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あたしは何百年も生きている、魔女。
ただし、今は魔力を封印している、ただの長生きな女。
そして、愛しい男が、亡くしてしまった女との約束を果たすため、輪廻を繰り返すその様を、ひたすら傍観しているだけ。
数百年前、この国がまだ初代の王によって平定された直後の頃、まだそこここで戦乱は名残を残してた。
王都に近いランチェストで、あたしはそいつと出会う。
国王の金狼と恐れられた騎士、ダスティン・メレビウス。
黄金色の髪をたなびかせ、血をたっぷり吸った大剣を引っ提げて歩く姿を見た瞬間、あたしは彼が欲しくなった。
あたしはまだその時、魔女としちゃ小娘。しかも不吉な黒髪に真っ黒な瞳。
ダスティンの周りを、金髪碧眼で妙齢の貴族の令嬢に変化して、一番色っぽく見えるドレスでうろつくのが精一杯。
けれどしばらくして、ダスティンがランチェストの古くからある豪族ティバートン家から、そこの姫との婚姻を持ちかけられてるってことを知る。
名前はマグノリア姫。噂じゃ絶世の美女。
だけどあたしは気にしてなかった。親が勝手に決める婚姻なんて、この時代当たり前。お互い愛情なんてないのが普通で、家を守って後継ぎを作るための夫婦だから、その後、あたしを愛人にしてくれればそれで良いなんてうそぶいてた。
ある夜、『魔女のあたし』をダスティンが訪ねてくるまでは。
あたしはひっそりと、王都の森の外れで魔女として商売していた。
戦で偶然、当時将軍だった王様の軍を助けたのが縁で、彼はあたしのパトロンなんだ。
あ、あくまで相互利益供与的なね。魔女は貴重なのよ。
囲われたくて囲われたわけじゃないけど、まだまだ世の中物騒だからね。
だから、たまーに王様の知り合いが訪ねて来たら、魔女の商売をするってわけ。
『こちらは霧の魔女殿の住まいか』
王様の許しの紋を持つ者だけが見つけられる庵の外から、愛しい男の声がした。
信じられなくて返答が出来ずにいると、そっと扉が開かれ、何度も夢に見た黄金色の髪が目に飛び込む。
『だれ?』
分かっているのに間抜けなあたしはそう尋ねた。
『国王の騎士、ダスティン・メレビウスと申す』
のそりと、あたしの背に合わせて作られた小さな扉から、黄金の髪を揺らし、腰をかがめてその人は入ってくる。大きな背中には、かの人の命と言われる大剣。
『この庵には武器は持ち込まぬよう、王様に言われたはずよ!』
なぜかとがった声でそんなことを言ってしまう。
彼は慌てて大剣を下ろすと、扉の脇に立てかけ両手を開いた。
『すまぬ。陛下の御前でもこの剣は佩くことを許されているので、忘れていた』
しょんぼりする様子が愛おしくて、あたしの心臓は壊れそう。
ダスティンは部屋の中ほど、やっと天井が高くなったところでその背を伸ばした。
そして、あたしを見て固まる。
…何考えてるか分かってるわ。
あたしだって、ダスティンが来るって分かってたら、ちゃーんと変化していたのに。
『十五やそこらに見えてるんだろうけど、あたしは多分騎士様より年上よ』
代わりに言ってあげた。魔女は何年生きると思ってるの?もっと修行を積めば、好きなところで見た目を止められるらしいけど、あたしはまだ小娘。年だけは三十に近いけど、実際の身体はまだまだ幼かった。
ダスティンはあたしの言葉に目を見開いたけど、次には思ってたのと違うことを言った。
『いや…。魔女殿ほど、見事な黒髪を見たことが無いので、ビックリしていたのだ。年上だと聞いて、そちらも驚いたが』
何それ何それ!黒髪を不気味だってのは死ぬほど言われたけど、見事って…。
不意打ちってああいうのを言うのね…。あたしの顔は、多分生まれて初めてってくらい真っ赤になった。
なぜか、それを見た彼の耳まで真っ赤になるもんだから、ああ、またしても心臓が壊れそう!
『あ、ありがと』
絞り出した言葉は、ダスティンには聞こえなかったかもしれない。
だって、それから彼は、一回もあたしの顔を見なかったもの。
何とか落ち着いて、庵の外のベンチを中に持って来て座ってもらった。その時に、ご自慢の大剣は外に置いてきたみたい。
この血なまぐさい時代に所持されてる武器は、どれもたっぷり血を吸ってる。
そんなものが近くにあると、あたしの魔法に色々影響しちゃうから、庵に持ち込み禁止なんだ。
『で?ご依頼は?』
やっといつもの調子で声を出した。
国一番の騎士が望むことって何だろう。もっと強くなる?それとも、もっとすごい武器?
ああ、あたし、何でもあんたが望むこと、叶えてみせるよ!
わくわくしてダスティンの言葉を待ったけど、なんだかいつまで経っても口を開かない。
これは相当言いにくいこと?
もしかして、もっと美男子にしてくれとか?いやいや、それ以上素敵になってどうすんのよ。あたしの目が潰れちゃう!
どれくらい経っただろう。
こんなこと初めて。
なんと、国一番の騎士様は、あたしが出したハーブティーを、茶器をこねくり回しながら何杯も飲んで、結局何にもしゃべらずに、帰って行ってしまったんだ。
あたし、何か悪いことしたっけ…。
それとも、小娘の見た目のせいで、頼んないから、あんたの大切な願いを言えなかった?
何だってするのに。ダスティンのためならさ…。
柄にもなくあたしは落ち込んだ。
そんなあたしのもとに王様がお忍びで遊びに来たのは、ダスティンが来た三日後だった。
『やあ、霧の魔女殿。相変わらず小さいな』
四十路前で男盛りの王様は、あたしを見たらあいさつ代わりにいっつもこれ。
同時に髪をぐしゃぐしゃにして頭をなでられる。初めて会った時、あたしはまだ本当に子どもだったから、王様の中ではいつまでもそのまんまみたい。
『もう!やめて下さいよ』
そう言って上目で睨むと、自分の髪を取り返す。
王様はダスティンよりは小さいけど、それでもあたしにしたら見上げるほど大きい。
でも、最近全然会ってなかったから、ちょっと嬉しいな。
あたしにとっては、師匠を除けば、なんだかんだ一番付き合いの長い人だもん。
『元気だったか魔女殿』
部屋の奥から、王様専用の椅子を引っ張り出す。
あら、ちょっと埃かぶってるじゃない。指をちょいと動かして、ピカピカにすると、王様の前にふわりと置いた。
『王妃様はお元気ですか?もうすぐ臨月でしょ?』
話しながら、安産のための薬草を見繕う。
これで王様のお子様は五人目。良きかな良きかな。
ちょっと前までは結界だの、解呪の玉だの、呪いの矢だの、物騒なものばかり頼まれて作ってたけど、最近は王様からは護符や薬を頼まれる。平和に向かっていると実感できるとこ。
その他にも、王子様やお姫様たちの話なども聞かせてもらい、おチビちゃんのために、癇の虫に効く丸薬を作っていると、王様が思い出したように大きな声を上げた。
『そうだ!ここに来たのは、数日前にここに寄越した男のことを聞くためもあったのだ』
王様は手をポンと叩き、楽しそうにあたしに向き直る。
数日前の男。
ダスティンのことだ。
『それって、金狼の騎士様のことですか?』
まるで関心がないよう、注意深く返答する。
王様に気持ちを悟られるのは本意じゃない。
魔女のあたしを王様は大事にしてくれてるけど、どこかでお互い一線引いてる。
この森にあたしを囲うのは、守るためであり、監視するため。
所詮あたしは魔女だから…。
眉をしかめてつっけんどんに言う。
『あの人、でっかい剣は持って入るわ、あたしを子どもだと思って驚くわ、挙句、結局何のご依頼で来たのか全然しゃべらずに帰ったんですよ』
失礼なやつだと、憮然として続けると、王様は愉快そうにうなずき、笑った。
『ははは。ダスティンらしいな。あいつは戦えば誰よりも強く敵なしで、戦や政には頭が働くのに、それ以外のところは一本抜けておる』
その反応に、あたしの返答は正解だったと安堵した。王様は機嫌よく言葉を続ける。
けど、つぎに王様が口にした言葉は、あたしの心をぶっ壊した。
『あやつをここに寄越したのはな、婚姻の準備のためだ』
丸薬を丸める手が止まった。
王様は気付かず、しゃべり続ける。
『戦乱続きだったせいか、あやつは二十五にもなるのに決まった相手がおらんでな。聞けば、さる豪族から姫との縁談が持ちかけられておるのに、断ったとか。しかし、今度は一族の長がわしに泣きついてきてな。以前ダスティンに危ないところを救われたことがあるとかで、大層な気に入りようで。わしも是非に押さえておきたい古来からの土着の豪族だ。しかも姫は評判の美姫。意中の娘がおらぬなら、申し出を受け婚姻するよう言うたのよ』
王様の言葉が、ただの音の羅列のように耳に入ってくる。
なのに、その意味をあたしの心にちゃんと伝え、信じられないほど揺さぶった。
『魔女殿?』
呼ばれて初めて、自分が完全に静止してしまっていたことに気付く。
何やってんだい、あたし!
ゆっくり動揺してる場合じゃないだろ?
『ああ、丸薬にまつ毛が混じってしまったみたいで。ちょっと作り直します』
くるりと王様に背を向け、何にも混じっていない丸薬をゴミ箱に放り込む。
その間も、どっどっと、動悸が鎮まらない。
どうしてこんなに心臓がはねる。体中を血じゃない何かがすごい勢いで巡り巡っているようだ。
ダスティンが婚姻を。例の豪族の姫。でも断ったって。
だけど、今度は王様の命令!そんなの…。でも、あの騎士様は、誰よりも王様に心からの忠誠を誓っている。
受けるのか?
『この前、長と示し合わせて、一日姫の護衛をさせてみたら、あやつも満更でもない様子でな』
満更でもないという言葉に、再び胸がぎゅっとなる。
…受けるのか…?
それであたしに頼み事って、一体どういう…。
震える手を誤魔化して、棚からもう一度丸薬の材料をそろえる。
背中に王様の視線が突き刺さるような気がしたけれど、何がどうあっても今振り向くわけにはいかない。
奇跡的にあたしは間違えずに材料をすり鉢に放り込むと、背中を向けたままごりごりと擦る。
そっと息を吐いた。その息が震えていないことに安堵する。
あたしは何かしゃべらなければ。
『で、そんな騎士様が、魔女になんの御用だったんです?』
普通に聞こえただろうか。それだけに神経を集中させる。
夫婦円満の護符?それとも、子宝の薬草?
けれど、王様が口にしたのは、そのどれでもなかった。
『惚れ薬をもらえと言うたのよ』
またしても手が止まりそうになる。
惚れ薬だって?
惚れ薬?!
『あやつは女には純情でな。夫婦となるなら、心から愛し合いたいらしい。何を言っているのか。だが、あの姫を欲しくならん男はおらんだろう。問題はその深窓の姫が、無骨なあやつを好いてくれるかだ。もし不安なら魔女殿に会わせてやるから惚れ薬をもらって来いと言ったら、やっとうなずきよった』
あっけらかんと王様が言う。
頭のどこかが痺れたようにきんとした。
痛いな…。
どこが?
どこもかしこもさ!
あたしは丸薬を完成させると、綺麗に洗ったビンに詰め、王様の方にやっと向き直った。
そしてその顔を見て悟る。王様はあたしの動揺に気付いてる。その上、心を読もうとしてた。
大事な腹心の騎士様を、魔女から守るために。
仕方なく、あたしは彼の瞳をじっと見つめた。
魔法をかけるために。
『霧の魔女は、いつも通り王様と話をしたよ。そして、金狼の騎士の婚姻を祝い、惚れ薬を授けるから、この庵に来るようにと、王様にことづけたよ』
王様は護符を持っているから、魔法はかからないと思ってる。
かからないさ。護符を作った魔法使い以外の魔法はね。
そういう作りにしてあるからね。
王様の瞳は一瞬光が無くなって、次にはいつも通り生命力をみなぎらせた。
あたしは、それを確認して、丸薬と煎じ薬を袋に入れ、王様に渡す。
『はい、王様。王妃様によろしく』
いつも通りの自信たっぷりな彼のアンバーの瞳。
『ああ、いつも、感謝する。では、ダスティンに、魔女殿が惚れ薬を授けてくれると伝えておこう』
ごめんよ王様。あんたにこんな頭の中いじる魔法かけたくなかったけど、許してね。
王様の気配が庵の外、森からも離れ、ここにたった一人きりだと確認してから、あたしは泣いた。
ホントは分かってたんだ。
いくら好いたって、国一番の騎士様に魔女のあたしが近づくなんて無理なんだって。
そのうち、誰もが羨むようなお姫様と、きっと素晴らしい夫婦になるんだろうって。
愛人で良いなんて、そんなのいつ婚姻するか分からないって時に言えてただけの強がりさ…。
『夫婦となるなら、心から愛し合いたい』
何てことだ。結局愛人の可能性だって皆無じゃないか。
しかも、王様にああ言われて、結局魔女のところに来たってことは、惚れ薬を使ってでも、姫と愛し合いたいってことだろ?
それだけ、マグノリア姫を気に入ったってことだろ…?
蓋を開けてみりゃ、真実なんてそんなもんさ。
夢見てる頃が、一番楽しいのよ…。
毎日泣いて泣いて、あたしのまぶたが上と下でくっつくぐらい目が腫れて、それがやっと治った頃だった。あたしの心をめちゃくちゃに出来る唯一の男が、再び庵を訪ねてきたのは。
『魔女殿、ダスティン・メレビウスだ。剣は外した。入っても良いか』
庵の外から声がする。あんたが森に入った時から、分かってた。毎日いつ来るかいつ来るかって神経をとがらせてたからね。
『どうぞ』
そう声を掛けると、この前と同じように、小さな扉を腰を折って潜り抜ける黄金色の髪が見えた。
ダスティンが顔を上げるまでなら、存分に見つめても良いだろ?
あたしは瞬きも忘れて、彼の全てを目に焼き付ける。
黄金色の髪も、広い肩も、厚い胸板も、引き締まった腰も、長い脚も、髪の隙間から見える、ふっくらした耳たぶも…。
あたしは彼が顔を上げる直前に視線を外すと、王様用の椅子を奥から引っ張り出した。
この前もそうすりゃよかった。ベンチなんて座り心地悪いしさ。
椅子を運んでいたら、ダスティンがさっと持ってくれる。
さすが騎士様。指一本動かさない王様とはえらい違い。
『これは?』
『騎士様用の椅子だよ』
そう言って椅子を勧めたら、彼はなぜか赤面した。
『俺のために?』
ここでそうと言えば恩に着せられるのかな。
『てのは冗談。王様がいつも座る椅子さ。専用ってわけじゃないから、気にせず座って』
普通にしゃべれてるよね?あたし、普通に。
『その…、陛下とは…、長い付き合いなのか?』
問われて振り向く。そして心臓が止まった。
振り向いた先に、椅子に座ったダスティンの顔が…!
狭い庵で、手を伸ばせば捕まえられそうな距離。
慌てたあたしはたたらを踏んで、彼の胸に飛び込んでしまった!
『ご…ごめん!!!』
咄嗟にがっしりした胸板に手を突き体を離す。
ダスティンは呆然として、固まっている。
あたしもそこで動けなくなって、どうしていいか分からなくなる。
手の平から、彼の心臓がものすごい速さで鼓動を伝えて、そのまままた腕の中に飛び込みたい衝動が、暴力みたいにあたしを支配した。
『ま…魔女殿…』
おずおずと呼ぶダスティンの声。
その似合わない弱々しさに、あたしはやっと平静を取り戻した。
明らかに彼は困っている。
そうさ、王様が女に純情だと言ってたじゃないか。意中の女がいるのに、小娘みたいな魔女に抱き着かれて、あたしは彼を困らせてる。
『あ…ああ!さすが騎士様だね!あたしが倒れ込んでもびくともしない!惚れ惚れするよ!』
蓮っ葉な女なら、演じなれてる。
あたしはちょいと彼の肩を一撫でして、今度こそ体を離した。
けど、もうその顔なんて見れたもんじゃない。
もし不快な色でも浮かんでようものなら、耐えられない。
不自然じゃないように少しずつ離れ、あたしは何日もかけて用意した、とびっきりの薬を棚の上から取り出した。
『ご所望の、惚れ薬だよ』
とっておきの緋色のビンに詰めた、無色透明のちょっと甘い液体。
厳密に言えば、これはいわゆる『惚れ薬』じゃない。
『惚れ薬』って世間で言われてる魔女の秘薬は、ホントはやばい『魅了』系の力を秘めてる。
あたしは、ダスティンにそれを使えば良かったんだろうか…。
はは、やっぱり嫌だね。
所詮、魔法は魔法さ。
あたしが見つめられたいのは、魔法で操られた目じゃなくて、恋情で燃えるような瞳だもの。
それにこれを作るとき何度も自分に言い聞かせたんだ。
ダスティンの幸せが自分の幸せだって。
だから、あたしは『惚れ薬』じゃなく、こっちの薬を用意した。
ちょいと細工もしてね。
『これが惚れ薬…』
ダスティンがビンを手に取る。あんたが持つと、そのビンがホントちっさく見えるよ。
彼の顔は見れないから、じっとその指を見つめた。
節くれ立ち、剣だこのある長い指。
その指で、姫のおとがいなんてくすぐるんだろうか…。
ちょっと深爪になっている指先を見つめたまま、あたしは大切なことを伝える。
『ただし、この薬は誰にも効くようにはなってない』
ダスティンが、ビンから顔を上げてあたしを見る気配。
『あたしはそんな乱暴な薬、作りたくなくてね。だから、これは使われる人間が、使う人間にちょっとでも好意を持ってたら効くって代物』
ああ、それなら問題ない…と彼の呟く声が聞こえる。
へえ、姫が好意をちょっとでも持ってるって確信出来てるんだ。
そう言えば、王様が来てからあんたが取りに来るまで、結構間が開いたよね。その間に?
まあ、あたしにすりゃ、この男にほんのちょっとも好意を抱かない女がこの世にいるなんて思えないけど。
はは、あたしにはやっぱり一縷の望みもないんだね。
ホントはこう続けようと思ってたんだ。
『だから、まったく効かなかったら、諦めな』って。
これは相手の好意を最大限に増幅する作用のある薬。
『魅了』の要素は使ってないから、魔法で操られたようにはならないし、きっと二人を熱々にしてくれるよ…。
『これは騎士様が直接使うんだろ?』
特に問題ないと思って言った言葉だった。
ところが、ダスティンは明らかに動揺した。
『俺が直接でなければ使えないのか?』
彼の動揺の意味が分からず、あたしは思わずダスティンを見てしまった。
目の前の紺碧の瞳が、あたしをじっと見つめていたのが分かって、心臓が飛び跳ねる。
一体いつから?あたし、どんな顔してた?
なのに、もうそこから目を逸らせない。
『そうだね…、大丈夫だよ』
彼もあたしから視線を外さないから、絡めとられたように瞬きを忘れる。
『どうすれば良い?』
さっきまで顔を見れないなんて思ってたのが嘘みたいに、あたしは彼を見つめ続けた。
『直接飲ませることが出来ない時は、惚れられたい人間の血を一滴混ぜて、惚れさせたい人間に飲ませておくれ。ただ、これはあんたに授けた薬だ。責任もって使ってほしい』
『承知した』
見つめていると、紺碧の碧が深くなる。空の碧から、深海の碧に…。
『…魔女殿の瞳は、宵闇より深いな…』
『騎士様の瞳も、海の底のような碧…』
がたん!!!!!
その時、大きな音を立てて、ダスティンが椅子から転げ落ちた。
どういう体勢?
いや…、あたしたち、今、何しようとしてた?
目が覚めたような顔のダスティンを見て、はっとする。
あたし、もしかして、無意識のうちに彼に魔法をかけたんじゃ…?!
いや、そんなはずない。
ざっとダスティンの姿をなぞる。ああ、魔法の残滓は感じない。
狼狽えるあたしをよそに、ダスティンは真っ赤な顔で立ち上がると、くるりと後ろを向いてしまった。
『魔女殿…!』
大きな声を発して、黄金の髪が揺れる。
『は…はい』
あたしは子どもみたいに素直に返事。
『また、会いに来る』
それだけ言うと、黄金の騎士は風のように扉をくぐりぬけ、あっという間にいなくなった。
とっちらかったままのあたしを置いて。
それから何日経っただろう。
誰かが森に入ったのが分かった。しかも、すごい速さでこの庵を目指している。
あたしは身構えた。
どんどんどん!!!
扉が激しく叩かれる。
『魔女殿!!!ダスティンだ!!!開けてくれ!!!』
あたしはすぐさま扉を開けた。
その途端大きな体が転がり込み、あたしはそのまま部屋の真ん中まで押し込まれる。
気付けばダスティンに抱え込まれるような体勢で、彼のじゃ香のような香りを思い切り吸い込みくらくらする。
『き…騎士様?』
何とか言葉を絞り出すと、ダスティンはあたしを抱きしめたまま絞り出すように言った。
『マグノリア姫が、死んでしまった…!!!』
マグノリア姫が、死んだ?
すぐには言葉の意味が咀嚼できず、ただ言われたことを繰り返す。
マグノリア姫が死んだ…。
まさか、『惚れ薬』のせい?あたし、何か間違った?
『…姫が死んだって、薬のせいで?』
ダスティンが激しく首を横に振る振動が伝わってくる。
『薬のせいじゃない…。薬を使う前に、使用人に殺されたんだ…』
こ…殺された…。
あたしは魔女だけど、死んだ人間を生き返らせる術は持たない…。
でも、じゃあ、ダスティンのマグノリア姫は永遠に失われたってことなのかい?
その時あたしの心の中はぐちゃぐちゃだった。
嘆き悲しむダスティンと一緒に泣いてやりたい気持ちと、姫がいなくなって、どこかで期待する自分と…。
きっと、心の裡をさらすような醜悪な顔をしてたんだろう。
だから、神様はちゃんとあたしに罰を与えた。
ゆらりとダスティンが顔を上げた時、その生気のなさにぞっとする。
そして、思いもしない恐ろしいことを口にした。
『俺は今からその使用人を殺し、自分も死ぬつもりだ』
死ぬ。ダスティンが。姫の後を追って。
姫の仇の使用人を殺して。
ああ、それほど愛してたんだ…。
勝手に深く絶望する。
それでも、止めずにはおれない。
『どうして?姫がいないここじゃ、生きてけないくらい辛いかい?』
すると、ダスティンはゆるく首を振った。
『なら…!』
一瞬気色ばんだ、けど、再び顔を上げた彼は思いも寄らないことを口にした。
『俺と姫は、姫の家のまじない師の元、紅血の契約を結んでいる』
紅血の契約?!
あたしは心から驚く。
そんなものが、未だに残っていたなんて。
それは古の悪しき契約方法。
誓願を果たすまで、互いをどこまでも縛り付ける悪魔の契約。
命が潰えようとも、それは輪廻の先まで契約者を追いかけ続ける。
どうしてそんな契約を?
いや、姫が生きてさえいれば、きっとそれはすぐにでも果たされるはずの誓願だったということ。
『契約内容は…?』
それでもあたしは聞いてみる。それが本当に紅血の契約か確かめるために。
ダスティンはちょっとためらった後、口を開け、話し出した。
はくはくはく…。
言葉にならない。
あたしはそれで、その契約が本当に紅血の契約だってことを思い知らされた。
この契約の恐ろしいところは、輪廻の先まで縛られるだけじゃなく、その内容に関することは契約者以外の誰にも秘匿にされるところ。
だから、誰の助けも得られない。誰の介入も許さない…。
『本当に紅血の契約なんだ…』
呟くあたしを抱えたまま、尚もダスティンは何かを叫ぶ。でも、それはすべて無音の枷に縛られ、何をも伝えることが出来なかった。
あたしはもぞもぞと彼の体の下から這い出すと、床にぺたりと座り、黄金色の髪を膝に抱える。
ダスティンはくったりとそれに身を任せ、あたしは幼子にするようにぽんぽんと背中をあやし、ささやくようにふっくらした耳たぶに唇を寄せた。
『契約に縛られてるなら、契約者の片っぽが死んだ以上、きっと騎士様もそのうち死んじまうと思うよ。誓願を果たすまで、騎士様と姫様は輪廻を繰り返すだろう…』
背中をあやし続ける。あたしが持ってる愛情全てを伝えるように。
『輪廻の先で、前世の記憶を思い出せるよう、あんたに魔法をかけてあげる。きっと、姫を見つけられるように…』
あたしはありったけの魔力を使い、ダスティンの魂に魔法をかけた。
長生きな魔女が、忘れられたくない人にかけられる、生涯一度の魔法。あたしが生きてる限り、前世の記憶を思い出せる…。
ダスティンの魂が、一瞬、ぶわりと青く大きく膨らみ、小さな庵の中を照らした。
そして、次に来るのは闇。
静寂の時間が幾刻も過ぎる。ほのかに月明かりに光る髪を、母親のようになぜた。
『魔女殿は、長生きだと聞いた。どのぐらい生きる?』
膝の上で、ぽつりとつぶやく声が聞こえた。
髪を弄びながら、答える。
『そうだね…。魔力を封印すれば、結構長く生きられるんじゃないか?』
あたしはきっと長生きだろう。魔女は真名を他人に知られちまえば、そこから普通に年老いていく。あたしの師匠は三百年生きてたけど、ある村で自分よりも大事って相手に巡り合って、真名を伝えた。そこからは二人人生を共にしてる。
でも、あたしはきっと長生きだ。真名を伝えたい相手なんて、この先現れやしないから。
ダスティンが顔を上げた。紺碧の瞳が、深海の碧になる。
そして、懇願するように告げた。
『長く生きて欲しい…。輪廻の先の俺も、必ず魔女殿に会いに行くから』
あたしはじっとその目を見つめた。気持ちが伝わってしまうかもなんて、考えている余裕なかった。
でも、絶対言葉にしないことだけは出来た。ダスティンを困らせるだけだから…。
『待ってるよ。絶対待ってるからね』
王様から、金狼の騎士の訃報を聞いたのは、それから二日後のことだった。