使役魔法
最初に現れた異変は、鳥の囀りだった。
荒川の架線を渡る電車の音に紛れて、鳥の囀りが聞こえ始めた。微かな気配にしか過ぎなかったその囀りは、瞬く間に広がり、無数の羽音と共に辺り一面に響き渡り始めた。
アスファルトの上に、雨だれのような黒い影が無数に現れては消えた。影は数を増し、やがて月の光を遮り、辺りを真の闇に変えた。見上げると、幾千もの鳥が羽ばたき、渦を巻いて空一面を覆っていた。狂ったように囀り飛び回る鳥どもだったが、その行動は奇妙なほどに統制が取れていた。狂乱の中にありながら、鳥どもは一点を目指して終結しつつあり、核である一点を中心に円を描いて飛んでいた。そしてその中心にいるのは、甘王だった。
鳥の大群から目を離し、佐藤は渦の中心に立つ甘王を見た。鳥どもの羽ばたきが生み出した強風に晒されて立つ甘王は、何かを思案するように目を閉じ俯いていた。顔を上げた甘王は、ゆっくりと閉じていた目を開いた。甘王の双眸は紫に輝き、その視線はサーチライトの照射のように佐藤を捉えていた。
「気の毒なことよ」
甘王の声が聞こえた。今では数千にも上るだろう鳥どもの囀りと羽音の中にありながら、甘王の声は直接頭の中に響いてくるようだった。
「よりによって使役魔法が発動するとはのう。気の毒じゃが、お主ら」
くぐもった笑い声すら鮮明に聞こえてくる。邪悪な笑みを浮かべた甘王は、そもそも口を開いてすらいなかった。
「楽には死ねんな」
渦をまく鳥どもの中心で、甘王が両手を広げた。圧倒的な歓喜、圧倒的な力の波動が甘王の全身から迸っていた。魔の波動の直撃を受けた佐藤達三人は凍りついたように立ち尽くし、その全身は絶え間ない筋肉の異常収縮に襲われた。石化するほどに硬直した筋肉の痛みに晒された三人はそれぞれが声を限りに苦痛の叫びを上げたが、その声は次に現れた獣の唸りにかき消されてしまった。
鳥どもが落とす影が創り出す闇の中で、うねるように大地が動き始めた。闇を湛えながら蠢動する大地には、星を散りばめたように無数の赤い光が輝いていた。がちがちと牙を噛み鳴らしながら足元を掠めていく生物の正体を知った瞬間、佐藤は声帯が千切れるほどの絶叫を上げていた。
大地を覆う黒い絨毯の正体は、汚水の中から飛び出してきたばかりのドブネズミの集団だった。
ネズミどもは我先にと競いあいながら、佐藤たち三人を取り囲んだ。全身の筋肉が強張って身動きひとつできない三人は、数千匹のネズミどもの全てが、自分たちだけを標的としていることに気づいた。空を覆う鳥の大群、足元を埋め尽くすネズミの群れのどちらも、明確な意思を持ってここに集っていた。そしてその意思とは、全能の魔王に盾突く不届き者の始末以外に他ならない。
「心配には及ばぬ」
頭の中に甘王の声が響いてくる。耳を塞ぎたかったが、全身の筋肉が硬直しているせいでそれも叶わない。それに仮に両手で耳を塞いだところで、甘王の声から逃れることなどできはしないだろう。
「弔いやすいよう首から上は無傷で残してやる。主らの家族が、屍を見て区別がつくようにな。それ故、安心して我が僕の贄となれ」
足元からネズミどもが駆け上がり、全身を覆い尽くした。鳥の羽ばたきが一段と大きくなり、無数のムクドリが佐藤の頭にたかり硬いくちばしで頭髪をついばみ始める。視線を動かすことはできなかったが、他の二人も同様の被害に合っているのは想像に難くない。
「助けて、助けて下さい」
肺から絞り出したような叫びが聞こえた。聞きなれない声だと思ったが、聞いているうちに、恐怖に駆られた岩田の声だと気づいた。
「逃げるくらいなら死んだ方がマシなのだろう?向かって来い。命を賭して、ワシに一矢報いてみよ」
甘王は上機嫌だった。その声には慈悲など欠片もない。何をどうしようと、絶対者である甘王が操る死の顎からは逃れようがなかった。




