対峙
甘王隆は、一方的に魔王に精神を乗っ取られたわけではない。自らの命を捨てた、いわば空き家同然の肉体に魔王は憑依したのだ。生きることを放棄した男、全てを投げ出して死を選んだ男が、最強の魔王である自分と戦うなど片腹痛い。
「確かに貴様は迫りくる死から逃れた。だがこの先、非力な人間の中でも特に矮小な存在であるお前が、人類の天敵となりうるこのワシが復活した世界で、どうやって母と妹を守っていく?余興として聞いてやる。存念を申してみよ」
歯を食いしばりながらも、甘王は魔王である美穂から目を逸らさなかった。魔王が醸し出す闇の波動は、極寒の地の冷気のように甘王の生命を削り取っていく。人間である甘王にとって、魔王との対峙は凄まじい苦痛を伴う苦行となる。
「ぼくは、ぼくはあなたを抑え込んでいた。一度だってあなたは、ぼくの身体を完全に支配することはできなかったんだ。あなたは、この世界を滅ぼそうとはしないで、人として生きることを選んだ。今だってそうでしょう?あなたは美穂さんを助ける為に、身体を張って電車に飛び込んだ。それは、あなたの意志じゃないはずだ。本当のあなたは、絶対にそんなことはしない」
しなやかな美穂の指先から、醜悪な鉤爪が伸びていく。上腕の筋肉が痙攣を伴いながら異常肥大を始める。腕を一振りするだけで、甘王の首は胴体から離れ、夕立に濡れたアスファルトの上をどこまでも転がっていくはずだ。
「あなたは最強の魔王なんかじゃない。非力な人間の中でも、特に矮小な存在であるぼくの精神ですら操ることのできない、出来損ないの悪魔だ。ぼくを殺したいのならやればいい。だけど、あなたに人類を滅ぼしたりできるはずがない。ぼくにすら勝てないあなたは、人間の天敵になんかなれはしない。紛い物の悪魔でしかないあなたなんかに、人間は絶対に負けない」
無性に腹がたっていた。虫けら同然の甘王の言葉が、魔王である自分のプライドに傷をつけている。それは信じられない事実だった。
「ワシを挑発しておるのか、甘王。ワシを再び己が身体に取り込み、抑えつけておけるとでも思っておるのか?」
暗い愉悦に魔王の口角が上がる。再び憑依して、甘王に地獄を見せてやるのも一興だ。
「大きな勘違いをしているようじゃの。お前はワシを抑え込んでなどおらぬ。主がしたことは、空き家だと思ってわしが住み着いた城の隅に身を潜め、ワシの目を盗んで姑息に生きながらえていただけだ」
甘王は魔王たる美穂の目をまっすぐに見つめ、視線を逸らさない。その決意が癇に障る。
「主がいると知っておれば、主を生かすも殺すも思うままじゃ。我が身のなかで主を生かしたまま、主自身の手で、母と妹を殺すこともできるのだぞ?」
「そんなことさせない。ぼくが止める」
「止めるだと?なにひとつ不自由なく暮らせるこの世界ですら、己が命を繋ぎ止めておけなかった貴様に何ができるというのだ?甘王、お前は負け犬なのだ、人間の屑なのだ。お前が大切だとのたまう母と妹に、お前は何をした?苦しめ、裏切り、失望させることしかできなかったのではないのか?」
的を射た指摘だったのか、魔王を見る甘王の目から涙が零れ落ちる。人間という生物は、実によく涙を流す。体液など他人に見せるべきではないのに、人間どもは涙を美しいものだと勘違いしている節がある。
「今すぐ家に帰れ。最後に家族で過ごす刻を与えてやる。家族と共に、ワシの裁きが下るのを待つがよい」
嘘だった。甘王が背を向けると同時に、極大魔法を発動させる。今はとにかく、この不快な男を眼前から遠ざけてしまいたかった。
「どうしてあなたはそんなに怯えているんですか?」
唐突に口した甘王の疑問は、なぜか魔王の肺腑を抉った。
「ワシが怯える必要がどこにある?」」
「ぼくはあなただったんだ。あなたが怯えていることくらい、わかる。あなたは、ぼくの精神を完全に掌握する自信がないんだ。いや、それどころか、逆にぼくに支配されるかもしれないと怯えている。違いますか?」
一笑に付すことができなかった。それどころか、未だかつて一度として感じたことがないような怒りが沸き上がる。
「よかろう。望み通り貴様に憑依してやる。そののちにワシは貴様の母と妹を始末するが、異存はないな?」
無言で頷く甘王の目付きが気に入らなかった。稀に目にすることがある、決意を秘めた人間の目付きだ。




