堕ちた聖剣
雪のように降り積もる氷の結晶の中に立つ勇者の前に、黒い影が立ち塞がった。
「不思議な男だ。とりたてて魔力が強い訳でもなければ、知略に長けているわけもない。剣の腕はそこそこだが、三賢者の見込んだ勇者としては、いささか思慮が足りん。にもかかわらず」
霙のカーテンの先から、魔王が姿を現した。
「妙に強い。単に運がいいというだけでは片づけられぬ強さだ。どういう仕掛けだ?」
足を止め腕を組んだ魔王が、首を傾げる。
「神などしらん」
勇者に目もくれず、魔王は呟き続ける。
「数百年の長きに渡り闇に君臨し続けたわしでさえ、神の存在など感じたこともない。だが貴様を見ていると、いるはずない神の姿が透けて見える」
魔王の鋭い眼光が勇者を捉える。
「いんちき臭い神の姿が、貴様を通して見え隠れする。どうにも腹が立つ。貴様を切り刻み、いもしない神の祭壇とやらにぶちまけてやれば、この怒りは収まるのかのう」
魔王の全身から、黒く淀んだ瘴気が溢れ出す。瘴気はのたうち廻る大蛇のように魔王の体に絡みつき、小枝の寄せ集めのように痩せ細った魔王の老体を覆い尽くしていく。
「魔装、暗黒蛇来筒袖鎧 死音」
魔王を包む瘴気の渦が、硬質化し変形していく。ささくれ立ち、縺れあいながら、瘴気は魔王の全身を覆う鎧へと形を整えていく。
「ミスリルソード、ジェノサイドドーン」
魔王の呼びかけに応じたように、魔王の右手に剣が現れた。白銀に炎の煌めきを宿した、美しいロングソードだった。
「皮肉なものよ」
光り輝く剣を見つめながら、魔王が唇を緩める。
「聖なる炎の煌めきをその身に宿しながら、無垢なる者を虐殺したが故に、我が愛刀となるとはな」
魔王が光輝く聖剣を一振りすると、鋭く冷たい刃鳴が響いた。
勇者の顔が苦痛に歪むのを見て、魔王が満足気な笑みを浮かべる。
「これが聴こえるか。耳がいい」
刃鳴と共に勇者の耳に届いたのは、無数の人間の叫びだった。人の可聴域を遥に超えた高周波であるにも関わらず、勇者の耳には、魔王の持つ聖剣が発する怨嗟の声がはっきりと聞こえた。
「緋緋色金 円月輪 十六夜」
勇者の両手が交差し、二振りの魔刀が再び重なり合い、一輪の円刀と化した。光り輝く円月輪の放つ刃鳴りは、魔王が持つ聖剣の怨嗟の声を打ち消した。
「質問の答えを聞いていません。この戦争、ここで終わらせることはできませんか?」
「望み通り終わらせてやる。貴様を殺し、次の日の出までに半数の人間を殺す。ひと月後には、人間は希少種としてわしに保護されるまでに数を減らしているであろうな」
「ならば仕方ありません。勇者として、あなたを誅滅します」
勇者の手から、光の輪と化した円月輪が飛んだ。陽の光を宿した光輪は、複雑な軌跡を描きながら魔王の後頭部に飛んだ。
魔装を纏ったまま立ち尽くす魔王の延髄を円月輪が貫き通うそうとした瞬間、魔王の右手が僅かに揺れた。刃と刃がぶつかり合う鋭い金属音が響き渡り、華が開いたように魔王の首筋に火花が舞う。
魔王の聖剣が円月輪を弾き飛ばしていた。弾かれた円月輪は空中高くに姿を消した。
「相手の死角を襲うとは、勇者らしからぬ攻撃じゃな」
苦笑しながら、魔王が右手に持った聖剣の切先を勇者へと向ける。
「次はわしの番でよいか?」
勇者と魔王の間には、まだ数十歩の距離がある。魔王の持つ聖剣の間合いにはまだ遠い。
「ディメンションリッパー」
魔王が聖剣を一振りすると、乾いた音と共に魔王の眼前の空間が切断された。レーザーを掃射したように、剣の軌道の先にあった巨大な瓦礫の山が、遥か先まで綺麗に切断されていた。
魔王が剣を一振りする直前に、勇者は地に這い蹲り、斬撃を躱していた。間合いなどお構いなしの、必殺の一撃だった。躱せたのは奇跡に近く、勇者自身にも地に伏せた自覚はなかった。ただ、体が悪寒を感じていた。その悪寒を信じた結果、からくも魔王の初撃を躱すことができたが、この先、どれだけこの攻撃を躱せるのか想像もつかなかった。
地に這いつくばった体勢から上体を起こし、勇者は魔王目がけて走り始めた。魔王が二撃目を放つ前に距離を詰めておかなければ、遠距離攻撃に晒されて為すすべもなく殺される。切り裂かれた空間に多量の空気が流れ込んだせいなのか、辺りは嵐の最中のように暴風が吹き荒れ、粉塵を巻き上げていた。魔王の視界が定まらぬうちに、距離を詰めることができたなら、攻撃の機会を得られるかもしれない。
「決死の特攻か。気の毒にのう」
魔王が二撃目を構えた。聖剣の力だけでは、空間を切り裂くなどという芸当はできはしない。魔王の魔力を刀身に伝え、それを具現化することで発動する大技なのだろうが、あれだだけの攻撃を繰り出すには、魔力を溜めるための時間が必要なはずだ。それが数秒なのか数分かはわからないが、反撃のチャンスは今しかなかった。
「円月輪十六夜、戻れ!」
地を這うように走りながら、勇者は叫んだ。魔王の持つ聖剣は、再び炎の煌めきを取り戻している。
勇者が進入してきた縦穴を真っ直ぐ上に向かって飛んで行った円月輪十六夜は、上空に輝く陽光を浴び、黄金色に輝いていた。月の名のごとく、日の光を吸収した円月輪は、より強大な光輪と化して魔王城中央の深淵に向けて再び落下し始めた。
魔王が聖剣を中段に構えると、勇者との間に吹き荒れていた暴風が止み、舞い上がる粉塵も消し飛んだ。距離を詰め、魔王の眼と鼻の先にまで接近した勇者だったが、その両手には武器となるものは何ひとつ握られてはいない。
「遅い」
魔王は構えた聖剣を、突撃してくる勇者の正面から両断するように剣を打ち下ろした。
「ディメンションリッパー!」
勇者を両断するべく振り下ろされた聖剣は、空間を切り裂き、その先にある大地をも両断した。だが魔王の眼には、斬撃が直撃する寸前、勇者の姿が消失したように見えた。ハチドリの羽ばたきすら指先で捉えられるほどの動体視力を有している魔王が、勇者の動きを捕捉できず、その姿を見失っていた。
次の瞬間、魔王の懐に勇者が現れた。人の筋力では決して為しえない移動速度だった。
「馬鹿な」
懐に現れた勇者の姿に驚きはしたものの、魔王の耳は空を切り裂き接近する円月輪を感知していた。魔王の後頭部が裂け、巨大な目が出現した。出現した目は、光り輝く円月輪を捉えると、手にした聖剣を振り上げた。人の形状を成してはいるものの、魔王の関節は人の可動域とは異なり、どの方向にも自在に動かすことができる。
闇の力を得た聖剣と、光の加護を受けた魔刀が激突した。互いの力が拮抗していたのか、剣と刀が触れ合った瞬間、強烈な閃光と衝撃波が発生し周囲を覆い尽くした。
両手で握りしめた聖剣で、魔王は迫りくる円月輪の圧力を防いでいた。どういう仕掛けかは不明だが、勇者の円月輪は最初に投擲されたときとは比べようがないほどの威力を持っていた。力で負ければ、魔王の首は胴体から離れる。
「フロガ・エクリクシー!」
正面にいる勇者の左手が真紅に染まっている。これもまた解せないことだった。高高度の攻撃魔法を、なぜ詠唱もなく勇者が連発できるのか?それ以前に、ディメンションリッパーを躱した際に見せた高速移動が、なぜ人の身でしかない勇者に可能だったのか。
「舐めるな!人間風情が」
数百年ぶりに魔王は怒りを感じていた。不条理な存在であるはずの自分が、不可解な人間の不可思議な攻撃を受けているという事実が、魔王のはらわたを焦がしていた。
魔王の脇腹から、皮膚を突き破って新たな腕が出現した。老人の姿はメタモルフォーゼした仮の姿で、魔王の本当の姿ではない。老人の姿を取っているのは、非力な老人に殺される人間を見るのが好きだったからに過ぎない。魔王自身に実体は無く、故に魔王はいかようにも姿を変えることができた。両脇腹から腕を生やすことなど造作もない。
「バゴス・エクリクシー!」
魔王は胴体から生えた新たな腕で、突き出された勇者の左手を受け止めると、発動した勇者の炎系爆発魔法フロガ・エクリクシーに被せるように氷系爆発魔法を放った。
炎と氷は、至近距離でぶつかり合い、多量の水蒸気を吹き上がらせながら互いの威力を相殺したように見えた。だが実際は、咄嗟に放ったとはいえ、魔力の総量で遥かに上回る魔王の攻撃魔法の威力が、勇者の放った攻撃を僅かに上回っていた。