帰宅
「目を閉じろ、甘王」
閉じろと命じたのに、甘王は目を見開いた。
「開いておるとやりづらいのだ。目を閉じよ、愚か者が」
なぜか頬が紅潮していた。甘王の目を閉じさせたいのは、宿主である美穂の意思なのかもしれない。
目を閉じて立ち尽くす甘王の唇に美穂の唇を重ねた。甘王の唇を美穂の舌を使ってこじ開けると、肺の中に充満している暗黒の瘴気を甘王の口蓋の中に吹き込んでいく。
閉じていた甘王の両目が開く。瘴気を吸い込んだ甘王の体が痙攣し、美穂の体を押しのけようとあがき始める。両腕で強く甘王の体を強く抱きしめ、逃がさぬよう固定した。
痙攣が収まるにつれ、甘王の目を通して美穂の姿が見えるようになってきた。未だ美穂の体に瘴気が残留しているせいで、左目は美穂の視点、右目は甘王の視点で互いの姿を見ているような感覚に襲われる。体内に留まる瘴気の量が逆転すると、甘王を抱きしめていた美穂の両手が力なく下がり、甘王の腕が美穂を強く抱きしめる。
「ちょ、ちょっとなに?どういうこと?」
重ねていた唇を離し、美穂が声を張り上げた。
「どうして?なんでわたし、こんなところで。ちょっとあんた、何してるの?」
密着していた身体を突き放し、美穂が非難の声を上げる。美穂の平手が甘王の左頬を叩き、小気味よい音が鳴り響いた。
「最低。本気で心配してたのに・・・・・。って。あれ、きみ。誰?」
スリムになった甘王の姿を目にして、美穂は困惑している。
「甘王くん?どうしたのその姿」
二回りは細くなった甘王の姿を眺め、美穂は頬を赤く染める。。
「ちょっと、カッコいいかも。でもどうして?怪我はどうしたの?それに、わたしも」
美穂の指が額に触れる。甘王に突き飛ばされた際にできた額の傷は完治していた。
「ふん」
鼻を鳴らし、美穂に一瞥をくれる。
街の騒音の騒音が戻ってきた。人々は動き回り、街は活動を再開する。救急車とパトカーのサイレンが近づいてくる。美穂の要請に従った誰かが通報したのだろが、怪我が完治した今、救急車に乗るわけにもいかない。
「さて、うちに戻るか」
呟き、美穂に背を向けた。一刻も早く自宅に戻り、片づけなければならないことがある。
「待って」
美穂の呼びかけに足を止めた。急激に痩せたせいで、衣服がダボついて動きにくい。
「わたし、まだ呪われてるの?」
「心配には及ばぬ。束の間とはいえ、お主は魔王だったのだ。稚拙な呪いなど弾き返しておるわ」
呪う相手の魔法防御が強ければ、呪詛は跳ね返り、術者の元へと還っていく。僅かな間だが、美穂は究極の魔法防御を誇る魔王と化していたのだ。半端な術者なら、逆に今頃は術者が電車に飛び込んでいるかもしれない。
「きみ、きみは何なの?わたしが知ってる甘王くんじゃないの?」
唇が捲り上がり、以前には無かった犬歯が剥き出しになる。再憑依を行ったことにより、甘王の肉体もまた以前より強くなっているようだ。
「なにも違わない。ワシは甘王隆。人の身に在りながら、最強の魔王を宿した至高の存在よ」
美穂が大袈裟に溜息をつく。
「なにそれ。あんた大丈夫?」
「どうかのう。自分でもよく判らん。だがしかし、今はちょっとだけ良い気分じゃぞ」
歩きながら呟いた。美穂の体に残る瘴気のせいで、甘王と美穂の精神にトンネルができていた。美穂の中に残留した瘴気が消えてなくなるまでは、美穂とはテレパシーでの会話が可能だ。
「ちょっと、救急車来たよ。病院で見てもらったほうがいいって」
「体は何ともない。厄介ごとに巻き込まれたくないのでワシは逃げる。お主も早々に立ち去れ」
振り返り、美穂に向けて両手でピースした。
「なにそれ。両手ピースって、いまどき小学生だってやらないわよ」
美穂の声を無視して、通りを駅に向かって歩き出す。
「待って。どこ行くのよ」
「決まっておろう。おうちに帰るのだ。鯖味噌と生姜焼きがワシを待っておる」
雨雲はきれいに消え去り、六月の陽光が雨に濡れた路面を照らし輝いていた。雨上がりの空には、驚くほど巨大な虹のアーチが掛かっている。帰るべき家は、この虹の先にあった。陽光の中、魔王こと甘王隆は水しぶきを上げながら濡れたアスファルトの上を走り出した。




