憑依
美穂の体に触れた瞬間、右肩に凄まじい衝撃が生じた。何かが激突したなどと感じる暇もなく、甘王の体は弾き飛ばされ、小石のように路面を転がっていく。回転は勢いを増し、全身万遍なく硬い路面に叩きつけられた。血飛沫が飛び散っているのが見えたが、ぼろきれのように破れ裂けた皮膚のどの部分から出血しているのか判別がつかなかった。
「ぐはっ!」
ようやく回転が止まった。焼けつくように熱いアスファルトの上に、うつ伏せのまま横たわっていた。立ち上がろうと四肢に力を入れてみたが、指一本動かすことができない。視線の先に、数メートル手前に停止した路面電車が見えた。派手に跳ね飛ばされたおかげで、倒れたところを轢き潰されることだけは避けられたようだが、即死を免れただけで、決して助かりはしないだろうと推測できるだけのダメージを負ったようだ。
「甘王くん」
叫びながら美穂が駆け寄ってくる。衝突の瞬間、甘王は全力で美穂を突き飛ばしていた。突き飛ばされた美穂の体は車両の軌道から外れ、路面電車の直撃を免れていた。甘王を跳ねた電車が急停止したせいで、美穂は自死の呪縛からも逃れたようだ。
「だれか、だれか救急車を」
路上に膝を付き、美穂が甘王の上半身を抱き起す。美穂の腕に抱かれてはいるが、甘王の体には美穂の体の感触は伝わってこなかった。
「なんで、どうしてこんなことを」
甘王の目に、美穂の泣き顔が映る。よく泣く女だなと思った。会ってからまだ数時間しか経過していないのに、何度この女の涙を見たのだろう。
「怪我をしてるな。平気か?」
美穂の額に血が滲んでいた。全力で突き飛ばした割りには軽傷だった。それでもその傷は甘王が美穂につけたものに違いない。
「なにいってるの?ほんと馬鹿なんじゃない、あんた。なんで、なんでわたしなんかを助けるのよ」
「馬鹿だからだろうよ。袖にされた女の為に死にに行くとは、救いようのない大馬鹿者じゃ」
「なに言ってるのかわかんないよ、甘王くん。わたし、わたしどうしたらいいの?あなたが死んじゃったら、わたしどうやってあなたに謝ればいいの?」
「忘れてしまえ。謝罪も償いも必要ない。全て無かったことにしてそのまま生きていけ。人間の情なぞ、その程度のものじゃ」
甘王の口元に、冷徹な笑みが浮かぶ。自分の行動から生じた結果を、他者に謝ってもらうつもりなどない。人の謝罪などに意味がないことは、魔王として君臨した世界で散々目にしている。同じ人間を、友や恋人、親や子供たちを、己が保身の為にあっけないほど簡単に裏切る人間の姿を、魔王は幾度となく目の当たりにした。口先だけの謝罪になど、なんの興味も無い。
美穂は言い返しては来なかった。甘王を強く抱きしめたまま、救いを求めるように周囲に視線を向けるが、近づいて来る誰一人として、美穂と甘王に救いの手を差し伸べようとはしなかった。誰がどう見ても助からないと思うほど、甘王の肉体の損傷は激しい。
暗くなっていく視界が、宙にたなびく至極色の霞を捉えた。魔王の本体である暗黒の瘴気が、死にゆく甘王隆の肉体から流れ出ている。傷ついた身体に視線を向けてみると、無数にある傷口からとめどなく流れ出る瘴気を目にすることができた。瘴気が完全に流れ出てしまえば、甘王隆の命は尽きる。そして流れ出た瘴気は、この場にいる誰かの体に再び憑依しなければならない。
「れ、レフェクティオ」
不意に声を上げた甘王に反応して、美穂が顔を近づけてくる。
「なに?どうしたの、痛いの?」
痛いに決まっておろうがと怒鳴りたくなるのを抑えて、同じ言葉を繰り返した。レフェクティオ。高度の回復呪文だった。発動すればこの程度のダメージは瞬時に回復するはずだが、やはり魔法は発動しない。
甘王隆の肉体を放棄するしかなかった。魔王の本体である濃紫色の瘴気は、魔力、人間どもの言うところのマナが無ければ視認できない。光の苦手な暗黒の瘴気が薄れてしまわぬうちに、速やかに甘王の身体を捨て去り、この近辺にいる壮健な肉体に憑依しなければならなかった。
流れ出た瘴気に視点を移し、中空から甘王隆とその周囲を俯瞰した。美穂に抱きかかえられた甘王隆の損傷は想像以上で、四肢はあらぬ方向に折れ曲がり、頭蓋骨の一部は陥没していた。前世より遥かに高度な医療技術が普及しているこの世界ではあるが、魔法というチートが存在しない限り、この状態の甘王隆を救うことは不可能だろう。
倒れている甘王の周りにいる人間を観察したが、魔王の憑依を受け入れられるような人材は見当たらなかった。スーパーの買い物袋を下げた中年の主婦と、散歩の途中の犬連れの老爺。いずれも魔王の憑依に耐えられそうにない。
美穂に視線を向けてみた。精神的に脆い面はあるものの、スタイルを保持する為に鍛えられた美しい筋肉を持った美穂の体は、魔王の憑依に耐えうるだけの頑強さを備えているはずだ。
方針は決まった。まずは美穂に憑依し、身体と精神を完全に掌握する。美穂に掛けられた厄介な呪いも、憑依してしまえば跳ね返すことは容易だ。
魔王は瘴気を操り、美穂の頭上から降下を開始した。美穂の背後から首元に巻き付き、呼吸に合わせて口蓋から体内へ侵入していく。美穂は少し咳込んだが、そのまま瘴気を吸い込み続けていった。新たな視界が開け、魔王は美穂の瞳孔を通して、傷だらけの甘王の姿を目にした。未熟な美穂の精神は、何の抵抗も見せず魔王の侵入を受け入れていく。完全に乗り移ってしまえば、美穂の体は甘王隆以上に居心地のいい住処と化すだろう。




