取引
美穂の口角が吊り上がる。美穂の中の甘王、正確には魔王が嘲笑っているのだ。美穂の自由を奪ったうえで延命処置を施せばいいという城山の考えなど、最初から魔王は想定していた。だがその悪魔的な思考は、甘王の想像の埒外だった。甘王はまだ、これが戦争だということを理解していない。その甘王の甘さを、魔王は嘲笑っている。
「冗談じゃないわよ!」
美穂の口から飛び出したのは、他でもない美穂自身の声だった。
「いったい人を何だと思ってるのよ。切るだの抜くだのって、人を植木鉢の中の観葉植物みたいに言ってくれちゃって」
完全に抑え込んだと思っていたが、甘王の予想をはるかに超えた意思の力で、美穂は意識の表舞台に現れた。
「あんた達にいいようにされるくらいなら、あんたを道連れにして死んでやる」
床に散乱しているガラス片のひとつを手に取ると、美穂は自分の喉に切先を押し当てた。
「やめろ。死にたいのか?」
駆け寄ろうとする城山の動きを、腕を突き出して美穂が牽制する。
「なにそれ。あんたバカじゃない。死にたいわけないでしょう?でもあんたを道連れにできるならやってやるわよ。見下していた人間風情と一緒に死ななきゃならない気分はどうなの、トカゲ大臣。最後にあの素敵な笑顔をもう一度見せてくれない?」
「やれるわけないよ、ミカ。そいつにそんな根性ないって」
口調とは裏腹に、チャオの表情は硬い。
「あんた関係ないんでしょ?上司に付き合って死ぬことないよ。さっさと逃げれば?」
「騙されるもんか。やるならさっさとやりなよ」
「やめろ、チャオ。挑発するな」
引き攣った笑顔を浮かべた美穂が、ガラス片を更に強く喉に押し付ける。
「さっきの奴と話をさせてくれ。頼む。無茶をするな」
「嫌よ。ねぇ、ほんと、冗談抜きに舐めないでくれる?あんたもあまあまも、わたしのこと舐めすぎだって。あんた達の思い通りになんて、わたし絶対にならない。死ぬのも生きるのも、自分の意思で決める」
美穂は甘王を先輩とではなくあまあまと呼んでいる。先ほどとは異なり、完全に頭に血が昇っている証拠だ。
「なるほど。ドキュンとはこういう思考の生き物なのだな」
左目を閉じた美穂から甘王の声がした。城山が安堵の溜息をつく。
「損得では動かず、その場の感情を優先させる。馬鹿げてはいるが、下手な理屈など歯牙にもかけぬ妙な強さがある」
「ちゃんと手綱を握っていて下さい。冷や汗がでました」
瘴気の残量が尽きようとしていた。そうでなければ、美穂が甘王を差し置いて意識の表層に現れるはずがない。
「この茶番も幕引きとしよう。呪いは解除する。だから貴様はこの女から手を引け。それでよいな?」
「呪いを解くという保証はありますか?」
「ワシを信じるしかあるまい。呪いを解いたあと、貴様がこの女を殺さぬ保証も無い。だがワシは貴様を信じる。少なくともワシの正体や力量が知れるまでは、貴様はこの女を生かしておく。違うか?」
「わたしには大きな目的があります。その障害にならぬ限り、あなたとは関わりたくありませんね。だけど、その女はどうなんでしょうね。わたしのことやあなたのことなど、色々と知り過ぎている。正直な話、邪魔ではありますね」
「ワシと貴様に関する全ての記憶を根こそぎ消しておく。それでよかろう」
「それができるのなら、ぜひお願いしたい。わたしの腕では、それほどの量の記憶操作は叶いませんのでね」
閉じていた美穂の左目が勢いよく開いた。
「ちょっとあまあま、何いってるの?記憶を失くすって、嘘でしょう?」
「いや、本気だ。たったそれだけのことで、お主は元の生活に戻れる。魔王も蛟も居らぬ、平和な世界にな」
「絶対に嫌。そんなこと絶対にさせない」
「お主に拒否権など無い。ワシやあやつにとって人間の意思など存在せぬに等しい。可哀想だが、お主は無力だ。それを理解しろ」
「お金はどうするの?わたし、まだあまあまから借りたお金返してないよ。あきらめるの?」
「金を貸したのはワシではない。ワシに返しても宿主殿は喜びはしない。ワシに関する記憶が消えて尚、金を返す気があるなら受け取ってやる」
「やめて、あまあま。これからずっと一緒だって思ってたから言いそびれちゃったけど、わたし、昔あまあまにしたことをちゃんと謝りたい。この前助けてくれたことだって、きちんとお礼を言いたいの。わたしバカだからさ、そういうのうまくできないんだけど、それでもあまあまには感謝してる。だからお願い。わたしのこと嫌ってもいいから、わたしの思い出を消さないで」
美穂の左目から、涙がとめどなく流れ落ちる。例え他人の身体であっても、魔王である甘王が操る右目から涙が零れることはない。
「殊の外楽しかったぞ、人間。だが忘れろ。すべて忘れ去って退屈な日常に戻り、お主にふさわしい小さな幸せを見つけるがよい」
「無理だから。わたし、絶対に忘れない。わたし、すっごい執念深いんだからね。必ずあまあまを見つけ出して、今日のこと謝ってもらうんだから」
「待っておるといってやりたいが、それは不可能じゃ。ワシの術はそれほど甘くない。美穂よ、さらばだ」
美穂の両目が閉じる。城山とチャオは、目を閉じた美穂の姿をただ黙って眺めていた。




