして、今じゃ、ただ長生きなだけの貧乏くさい女。
ここで殺されなくったって、多分ダスティンの来世まで、命は持たないだろう。
姫の望み通り、惚れ薬を飲んだダスティンはさらに姫を強く愛し、ここから永遠の追いかけっこが始まるっていうのか…!!!
「ダスティン、これを飲みなさい」
差し出される緋色のビン。
炎に照らされ、きらめいている。
嫣然と微笑む姫。
見守るモーリッツ。
ダスティンは一瞬の間の後、姫が差し出したビンを受け取った。
そして、すぐさま栓を開け、その液体を一気に飲み下す!
(飲んだ…)
姫が飲むはずだった惚れ薬。
これで、今生でも誓願は果たされない。
いいや、これから、姫を求める二人の男との、永遠の追いかけっこが始まるのだ。
あたしは見ていられなくて、目を閉じた。
「ダスティン、わたくしに永遠の愛を誓ってひざまずきなさい」
姫の、鈴を転がすような声が聞こえる。
きっと、今、ダスティンの瞳には、姫への愛が熱くたぎっているだろう。
この後、あたしは殺されるのか…。
けれど、あたしの耳には意外な声が聞こえてきた。
「ジリアン。魔女の薬は、古くなると効き目がなくなるのか?」
え?と顔を上げる。
目の前であたしを狙っていたモーリッツのクロスボウが、いつの間にか下ろされていた。
そして、問うてきたダスティンに視線を移すと、そこには、いつも通りの紺碧の瞳が、これまたいつも通りの深海の碧をたたえ、あたしを真剣に見つめていた。




