5
「またすぐ来る」
そう言って、ダスティンは夕暮れ時に、黒馬にまたがり王都に帰って行った。
彼と過ごす時間は本当にあっと言う間で、一人きりになると、ついさっきまで同じ空間にいたことが幻のように感じられる。
幻ではない証拠の一つ、彼と使った食器を裏の井戸で洗っていると、目と鼻の先の隣戸の扉が開き、アグネロばあさんが姿を現した。
「もしかして、今の今まであの騎士様はここにいたのかい?」
からかうような楽し気な声音。
うなずくと、彼女は自分の頭を指さし、
「珍しいね。あんたが髪の毛を手ぬぐいでまとめてないなんて」
と言った。あたしは慌てて頭に手をやる。そこにはいつもの手ぬぐいは無く、ただ黒髪がさらさらと濡れた指にまとわりつく。
『昨日、群衆の中で、見事な黒髪が風に広がるのが馬上から見えた。あなただとすぐに分かって、気付けばその目の前に馬を進めていたんだ』
そう言いながら、ダスティンがあたしの頭から、はらりと手拭いを奪い去ってしまったことを思い浮かべる。
どの生の彼も、毎度あたしの黒髪を褒めてくれたけれど、今生の彼もこの髪がお気に入りなのかもしれない。
「あの騎士様は、黒髪を不吉だと言わないんだ」
あたしがそう言うと、アグネロばあさんは優し気な眼差しでこちらを見ていた。
「昔っからかい?」
「昔っからさ」
彼女の言う『昔』は、あたしの『昔』とは違うだろう。けれど、二人して目を見合わせて笑った。
食器を洗う音と、水がチョロチョロと流れる音だけが、静かな宵の集落に響く。
やがてアグネロばあさんは夜空を見上げ、白い息を吐き出した。
そして、こちらを見ずに呟く。
「ジリアン。あんたには幸せになってもらいたい」
急にどうしたんだ。食器を拭く手を止め、じっと彼女を見る。
視線に気づいたのか、アグネロばあさんはあたしに顔を向けた。
「あんたには、あの騎士様と幸せになってもらいたい」
もう一度同じ言葉を繰り返される。
「ばばさま…」
あたしの目の錯覚だろうか。
その時、白く濁っているはずの彼女の瞳が、まるで夜空の星のように輝いて見えたのは。
いや、あたしにダスティンと幸せになれなんて、これまで誰一人として言ってくれなかった。
自分自身でさえも。
何も知らず、口にしてくれたアグネロばあさんが、あたしには輝ける存在ってことなのか。
またたきして見れば、もうその瞳はいつもの通り、うすぼんやりと濁っていた。
やはり目の錯覚だったのだ。
けれど、嬉しい。それがかなわぬ夢なのは、自分が一番分かっているのに。
「ばばさま、あの騎士様は昔からの知り合いってだけさ。なんてったって、第一王女殿下の想い人らしいしね」
残念だけれど、と、おどけて告げる。
なぜか、アグネロばあさんはそれに何も反応せず、あたしをじっと見つめ続けた。
井戸からぴちょんぴちょんと、水が垂れる音だけが規則的に聞こえる。
長い沈黙の後、口を開いたのはアグネロばあさんだった。
「あんたより長く生きているばあさんから、一つだけ言わせておくれ」
長く生きている…。なぜかその言葉にひっかかりを覚える。
実際には、あたしの方が長く生きているから?
いや、そんな単純な感覚ではない。
けれど、考えてもそれの正体は分からない。
突き止める間もなく、言葉が続く。
「あんたはここから動いちゃいけないよ。ここで騎士様が来るのを待ってるんだ」
何をもって、彼女がこんなことを言い出したのか。
数年前に森の中でぐったりしているところを助けて以来、アグネロばあさんはいつの間にかあたしの隣人になった。
つかず離れず隣人の距離を保って、お互い深くは踏み込まない間柄だったのに、今日はなんだか様子が違う。
真剣な表情に、つられてあたしはうなずいた。
けれど、アグネロばあさんの言う通りには出来そうにもなかった。
次の日の夜、あたしは突然現れた二人組の男によって、連れ去られてしまったのだから。
***
麻袋から出され、目隠しをされるまでの数秒、目に入った室内の様子は、あたしの家よりも数段立派な山小屋だった。きっと、貴族の狩猟小屋か何かだろう。暖炉には火が入れられ、ぱちぱちと薪のはぜる音がする。あたしは両手を後ろ手に縛られ、柱にくくりつけられていた。
ここがどこだか、まったく見当がつかない。
あたしを攫った人物にも。
やがて小屋の扉が開く気配がし、その途端、薔薇の香りが小屋に充満する。
衣擦れの音。
それとともに、目の前に薔薇の香りの主が立つ気配がし、あたしのこめかみに何か細いものがゆっくりと突き立てられた。
「動かないで。これは仕込み杖。力を入れれば、このままあなたを刺すことも可能ですわ」
鈴を転がすような美しい声が、物騒なことを口にする。
あたしは目隠しの中で目を凝らし、何とかその人の形だけでも見ようとした。
だが、見えたところで、それが誰だかあたしに分かるはずはないだろう。
けれど、思い当たる人物は一人しかいない。
なぜ?
「あなたにお願いがあって、こちらまでご足労いただきましたの」
その人は、こめかみに押し当てた杖にじんわりと力を込めた。
きっと非力な人だ。そう、王宮の奥で、多くの使用人にかしづかれているような。
「お初にお目にかかりますわ。魔女殿」
やはり…。
「あたしに何のご用ですか。マグノリア姫」
当てずっぽうだったけれど、確信をもって問いかける。
あたしの予想は当たったようだ。
その人はくすりと、かすかに笑った。
「やはり魔女殿には隠せませんわね」
杖にさらに力がこもる。
美しい声はさらに続けた。
「今生ではマグノリアではありませんの。ダスティンと同じく、前世と同じ名前を名乗りたかったのですが、仕方ありませんわね。思い出したのは、ダスティンを辺境に送り出してしばらくしてからですもの」
では、ダスティンが記憶を取り戻したのとほぼ同時期ということだろうか。
契約で結ばれた二人は、ここでも同じ運命ということか。
勝手に考えて胸がちくりとする。
猛烈に、顔が見たい、と思った。
気が遠くなるほどの輪廻を繰り返し、ダスティンが紅血の契約の誓願を果たすため、追い求めてきたその想い人の顔を。
「あたしに目隠しをするのはなぜなんだい?」
一瞬の間が開く。
けれど、あたしの問いは無視された。
「前世、ずっとあなたにお会いしたいと思っておりましたわ」
歌うように姫は話し続ける。
「ダスティンにも、何度もあなたに会わせて欲しいとお願いしました」
それは不可能だろう。王様が許しの紋を与えない限り。
けれど、王様に忠誠を誓っていた彼が、そんなことを軽々しく口にするとは思えない。
「でも、あなたは恐ろしい魔女。彼と婚姻を結ぶわたくしに、何かあってはいけないと、決して会わせようとはしてくれませんでした」
その言葉に、あたしの中の何かがちりっとする。
「あなたの瞳は真っ黒で、人の心を操るんですってね」
そんなことない。ダスティンはそんなこと言わない。
「勝手なことをぺらぺらと…」
あたしは初めて反論した。
けれど、後ろ手に縛られ、こめかみに仕込み杖を押し当てられたあたしが抵抗したところで、何の痛手にもならないだろう。
証拠に、姫は「ふふふ」と可愛らしい笑い声をあげると、手拭いごと、あたしの髪をつかんできた。
「こんな布きれで、あなたの汚らしいカラスのような髪が隠しきれると思っているの?」
そう言うと同時だった。こめかみに当てられた杖の感触がなくなり、髪の毛が信じられないような強い力で引っ張られた。次には唐突に頭を突き放され、途端に部屋中に充満したのは、動物の皮を焼いたような異様な悪臭。
「ふ…ふふ…あはは。魔女の髪を燃やしてやったわ!」
髪を切られた!そして、それを姫は暖炉に放り投げたんだ!
ダスティンが、見事だと言ってくれたこの髪を…!
「魔女の髪は真っ黒で不気味だと、いつもダスティンと話していましたの。これで目障りなものがなくなりましたわ!」
姫は快哉を叫んでいる。
あたしは呆然と、燃えてしまった髪の、ただ不快な匂いに包まれていた。
けれど、この姫の様子はどういうことだ。
これではまるで、嫉妬に狂った女のようじゃないか。
ダスティンが、あんたとの契約のために、何度輪廻を繰り返したか知らないっていうのかい?
いつでもいつでもあんたを探して、記憶がないことにがっかりし、殺されてしまうことに何度心折れそうになりながらも、次こそはと思い続けてきたのか!
今生の姫には記憶があると言った。王宮での祝宴より、先にあたしの家にやって来たことを怒っているのだろうか。
「王女殿下。あんたは間違ってるよ。あんたは、あたしのことなど気にしている場合じゃない。今度こそ誓願を果たすために、何をすべきか分かっているんだろう?!」
今度こそ、今度こそダスティンに幸せを!
そう思った時、唐突にアグネロばあさんの言葉を思い出した。
『あんたには、あの騎士様と幸せになってもらいたい』
はは、無理だよ。ダスティンが幸せになるには、あたしじゃなく、姫が必要なんだ。
「ええ、分かっていますわ。でもね、わたくし、誓願を果たす気はありませんの」
「え?」
今、姫が口にした言葉の意味が、とっさ理解できず、間抜けな声を出した。
誓願を果たす気が無い?
いや、待って。だってそのために、何百年も輪廻を繰り返してきたんだろ?
そのために、ダスティンは契約に縛られてきたんだろう?
理解できても、心が納得できない。
混乱したままのあたしに、姫の言葉は続く。
「わたくし、輪廻を繰り返しながら、まったく記憶がなかったわけではありませんわ」
目隠しをされた目で、姫の声がする方を必死で見つめた。
「いつも、殺される瞬間、全てを思い出していましたの」
なんてこと…。
「そのたび、モーリッツに殺され、ダスティンに看取られながら死を迎えるんですわ」
モーリッツとは、姫を殺してしまう使用人のことだろう。
「その輪廻を繰り返すうち、わたくしは、永遠にモーリッツの激しい愛により殺され、ダスティンに追い続けられることを望むようになったのです」
再び、こめかみに杖が押し当てられる感触がした。
「ならば、紅血の契約の誓願を果たす必要が、ありまして?」
もしこの目隠しがなかったなら、あたしは狂気を浮かべた絶世の美姫を目にしたことだろう。
「そのためには、契約に関係のない、ダスティンが心を割くあなたが目障りなんですの。お願いは一つ。いなくなって」
ああ、ダメだ。
あたしは魔力を封印した、ただ長く生きているだけの元魔女。
非力な姫が振るう仕込み杖にすら、何の抵抗も出来ない。
姫は、ダスティンと幸せになることを望んでいない。
気が遠くなるような輪廻の中で、二人の男と追いかけっこをすることを望むようになってしまったんだ。
きっと、心が壊れてしまって…。
誓願を果たすところを、本当は見たくなかった。
それが、こんな形で叶えられようとは…。
いつしかあたしの真っ黒の目からは、涙があふれていた。
目隠しの布にそれは吸い取られ、頬を伝うこともなかったけれど。
「そうそう、今生で初めて知ったこともありますのよ。それを教えて差し上げましょう」
こめかみに痛いほど突き当てられる感触。
まさかこうなるとは思っていなかった。
未練がましい魔女の、これが最後だ…。
「ダスティンが、あなたの作った惚れ薬、どうやったのかまだ持っていましたのよ。それを使えば、わたくしは永遠に二人と、追いかけっこが出来ますわね」
歌うようにそう言って、姫は最後にこう告げた。
「さようなら」
と。




