殺意
改札を抜け、駅の西口へと移動した。
「目を開けよ」
西口公園のベンチ座らせると、魔王は女に目を開くよう命じた。夏の強烈な日差しの中で目を開いた女は眩しさに顔をしかめ、両手で顔を覆い動かなくなった。何度もホームの床を転がったせいで、スーツは裂け、身体のいたるところに擦り傷ができていた。顔を覆ったまま、女の肩が激しく震え出し、やがて女の口から嗚咽が漏れだした。何が起こっているかすら理解できぬまま、困惑と恐怖に打ちのめされた女のすすり泣きは、いつまでも終わらなかった。
「いつまで泣いておるのだ、愚か者が」
吐き捨てるように呟くと、女の髪を掴み、顔を引き上げた。泣きぬれた女の目を正面から覗き込むと、女の顔に新たな怯えが走った。
「ぶたないで。お父さん、お願い」
反射的に口を吐いて出た女の声は、幼い少女の口調だった。混乱が女の意識を幼児退行させているのかもしれない。
「誰がお父さんじゃ、馬鹿者。敵はお前のその弱さにつけこんで術を掛けておるのだ。気をしっかり持て」
頬を張ってやりたいところだが、場所が悪い。泣きじゃくる女の側に佇む太った男という絵面は、否応なしに目を引くようで、通行人の視線が痛いほどに突き刺さる。貸した金を回収するには、女を落ち着かせ、場所を変える必要がある。
「アイス食べるか?」
面倒くさくなって、半ばやけくそに声を掛けると、女が小さく頷いた。
「食べる」
「マジか。食べるんかい」
遮るもののない公園のベンチに女を座らせていたせいで、二人とも汗まみれだった。
「じゃあ行くとしよう。言っておくが割り勘じゃからな。消費税まできっちり割り勘じゃ。よいな?」
二度ほど頷くと、女はようやくベンチから立ち上がった。気の強い女のように見えたが、内面は驚くほど脆く幼い。
西口交差点を渡った先に、イ・モウトゥから教えて貰ったアイスクリーム屋があるはずだ。冷やし麺は後日また行くことにし、今日はアイスを食べて帰ることにしようと決め、魔王は女の手を握りながら歩き出した。
店は空いていた。アイスクリーム専門店ではあるが、価格帯が若干高いせいで、人気に陰りがあるのだとイ・モウトゥは言っていた。
ベースとなるアイスクリームを選び、好みのトッピングを混ぜ合わせるスタイルだった。
「ストロベリーショートケーキワンダー、バナナ、クラッシュマンゴートッピング、チョココーデワッフル、ツーモアサイズで」
涙声で女が注文する。傍で聞くと高度な魔法の呪文詠唱に聞こえる。女の注文を完璧に復唱した店員が魔王に顔を向ける。
「えっと、チョコベースの」
慌ててショウケースのサンプルに目を向けるが、何をどう注文していいか皆目見当がつかない。どうやら初心者殺しの店らしい。
「ダークチョコレートアンサンブル、ホイップとベリートッピングのツーモアサイズ、ノーマルワッフルで」
迷う魔王を後目に、女が勝手に注文する。
「チョコレート好きなら絶対満足する。信じて」
女に言われ、渋々頷いた。これで美味しくなかったら、代金は貸した金に上乗せして回収する。
店の奥にある椅子に腰かけ、注文したアイスクリームができるあがるのを待つ。代金は女が一括して支払ってくれたが、後で請求されるのか、助けた礼にごちそうしてくれるのかは不明だった。金を支払うときを除き、女は公園からここまで、頑なに魔王の右手を握り続けている。振りほどこうとしたが、女は魔王の手を離そうとはしなかった。
「アマオウ、甘王くんだよね」
握りしめた手を引き寄せ、女が顔を寄せて来る。
「わたしのこと、憶えてる?」
初対面なのだから知るわけが無い。甘王隆本人は知っているのだろうが、今、意識の表層にいるのは魔王だ。
「知らぬ。だからといって名乗る必要もない。貸した5万を返せ。ワシの望みはそれだけよ」
「もちろん返すよ。でもその前に、さっき、呪いっていってたよね。わたし、誰かに呪われてるの?」
「致死性の呪いを掛けられているようだのう。おそらく電車に飛び込んで死ねとでも言われたのだろう。気の毒だが、生きておうちには帰れぬな」
「いつどこで、誰が何のためにわたしのこと呪ったの?」
「知らぬよ。金を借りて5年も返さぬ輩など呪われて当然じゃろう。お主を呪う者は多そうじゃ」
「あなたがわたしを呪ってるの?」
勘違いにもほどがある。呪いを掛けて殺そうと企む者が、身を呈して殺す相手を庇うわけがない。それはすぐに女も察したらしく、ごめんなさいとテーブルの向うで頭を下げる。
「きみがわたしのことを知らないというのなら、改めて自己紹介するわ。わたし、小山美穂っていうの。きみより二つ上で、きみとは、わたしが大学生の頃、ハンバーガーショップで一緒にバイトしてた」
「そして借りた金を踏み倒した」
「そうね。返さなかった。返せなかったというのが本当かな」
美穂の両手が魔王の右手を包み込む。恐怖のあまり握りしめていた先程とは異なり、微妙に力の加減を変えて魔王の手を握ってくる。
「あのとき、わたし、きみに言ったよね。助けてほしいって。うちの母が入院して、急にお金が入用になって、でも誰も助けてくれなくって。その時にきみだけが、わたしを助けてくれた」
それで甘王隆はなけなしの金をこの女に渡したのだ。以前、オ・カァサンやイ・モウトゥから断片的に得た情報では、隆はこの女に惚れこんで金を渡したことになっていた。だが今の美穂の話からすると、事実は違うようだ。この女は、家族思いな隆の、最も脆い部分に付け込んで金を騙し取ったのだ。
殺すか。
魔王の胸の内に純然たる殺意が沸き起こる。それは意外な衝動だった。魔王にとって人間など、虫けら以下の存在にしか過ぎない。腕に留まったやぶ蚊を叩き潰すのに大した理由がないように、未だかつて人間に対して殺意を感じたことなど一度も無かった。だが、この女はに対しては、心の底から嫌悪を感じる。
魔王が就活の為、オ・カァサンから金を借りて買った格安のスーツとは違い、美穂が身に纏っているスーツは素材からして異なる一級品だ。アイスクリームを買う際に取り出した財布も、最低でも数万円はする高級ブランドのものだった。金を借りたことを本当に感謝しているのなら、美穂は金が入った時点ですぐ返済に現れるべきで、それをしない時点で美穂の真意は割れている。
美穂の両手が、魔王の右手を胸元へと導く。魔王を隆と信じて疑わない美穂からすれば、異性に縁の無さそうな隆なら、この程度の色仕掛けで簡単に落とせるとでも思っているのだろう。
「あのとき、すぐにでもお金を返そうと思ったんだけど、きみ、あの後すぐにバイト辞めちゃったでしょう?わたしも、母の看病や大学が忙しくなっちゃって。ずっと悪いと思ってたんだけど」
時間の経過と共に、美穂の中で駅での出来事は曖昧になってきている。電車に近づきさえしなければ、自死の呪いは発動せず、美穂は普段通りの生活を送れるのだ。恐怖が薄れた今、隆を誑かして過去の借金を帳消しにしてしまうつもりでいる。
「いい機会じゃないですか。貸し借りを失くして、二度と会わない。お互いの為にも、それが一番です」
腹立ちを気取られぬように、バイトモードの甘王隆の言葉で返した。
自死の呪いを掛けられている美穂はどうせ助かりはしない。通常の攻撃魔法とは異なり、一度発動した呪術を解除するのは不可能に近い。呪った相手、呪いが作動する仕組みや条件を解明し、その条件をひとつひとつ解除していかなければ、呪いを解くことはできない。美穂は、いつどこで、誰に呪いを掛けられたかも判らないと言っていた。甘王隆が美穂を助けたいと願ったところで、魔力が安定しない現状では救いようがないのだ。金を回収した後、美穂を見捨てる。それが最善だった。




