嫁
「なんなの、朝から」
階下から女の声がした。イ・モウトゥが階段の下に目を向け、気まずそうな顔になる。
「お母さん、起こしちゃった?」
階下に向けてイ・モウトゥが申し訳なさそうな声を出す。
「あれだけドカドカやられたら、そりゃあ起きちゃうよ」
階段を上がって、中年の女が姿を見せた。
「隆、ずぶん早いじゃない。寝てないの?」
中年女がこちらに声を掛ける。状況からして、この男の名はタカシなのだろう。
「この結界を張ったのはお前か?見たところ普通の人間のようじゃが」
「結界?なに言ってんの。またあれかい?ええっと、こども病?」
中年女がイ・モウトゥに問いかける。
「厨二病。ちゅううに、びょう。完全にこじらせてる。今回は特にひどい」
「そうなんだね。でも今度は、ぼろぼろにした手ぬぐい腕に巻いてないじゃない」
「そういうキャラじゃないんじゃない?バカ兄貴、お前は何者だ?」
「ワシか?ワシは魔王じゃ。この世界の人間共をひとり残らず滅ぼしてくれる」
イ・モウトゥの顔が嫌悪に歪む。
「だ、そうです」
女が驚きの表情でこちらを見る。
「まぁ、人間をひとり残らず?だったら、わたしとあかねも死んじゃうの?」
イ・モウトゥが凄まじい殺気を放ってきた。視線だけで岩に穴を穿ちそうな殺気だ。連れの女を傷つけるなという意味なのだろう。
「いや、まぁ、全部でなくてもよい。お主らは、そうだな。特別に許してやらんでもない」
「まぁうれしい。お礼に何をしましょうか?」
中年女が笑った。笑顔になると表情が別人のように明るくなる。思ったより若いのかもしれない。
「礼か。だったらそうじゃな。あの不愉快な女どもの絵を外してくれんか?」
部屋の中央に貼られた、ひときわ大きな女の絵を指差した。カラフルでピチピチの衣装を纏った子供のような女の絵だ。
「本気か?あれって、兄貴の嫁だよな」
イ・モウトゥが驚いて声を上げた。
「嫁?ワシのか?冗談はよせ」
中年女も壁に貼られた女の絵を見つめ不思議そうに顔を傾げる。
「隆、でもあれって、バビブベ・ボンズちゃんでしょう?ボンズは俺の嫁って、いっつも言ってるじゃない」
「お主正気か?あれがワシの嫁じゃと?」
改めて壁に掛けてある女の絵を見た。隣のイ・モートゥと同じくらいの大きさがある。
「これは、絵じゃ」
「えぇぇっ!」
イ・モウトゥとオ・カァサンと呼ばれた女が同時に声を上げた。
「本気で言ってる?フェイクじゃなくって?」
イ・モウトゥが疑いの眼差しを向ける。
「質問の多い奴らじゃのう。こんな出鱈目な絵を嫁にする奴などいるものか」
「それがいるんだよ」
「そんな阿呆がどこにいる?」
オ・カァサンとイ・モウトゥが同時に指を突きつけてきた。
「お前だよ!」
「ミー?」
「イエス、ユー!」
ため息をつき、肩を竦めてみせた。
「わかったわかった。イ・モウトゥよ。ワシの目の前で、あの絵を破り捨てるがいい」
「なんで自分でやらないんだよ」
「ワシに対する魔除けの札だとしたら、罠があるやもしれぬ。お主が破り捨てよ」
「じゃぁやるけど、本当にいいんだな。昔の鉄道模型みたいなことにならないよな?」
「鉄道模型?なんの話じゃ」
「わたしが間違って隆の鉄道模型捨てちゃったでしょ。そしたらあんた、泣きわめいて部屋に籠っちゃったじゃない」
オ・カァサンが困ったような顔で言う。
「そうなのか?それはこの男、いやワシにとって、命にも代えがたい品だったりしたんじゃろ?」
「命より大切な物を、燃えないゴミの上に置くかよ普通。ゴミだと思うだろう」
「で、それから五年、この狭い部屋に閉じこもっているというのか?」
オ・カァサンとイ・モウトゥが同時に頷く。
「情けない男じゃのう」
「お前だよ!」
ふたり同時に指を突きつけてくる。この辺のタイミングは、何千回も練習したようにピッタリと合っていた。
「ともかく心配するな。破こうが尻を拭こうがヤギに喰わせようが一向に構わぬ。イ・モウトゥよ。やってしまえ!」
バビブベ・ボンズを指差し、高らかに宣言した。
「アイドル、偶像崇拝。愚かしいにもほどがあるわ。やれっ!やってしまえ!」
「いいんだな。遠慮なんかしねぇぞ」
イ・モウトゥがたわわな胸を揺らしながら部屋の中に踏み込んだ。絵に両手を掛けると、一気に破り取る。
「ああっ!」
悲哀を込めた叫びを上げた。イ・モウトゥの全身が硬直するのが、背後からでもよく分かった。
「本当に破いた。ダメじゃ。今度は五年では済まぬ。今から三十じゃ。三十年は籠るぞ」
「えぇぇ、破いていいって」
「嘘じゃバカ。騙されおったの」
顔を真っ赤にしたイ・モウトゥが、床に転がった石鹸を掴み、顔面に向かって投げつけてきた。
「甘いわ」
想定内の動きだったから、いとも簡単に飛んできた石鹸をキャッチしてみせた。
「まだまだ甘いの」
言った瞬間、視線が塞がれた。イ・モウトゥが体に纏っていたタオルを脱ぎ捨て、顔に被せたのだろう。
「うぐっ」
顔を覆ったタオルはまだ湿っていて、イ・モウトゥと同じ石鹸の香りがした。
「小賢しい真似を」
タオルをむしり取ると目の前にバビブベ・ボンズがいた。実体化したのかと思ったが、ベットの脇に置いてあったボンズの抱き枕だった。
「後ろだ、バカ兄貴!喰らえジャーマン」
背後からイ・モウトゥの両腕が伸びてきて、パンパンに膨れている胴に絡みつくのが見えた。同時に体が浮き上がり、脳天から床に叩きつけられた。
自分より体格のいい男の体を持ち上げ、ブリッジしながら背後の床に叩きつけていた。腕力もさることながら、凄まじい瞬発力だった。見込んだ通り、イ・モウトゥの体は性能がいい。だがその技には切れが欠けていた。脳天を床に叩きつける直前に、イ・モウトゥは速度を落とし、ケガをしないよう手加減していた。
立ち上がったイ・モウトゥはいつの間にかタオルを体に巻いていた。軽く腰を落とし、身構えた姿を見る限り、イ・モウトゥが何らかの格闘技を身に着けているのは明らかだった。
「よしなさい。朝から」
オ・カァサンがたしなめる。強制力は無いが、妙に抗いがたい不思議な物言いだった。
「あかね、朝ごはん作ってあげる。隆も食べるでしょ?持ってきてあげる」
「ワシは食事は摂らん。だが興味がある。同行するが構わぬか?」
「えぇぇっ!」
「今度は何じゃ。いちいち騒ぎおって」
「兄貴が一緒に朝ごはんって、十年近く前の話だぞ」
「ワシなぞ食事の席に着くこと自体、数百年ぶりじゃ。十年くらいで驚くこともなかろう」
オ・カァサンとイ・モウトゥが顔を見合わせている。家族とかいうものは食卓を囲むものだと聞いていたが、そうでもないらしい。
「それじゃぁ、お母さん、ちょっと張り切って作ろうかな。数百年ぶりの朝ごはんなんだもんね」
疲れを滲ませた笑顔を見せながら、オ・カァサンが階下へと去っていく。
「今度はどんなキャラ設定かしらないけどさ」
視線を向けずに、イ・モウトゥが呟く。
「まあ、前よりはマシなんじゃない?闇の狩人、ケンタウルスなんとかよりさ」
階段を下りていくイ・モウトゥの背中を見つめながら、やはりあの体が欲しいと考えていた。




