円月輪十六夜
瓦礫の底で、勇者は目を開いた。鼻孔から進入する容赦のない異臭に咳き込みながらも、上体を起こし、顔を覆っている黒い粘液を両手で拭い落とした。
油断していた。オオカミの首だけに注意を払っていたせいで、無防備な状態で呪詛を受けてしまった。強力な呪詛は物理攻撃に等しく、勇者の全身は強力な酸を浴びせかけられたのも同然のダメージを受けているはずだった。それなのに、勇者の体に新たな傷はみつからなかった。
勇者は懐に手を差し込み、金龍から引き抜いた髭を取り出した。手綱ほどの太さだった龍の髭は、依然眩いほどの光を放ってはいたが、糸絹のように細くなっていた。
「これに助けられたのか」
勇者は手にした龍の髭を、前髪の一本に結び付けた。束の間黄金色に輝いた龍の髭は、やがて勇者の髪の毛と同化して見えなくなった。
体に絡みついた粘液を拭い去ると、勇者は瓦礫の中から魔王と女の顔を持つ怪物を見上げた。
「もう一度あれを受けたら、助からないな」
上空を旋回するオオカミの怪物を見上げながら、勇者は呟いた。
周囲を見回すと、ほのかに赤く光る魔刀が落ちているのが見えた。自分の右手には、青い光を刀身に留めたもう一振りが握られている。
故あって手に入れた伝説の魔刀だった。左の一本を玉鋼眉月、右を玉鋼有明という。勇者であるなら光の属性を持つ聖剣を使うべきだと、三賢者のひとり、剣の師であったランスロットは言い募ったが、勇者は自分の手に馴染む二振りの魔刀を手放さなかった。
魔法効果の残したまま、赤く光る眉月を拾い上げると、勇者はその場に胡坐をかき、再び呪文詠唱を開始した。詠唱の声が力強く響き始めると、それに呼応して両手の魔刀も輝きを強めていく。
瓦礫の上を飛行する魔王は、勇者が落下した辺りの瓦礫の底から溢れ出す強烈な光を目にした。傍らを飛行するスキュラに目を向けると、六つの首に囲まれた主人格である女の顔が、困惑したように魔王を見返していた。
「行け。殺せ」
女の顔が六つのオオカミの首の中に埋もれると、スキュラは光に向かって突進を始めた。
輝きが限界点に達すると、魔刀は輝きを黒い刃の内側に閉じ込めた。鈍く輝く魔刀を両手に下げたまま、勇者は立ち上がり深呼吸をした。頭上からは飢えたオオカミの唸りと吠え声が大地を震わせる勢いで響いてくる。魔刀でスキュラを攻撃するには刃が届く範囲まで接近しなければならない。勇者の今の実力では、魔刀を構えたまま遠距離攻撃魔法を放つことはできないからだ。だが距離を詰めようとすれば、スキュラは再び女の顔を勇者に向け、呪詛による攻撃を仕掛けてくるだろう。
「困ったな」
憎悪を剥き出しにして吠え狂うスキュラに目を向けた勇者の顔に、困惑が浮かぶ。
「こんな状況なのに、少し楽しい」
不適な笑みを浮かべた勇者の頭上に、スキュラが姿を現した。
スキュラの目は、勇者が両手に持つ魔刀を捉えていた。刀身に光を留めた魔刀は、強力な魔法効果を付与されている。スキュラは突進の速度を落とし、オオカミの首を左右に分けた。首を掻き分け、中央に現れた女の顔は、正面に立ち尽くす勇者の姿を見て、舌なめずりを始めた。憎悪を込めた呪詛を吐き出そうと、女は口を開き大量の空気を肺に取り込み始めた。
勇者の両手が体の前で交差した。両手に持つ二振りの魔刀の茎を重ね合わせると、魔刀はひとつの輪と化した。重なり合った茎に指を掛け、勇者は全身を回転させ、円環と化した魔刀をスキュラに向けて投げつけた。互いを憎み合う父と息子が、互いを殺そうと心血を注いで打ち上げたそれぞれの魔刀だったが、茎を中心に重ね合わせ円形にすることで、憎しみを浄化した清浄なる刃へと変化する。
「緋緋色金円月輪十六夜」
黄金色に輝く円月輪は、空気の抵抗を受け複雑な軌道を描きながら、女の顎下へ飛んだ。熱したナイフでバターをそぎ落とすように易々と女の顔をそぎ落とした円月輪は、スキュラの更に上空にいた魔王の鼻先を掠めた後に、半円を描いて勇者の手に戻っていった。
円月輪に切断された女の顔は地響きを立てて、勇者の前に落ちた。スキュラ本体である女の顔は、首から斬り落とされて尚生きていた。女の眼は勇者を睨み、唇は再び呪詛の声を浴びせかけようと捲りあがる。
「やめましょう」
円月輪を分け、元の二振りの魔刀に戻し鞘に納めると、勇者は女の顔に向けて静かに声を掛けた。
「あなたは美しい。これ以上傷つけたくはありません」
勇者の言葉に、女の顔は驚いたように目を見開く。女の顔から、禍々しさが抜け落ちていく。
「こんな形でしか、あなたの呪いを解けなかった。わたしの力の無さを許してほしい」
女の瞳に涙が浮かぶ。瞼を閉じると、一粒の涙が女の頬を伝い落ちた。
「休んでください」
勇者の右手が女の頬に触れると、女の顔は眩い光を放ち、やがて消えていった。
「甘いのう」
見上げた先に、スキュラの背に立つ魔王がいた。本体であるはずの女の顔を斬り落とされても、スキュラ本体はまったくダメージを受けていないように見える。
「尻の軽い女だ。甘い言葉に釣られて、己を切り刻んだ男を許すとは」
オオカミの頭のひとつを撫でながら、魔王が皮肉めいた笑みを浮かべる。
「躾が足りなんだわ。不死身の怪物と聞き、買い被った結果がこれよ」
魔王の手が撫でていたオオカミの頭を鷲掴みにする。
「フロガ・エオーナ」
薄笑いを浮かべた魔王が呟くと、魔王に頭を鷲掴みにされたオオカミの頭から炎が上がり、瞬く間にスキュラの全身が炎に包まれた。
六つの首それぞれが苦痛の叫びをあげ、スキュラは空中でのたうち回った。全身を覆う炎は、いくら足掻いてもスキュラの体から消えずに燃え続けている。
「ほうら、良い子だ。苦しみから逃れたくば、その男を噛み殺せ」
絶望に血走った眼を魔王から勇者に向けると、炎に包まれたスキュラは地上に立つ勇者目がけて突進を始めた。
「惨いことを」
突撃してくるスキュラに目を向け、勇者は右の魔刀を引き抜いた。氷の魔法を付与されていた玉鋼有明は未だ刀身に蒼い光を留めていたが、魔法効果はかなり薄れているに違いなかった。
フロガ・エオーナは、永遠に消えることない炎で敵を焼き尽くす術だ。フロガ・エオーナで全身を焼かれているスキュラは、不死身の体を持つが故に、焼け死ぬことなく苦しみの中で永遠に再生を続ける。
勇者は帯革に下げた革袋から、小さな木の実を取り出し、そのまま握りしめた。
「フロガ・ミクロン」
呟くと同時に、勇者の右手が微かに赤く輝いた。フロガ・ミクロンは炎系魔法の初級コースで習得する、掌を温めるだけの簡易魔法だった。
勇者は掌を開くと、握りしめていた木の実を口の中に放り込んだ。
勇者の体がほんの一瞬だけ、紫に輝いた。同時に、周囲の動きが緩慢になっていく。襲い来る炎のスキュラや、降り注ぐ瓦礫の破片のスピードが極端に落ち、停止したような世界の中で、勇者は呪文詠唱を開始した。