荷台
兄からの電話を受けてからきっかり10分で、兄がいる公園の駐車場に到着した。
子どもの頃、荒川の対岸で打ち上げられる板橋区の花火大会を、兄と一緒にこの公園で見物したことがある。ここから家までなら、歩いても30分かからないはずだが、5年引き籠っていた兄は方向感覚も失ってしまったのかもしれない。
駐車場の入口脇にあるガードレールに腰掛け、兄は冬の夜空を見上げていた。何があったのかは分からなかったが、駐車場の周囲には多量の鳥の羽が舞い、駐車場からは強烈な異臭がした。
兄の前に自転車を止めると、空を見上げていた兄があかねに顔を向けてきた。兄の顔は血まみれで、服はぼろぼろだった。
「どうしたんだ兄貴!」
自転車を歩道に倒したまま、あかねは兄に駆け寄った。
「ちょっと小突かれただけじゃ。心配には及ばぬ」
何事もなかったように兄が答える。
「いや、やばいだろうそれ。救急車呼んだほうがよくないか?」
赤紫に腫れあがった顔のまま、兄が首を左右に振る。
「大丈夫じゃ。それより、すき焼きとやらを食すのであろう?どうなんじゃろうな。タコ焼きより美味であろうか?」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう。見せてみろよ」
兄に近づき、顔の傷を見た。傷は他者からの暴力で負ったものであることは、格闘技をやっているあかねからすれば一目瞭然だった
「誰にやられたんだよ。知り人がどうとかいってたけど、そいつにやられたのか?」
「送れといったのに、逃げてしまいおったわ。留まっておれば記憶を消してやれたのにのう。この先あやつ等は、生涯鳥とネズミに怯えて生きていくことになる」
「なに訳わかんねぇこといってんだよ。つまり、やられたけど仕返ししたってことでいいのか?」
「それでよい。いや、むしろ連中には感謝せねばならんな。一刻とはいえ、あやつ等のおかげで魔力を取り戻せたのだからな」
「頭打っておかしくなってねぇか。大丈夫だっていうなら信じるけど、熱でたらすぐに救急車呼ぶからな」
首に掛けていたスポーツタオルで傷についている血を拭うと、兄は苦痛に顔を歪めた。
「痛いぞ、イ・モウトゥ」
「帰ったらもっと痛くするぞ。顔中消毒しなきゃだからな」
ふんと鼻を鳴らずと、兄はあかねに向かってニヤリと笑った。
「ワシを痛めつけて無事でいられるのは、イ・モウトゥとオ・カァサンだけじゃ。感謝するがよい」
軽口を叩けるならとりあえずは大丈夫だろうと思い、あかねは歩道に倒した自転車を引き起こした。サドルに跨り、荷台に乗るよう兄を促した。
「帰るぞ。乗れよ」
あかねの顔と荷台を交互に見比べたあと、兄はぎこちない動作で荷台に跨った。
「これは、電車や自動車よりも乗り心地が悪いのう」
「跳ばすから、しっかり掴まれよ。腰より上触ったらぶっ飛ばすからな」
べダルに足を掛けた瞬間、兄の手があかねの胸を握った。
「いぎぃっ」
怒りに満ちた目を兄に向けた。
「ワシの本棚にある書物によると、こういうのをお約束というらしい。間違っておるか?」
「ほう、そうかい。じゃ、こういう場合のお約束で、あの月の向こうまでぶっ飛ばしてやろうか?」
「すまん、ワシが悪かった。許せ」
兄の腕が腰に廻されたのを確認すると、あかねは自転車のペダルを漕ぎ始めた。数年に渡る不摂生の影響で、兄の体重は百キロに近い。自転車の後輪が沈み、ひと漕ぎするだけでも苦しかった。
「太りすぎだぞ、兄貴」
最初はゆっくりだったが、自転車は徐々にスピードを上げ始める。
「どうやらそのようじゃ。動きが重い。今日それを痛感したぞ」
「だったら運動しろよ。ヒマだったら付き合うせ」
「そのときが来たら力を借りよう」
「いつでも言えよな。わたしの特訓は半端じゃないぜ」
自転車は街灯の少ない幹線道路を北に向けて加速していく。




