邂逅
暦は九月に入っていたが、中旬を過ぎても尚、真夏のような暑さは続いていた。
南条が仕事に就いてから、半月ほど経過していた。仕事自体は難しいものではなかったが、未だに前世とこの世界とのギャップのせいで色々と苦労することが多かった。なにより問題となったのは、読み書きができないことだった。異世界からの転生者であるにも関わらず、南条は苦労なく日本語で会話することができたが、識字だけは思うようにいかなかった。自分の名前や、基本的な単語はなんとか理解したが、それらを使って文章を作成することなどはできない。新人のうちはいいが、この先仕事のうえで読み書きのスキルはどうしても必要となってくる。早急に対処しなければならない問題だった。
明奈に相談したところ、図書館で本を読んでみればいいとアドバイスをされた。自宅で、隣室に住む慎太と共に小学生レベルの読み書きを習っていたが、それだけでは不十分だった。かといって日本語の教材を買う金もないから、無料で自由に使える図書館は役に立ちそうだった。
仕事明けに明奈と待ち合わせし、図書館まで案内してもらった。受付で図書カードを作成し、基本的な日本語の教本と、明奈が見繕ってくれた幾つかの本を借り出し、図書館を後にした。
通っている学習塾の授業まで1時間ほどあるというので、礼を兼ねて明奈を駅前のハンバーガーショップに誘った。平日の昼過ぎということもあって、店は比較的空いていた。会計を済ませ、トレーに乗せたハンバーガーを持って地下にある客席スペースへ移動しようとした瞬間、妙な圧迫感を感じた。
地下へと続く階段へ一歩踏み出すと、圧迫感は更に強まった。店内は明るく清潔だったが、階段を降りた先に、何かがいる。
「ラッキー。下はガラガラですよ」
南条の先を行く明奈が嬉しそうに声を上げた。
新宿の路地裏で魔族と思しき男女と接触してから、誰かに監視されていると感じることが何度かあった。おそらくあの二人は、なんらかの方法で南条の動向を監視している。だが今南条が感じている圧迫感は、それとは全く別種のものだった。
「どうしました?」
不思議そうに南条を見つめる明奈に意識を向けると、感じていた圧迫感は嘘のように消えた。
「いや、なんでもない」
そう答えながらも、南条は周囲に気を配った。
階下に降り、空いている席についた。小さな子供を連れた母親のグループと、制服を着た高校生のカップル、それにサラリーマン風の男がひとり食事をしているだけで、どこにも怪しい気配はない。
「あれ?」
ハンバーガーを頬張りながら、明奈が首を傾げた。明奈の視線は目の前にいる南条を通り過ぎ、背後の一点に注がれていた。
振り返ると、店の制服らしい赤いシャツを着た男がトイレから出てくるのが見えた。清掃をしていたらしく、モップとゴミ袋を両手に下げている。
「知り合い?」
「ええ、多分」
口を動かしながら明奈が曖昧に答える。
「ああ、あかねちゃんの」
何かが繋がったらしく、明奈の表情が明るくなった。立ち上がり、男に近づいていく。
「あのう」
ゴミ箱の中のごみ袋を回収していた男が振り返る。無表情だった男の顔に笑顔が浮かぶ。
「はい。何か御用でしょうか?」
営業用のスマイルを男が明奈に向ける。
「甘王、さんですよね」
「はい。甘王ですが、どちら様でしょう」
「わたしのこと、覚てませんか?幼稚園と小学校であかねちゃんと一緒だった刑部です」
「ああ、妹のお知り合いでしたか。事情があって、五年ほど自宅で警備員をしていたもので、色々と記憶が曖昧なんです」
同業者かと思ったが、考えてみれば自宅を警備する仕事はない。
「ちっちゃいころ、よく遊んでもらったんですよ。竹とんぼ。作ってもらったの、今でもわたし持ってます」
心底嬉しそうな明奈とは対照的に、男の顔に張り付いた笑顔は作り物めいていく。明奈のことを覚えていないというより、完全に初対面の相手と接しているように思える。
「南条さん、南条さん」
相手の男を無視して明奈が南条を手招く。明奈の空気の読めなさは、時として南条を上回る。
仕方なく立ち上がり、男の前に立った。
「幼稚園の頃、よく遊んでもらった甘王さん。甘王さん、最近お友達になった南条さん。南条さんは以前・・・・・」
「初めまして。南条と申します」
明奈の言葉を遮って南条は甘王と呼ばれた男に右手を差し出した。この世界に於いて、以前光の勇者だったと紹介されるのはさすがにいただけない。
「甘王と言います」
何気なく差し出された手を握ろうとした瞬間、先程感じた圧迫感を数十倍にも濃縮したような威圧感を感じて、差し出した手を引いた。毒のついた抜き身のナイフを不意に突きつけられたような恐怖だ。
「あ、すみません。日本人って、あんまり握手する習慣ないですもんね」
手を差し出したのは南条なのに、そういって甘王は手を引いた。改めて見れば、甘王はどこにでもいそうな若い男にしか見えなかった。
「いや、失礼しました」
再度手を差し出し、甘王の手を握った。柔らかく少し湿ってはいるが、先程感じたような違和感はどこにもない。
南条と甘王に向けて、明奈が一方的に昔の思い出を語り、その場は終わった。仕事があるのでと断りを入れた甘王は、去り際に明奈にはデザートの、南条にはコーヒーの無料券を手渡してくれた。




