昨日の晩飯
魔王の攻撃魔法を喰らい、勇者の体は瓦礫の中へ吹き飛ばされた。
瓦礫の中の巨大な岩に叩きつけられた勇者は、魔王からの追撃を予期して身構えた。だが、来るはずの攻撃は無かった。その理由はすぐに解った。陽の光を浴び、有り得ないほどに巨大化した円月輪十六夜の攻撃を、魔王は全力で防いでいた。
追撃が来ないことを確信した途端、勇者の足から力が抜けた。意思とは無関係に、勇者の体は再び瓦礫の散乱する大地に倒れた。歯を食いしばり立ち上がるが、全身を加速化させていた魔法樹の実の効果は消え、全身を包み込んでいた紫のオーラも消滅した。
勇者の左腕は、威力を相殺できなかった魔王の氷結魔法により、完全に凍りついていた。虚ろな目を向けると、左手はひび割れたガラスのように肘から先が砕け散っていった。
魔王の口から裂ぱくの気合が迸った。魔王は、新たに生えたものも含めた四本の腕で聖剣の柄を握り、渾身の力を込めて円月輪を退けていく。
「ディメンションリッパー」
刀身に宿る炎の煌めきは不十分だったが、魔王は再び奥義を発動させた。聖剣が切り裂いた空間は小さいものだったが、密接する円月輪十六夜を切断するには十分な力を持っていた。黄金の輝きを湛えていた円月輪十六夜は、茎から二つに分かれ、眉月と有明、二振りの魔刀へと姿を変え、地に落ちた。
勇者は足を踏み出した。氷塊と化した左手の欠片を踏みしめ、魔王に向かって走り出した。魔法樹の実の効力も失せ、満身創痍の勇者の体は思うようには動かず、足を踏み出すたびに全身に受けた傷口から血が滴り落ちた。
魔王の後頭部に現れた巨大な眼球は、眠りに落ちるように閉じていった。脇腹から出現した二本の腕も、溶けるように収縮し、魔王の体に同化した。
円月輪十六夜を両断した今、敵は無手で向かってくる全身に傷を負った人間の男ひとりだけとなった。この戦いは終結に向かっている。魔王の想定通り、勇者は敗れ、人間は死滅する。
魔王は老人を模した顔を上げ、よろよろと近づいてくる勇者を見つめた。今にも倒れそうな肉体を、意思の力だけで支えている。殺すまでもないという考えが脳裏をよぎったが、すぐに思い直した。人間共に絶望を与えるには、無残に切り落とされた勇者の首が必要だった。勇者の首を晒しながら、人という種の最後を見届けねばならない。
勇者は地に落ちた有明を手にし、ふらつきながら魔王に近づいてくる。無駄な努力に報いる意味で、老人の目から涙を流してやろうとしたが無駄だった。どんな姿にもなれる魔王だが、その目から涙を流すことだけはどうしてもできなかった。
「来い、勇者よ。その刃を我に突き立ててみよ」
魔王の前に立った勇者が、右手に持つ魔刀、玉鋼有明を魔王の首元に突き立てた。骨と皮で模られた老人の体は、痛みの感覚が皆無に近い。勇者が何度刃を突き立てようと、魔王には何のダメージも与えられはしない。
「無駄だ。闇属性の魔刀で、わしに傷をつけることは叶わん」
勇者に魔王の言葉は通じていないようだった。ただ単純に、機械的に魔刀を振り上げ、その刃を魔王の体に突き立てようとするだけで、そこにはもう戦士としての誇りも矜持も感じられなかった。
「止めよ。これ以上の抵抗は見苦しいだけだ」
魔王は左手一本で勇者の首を掴み、その体を持ち上げた。苦しみに歪む勇者の右手から、魔刀玉鋼眉月が地に落ちた。このまま首の骨を折るか、気管ごと喉を握りつぶしてしまえば、この戦いは終わる。
「これで最後だ。言い残すことがあれば聞いてやろう」
勇者の唇が微かに動くのを見て、魔王の口元に邪悪な笑みが広がる。
「命乞いか?それとも恨み言か?」
勇者の顔を耳に近づけると、息も絶え絶えな勇者が口を開く。
「昨日の晩飯を教えてくれ」
勇者の首に力を籠める。
「貴様、何を言っている?」
「晩飯だ、昨日喰った飯の話をしてる」
魔王の顔から笑みが消える。
「その答えがお前の最後の望みか?」
首を掴まれた勇者が力なく笑う。
「答えは知っている。魔王、あんたは食事を摂らない。負のエネルギーを糧とするあんたには、食事など必要ないんだ」
誰に聞いたのかは知らないが、勇者の言うことは正しかった。生まれてこの方、魔王は栄養摂取を目的とした食事をしたことはない。
「人は、食事を摂る。生きる為に、毎日毎日、欠かさず、食事を摂るんだ」
残っている右手で懐を探ると、勇者は一粒の木の実を取り出し、魔王に翳して見せた。
「ドントの実だ。飲めば生命力が増大する」
ドントの実の効力など、勇者に教わらなくても知っている。たった一粒で、体力も能力も回復する強力な回復アイテムだが、携帯することは不可能なはずだ。強大な力を付与する魔法樹の実は、どれも鮮度が命で、捥いだその場で口にしなければ、効果は期待できない。
「人は、生きる為に食べる。それが、知恵を生むんだ。保存すること。鮮度を保つ方法」
勇者の体から、僅かばかりの魔力反応を感じた。
「フロガ・ミクロン」
勇者が呟くと、蒼白だった勇者の右手がほんのりと赤く染まった。魔法の資質のある子どもが、己が手を温める為に唱えるのがフロガ・ミクロンだった。
「魔法樹の実を、冷凍保存するんだ。それで、実の鮮度は保たれる。あとは・・・・・」
勇者の赤く染まった右手の中には、ドントの実が握られていた。
「解凍するだけだ」
勇者がドントの実を口の中に放り込み噛み砕くのと、魔王が勇者の首をへし折ったのはほどんど同時だった。魔王の右手は、勇者の頸骨が粉々に砕けた感触を味わっていた。だがそれ以上に、ドントの実が勇者の体に眠る凄まじい生命力を呼び起こす速度の方が早かった。
粉砕したはずの頸骨は瞬時に再生し、力なく伸び切っていた全身の筋肉が張りを取り戻していた。焦点すら定まらなかった勇者の瞳に光が戻り、その瞳は魔王の目を正面から捉えていた。
「貴様、これを狙っていたのか?」
魔王の問い掛けに、勇者は苦笑しながら首を横に振った。
「とんでもない。あなたがこれほでまでに強いとは思ってもいませんでした。ドントの実は保険。使う予定のないとっておきだったんです」
ドントの実は勇者の生命力を限界値を超えて引き出してはいたが、凍りつき砕け散った勇者の左手を再生することはできなかった。
魔王は掴んでいた勇者の首を離した。自分の足で大地に立った勇者と魔王は数十センチの距離で向かい合った。互いに必殺の間合いに立っているのだが、それでもまだ、勇者の方が圧倒的に不利だ。魔法の優劣では、勇者は魔王に及ばない上に、勇者には魔王を倒せる武器がない。
「最初からやり直したところで、結果は変わらぬ」
しわがれた老人の声で、魔王は勇者を挑発した。圧倒的なアドバンテージを持ちながらなお、魔王は勇者の力に不安を感じていた。勇者の実力が怖いのではない。予め決められているようにすら思える、勇者の運の強さが気に入らなかった。
「わたしの手の打ちはすべて晒しました。魔法樹の実ももうありません。これで最後です」
悲壮感などかけらもない表情で、勇者が真実を告げる。
「決着をつけましょう」
勇者の言葉が終わらないうちに、魔王が聖剣を抜き打ちに放った。勇者の首を狙い、横なぎに払われた聖剣を紙一重で躱すと、勇者はさらに間合いを詰め、体を魔王に密着させた。ゼロ距離から魔法攻撃を警戒した魔王のみぞおちに、体重を乗せた勇者のボディブローが炸裂した。
魔王の口から、呻きに似た呼気が吐き出された。ドットの実を摂取した勇者の一撃は、ウォーハンマーの打擲に等しい破壊力を備えていた。武器の性質系統など無視した素手による攻撃は、単純な物理攻撃として魔王の肉体にダメージを与えていた。
体をくの字に折り曲げながらも、地面に膝をつくことだけは免れた。痛覚が鈍っているとはいえ、人間を相手にするときに選択する老人の姿のままでは、勇者の攻撃のダメージを受けきることはできなかった。
「人間が」
口をついて出た言葉に、怒りが滲んでいた。異常肥大した筋肉が老人の皮膚を内側から押し破り、魔王の全身が一回り巨大化する。肥大した腕で聖剣を掴むと、勇者に向けて力任せに聖剣を叩きつけた。