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tokyo転生者 北区に住んでる光の勇者  作者: 氷川 泪
第二章 魔王復活
72/202

追憶

『兄貴・・・・・。』


イ・モウトゥの声が聞こえた。振り返りイ・モウトゥの姿を捜すが、打ち捨てた甘王の肉体以上に興味を引くものは何もない。


「幻聴かよ」


 呟きと同時に鼻腔(びこう)がひくついた。微かだが、何かの匂いを嗅いだような気がした。


「しょうが醤油。それに味噌か」


 見回しても、辺りに匂いの元は見当たらない。魔王が立っているのは大塚駅からそう離れていない幹線道路の中央なのだ。嗅覚を働かせたところで、熱したアスファルトの上を滞留(たいりゅう)する排気ガスの臭いしか感じられはしない。


『何やってるんだよ、兄貴。そんなところにいねぇで、さっさと帰って来いよ、今日の夕飯は・・・・・』


「サバ味噌と豚の生姜焼きだったな」


 幻聴に返事をしていた。朝方、イ・モウトゥが晩飯の献立を話していたのを思い出していた。今日の夕飯当番はイ・モウトゥだ。人として生きた僅か数カ月で、魔王の料理の腕は格段に上がっていたが、豚肉の生姜焼きだけは未だイ・モウトゥに(かな)わなかった。レシピを教えろと迫ると、イ・モウトゥは小さな舌を出して、一緒にいるんだから喰いたきゃいつでも作ってやると得意気に笑っていた。


 魔王として覚醒した今、食事を摂ることはない。食事などに頼らずとも、絶望に打ちひしがれた人間が呼び起こす負のエネルギーを摂取することで魔力と体力を維持していける。イ・モウトゥの作る生姜焼きとサバ味噌も、二度と口にすることは無い。


「くだらぬ。人間の生活などに、なんの未練があろう」


 なぜ声に出して言わなければならないのか疑問だった。それでも声に出していた。


『隆・・・・・』


 オ・カァサンの声だ。目を閉じると、やつれた顔が脳裏に浮かんだ。つい最近の顔だ。バイト代を貰い、その大半を差し出した時の顔だ。


「金だ。暮らしの足しにするがいい」


『いいよ、隆。あんたが働いたお金なんだから、好きに遣いなさい』


「案ずるな。お主に渡すために手に入れたのだ」


 この小さな家を手に入れるのに、オ・カァサンとその夫は住宅ローンという仕組みを使って金を借りていた。35年という、人間の寿命のほぼ半分に相当する長い年月、オ・カァサンと夫は金を返していかねばならなかった。だが家を購入したその翌年、オ・カァサンの夫、甘王利次は行方をくらませた。隆が6才、イ・モウトゥが1才の頃だ。利次が死んでいたのならローンの返済は免除されたのだが、利次は妻子を捨て、別の女と逃げていた。以来、オ・カァサンは自宅のローンを背負いながら、女手ひとつで隆とあかねを育ててきた。金に困ってないわけがない。


「今のワシに、貴様の背負う債務の全てを肩代わりはできぬ。だから今はこれしか渡せぬ。許せ」 


 生まれてこの方、他者に本気で許しを乞うたことは一度として無い。だがオ・カァサンに対しては、なんのてらいもなく許しを乞うことができた。


 オ・カァサンの瞳が(うる)んだように見えた。だが次の瞬間、オ・カァサンの表情は花が開いたような笑顔に変わった。


 『許せなんて、生意気になったね。隆も、もう一人前の男の子なのかねぇ』


 オ・カァサンの両腕が伸びて、魔王の頭を抱きしめる。あまりにも唐突で、あまりにも自然な動きだったせいで、抗うことなくオ・カァサンの胸の中に抱き留められてしまった。オ・カァサンの胸の中は、柔らかく、良い香りがした。


「放せ、愚か者が。こそばゆい」


 両手をばたつかせ、オ・カァサンの腕から逃れた。悪い気はしなかったが、この格好は魔王としての威厳に係わる。


『ありがとう、隆。それとごめんね。お母さん、今まで、あんたに何もしてあげられなかった』


 頭の中がくらくらした。催眠系の攻撃魔法を受けたような気分だ。


「なぜ謝る?何ひとつまともにできぬ人間の(くず)を、お主はずっと見守っていたのだ。謝罪など必要ない。お主らはもうワシの眷属(けんぞく)じゃ。この先何があろうと、ワシの名において、未来永劫、お主らを庇護してやる。この金はほんの手始めじゃ。だから遠慮なく受け取れ」


『それじゃあ遠慮なくいただくね。ほんと、助かる』


 金を受け取ると、オ・カァサンは立ち上がり、お茶でも淹れるねと背を向けた。 


『せっかくだから、今日の夜はちょっと贅沢しちゃおうか?隆、何が食べたい?』


「いつもの夕飯でよい。いや、いつもの夕飯がよい」


 茶を淹れるオ・カァサンの肩が小刻みに震えていた。この女は決して涙を見せない。そこが気に入っていたが、少しだけ物足りない気もした。


 イ・モウトゥの声を聴いたような気がしたときから意識が飛んでいた。駅に向かっていたのに、いつの間にか甘王隆の傍らに戻り、死にゆく隆を見下ろしていた。


 救急車のサイレンが近づいて来る。上空を覆う雨雲から(したた)る雨粒が熱したアスファルトに黒い染みを穿(うが)ちはじめている。街はざわつき、危険なレベルの緊張を(はら)んでいた。

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