怪物
降り注ぐ瓦礫の山を潜り抜けた勇者は、右の刀を抜き放ち、老人の首目掛けて突き出した。刃が老人の喉を貫く瞬間、老人の体は舞うように飛翔し、勇者から離れて行った。
「わしからも提案しよう。人間を殺せ。10人にひとりは生かしておいてよい。選別し10分の1になったなら、人間の存在を認め、我が世界の片隅で細々と暮らすことを許して使わす」
跳躍し、飛翔する老人に追撃を掛けようとした勇者の頭上から、全身を震わせる獣の咆哮が轟いた。仰ぎ見ると、崩落した天井の岩盤を突き破り、巨大な黒い影が覆い被るように落下してくる。
地上に降りた勇者は、強大な影を避けようと瓦礫の山を縫うように走り抜けた。地上に降り立った影が、再び耳を覆う雄叫びを上げた。影の正体は体長20メートルを超す巨大な灰色オオカミだった。オオカミが異様なのは体の大きさだけではなかった。オオカミの首には、鼻ずらに皺を寄せ、白い牙を咬み鳴らす六つの頭が生えていた。オオカミは互いに牽制しあい、不機嫌な唸り声を上げながら、眼前にいる勇者の姿を見据えていた。どれが司令塔なのかしれないが、互いに牙を咬み鳴らすオオカミの頭たちとは異なり、灰色の獣毛で覆われた強靭な四肢は、勇者に向けての跳躍に備え張りつめている。
六首オオカミの突進に合わせて、勇者の体が疾駆する。激突する瞬間に跳躍した勇者は、オオカミの咢を躱し、右手にもつ刀で首のひとつを斬り落とした。斬り落とされた頭は短い悲鳴を残して大地に落ちたが、残る五つの頭は何もなかったように勇者の姿を追っている。
斬り落とされたオオカミの首から、新たな頭が生え始めていた。傷の再生速度は速く、新たに生えてきたオオカミの首はすぐに体になじみ、他の五つとの見分けがつかなくなった。
足場の悪い瓦礫の山の中を駆けながら、勇者は呪文の詠唱を始めた。口の中で唱えていた呪文は、六首オオカミに近づくほどに大きくなり、呪文に呼応するように勇者の左手が光を放ち始めた。赤く輝く勇者の左手は、声の大きさに比例して輝きを増していく。
「フロガ・ヴェーロス!」
突き出した勇者の左手から無数の炎の矢が放たれ、六首オオカミを直撃した。炎と爆炎に包まれた六首オオカミがもんどりうって倒れるのを見ると、勇者は左手でもう一本の刀を抜き放った。両手に握った刀を引きずるように疾駆に入った勇者は、再び呪文の詠唱を開始する。
両手に下げた刀が、異なる輝きを帯びていく。左手に下げた刃は赤く、右手のそれは青く輝き始めていた。右脳と左脳を同時に使い、異なる魔法を左右の剣に付与する技術は、最高難度を誇る魔法剣の秘儀だ。
「バフゴロスガ・エエククリリククシシーー」
バゴス・エクリクシーとフロガ・エクリクシー。氷属性と炎属性の魔法を同時に発動させるには、自分の中にふたつの人格を作り上げ、それぞれに呪文を詠唱させる必要がある。結果、ふたつの人格により詠唱された呪文は重なり合い、混ざり合って口をついて出る。
右に構えた絶対零度の刃が、六首オカミの首筋に叩き込まれた。一拍遅れで発動した魔法効果は、オオカミの全身を一瞬にして凍りつかせた。
勇者が凍てついたオオカミの首筋に左手に構えた炎の刃を突き立てようとした瞬間、六つのオオカミの頭を掻き分けて巨大な金髪を持つ女の顔が現れた。オオカミの胴体に生えた女の顔は、閉じていた瞳を開き勇者を見つめた。女の虚ろな瞳と視線を重ねた勇者の動きが、束の間停止した。
真一文字に結ばれていた女の唇が裂け、憎悪を宿した異国の言葉を吐き出した。呪詛は空気に触れた途端に実体化し、粘着性の液体となって勇者の全身に絡みついた。
「喰らいおったわ」
宙に浮いて勇者を見ていた魔王が、膝を打った。
「人の身であれを喰らっては、ひとたまりもなかろう」
冷たい笑みを浮かべた魔王は、瓦礫の山へ落下していく勇者を目で追った。
「たわいない。あれが勇者とはの」
瓦礫の山に激突した勇者の体は、大量の粉塵を巻き上げながら瓦礫の底へ落ちていく。
巨大な女の顔が薄ら笑いを浮かべ、魔王を見る。魔王が女の顔に頷いてみせると、女の胴体に当たるオオカミの尻尾がうれしそうに左右に揺れた。魔界の深層から連れ出した伝説の怪物スキュラだった。手なずけるのに時間はかかったが、今は忠実な犬のように魔王の命令に従うようになっていた。
「終わったの。あとは人間共を駆除するのみ。なんとも面白みのない結末だったわい」
魔王はため息をつくと、勇者の姿が消えた瓦礫の山に向けて移動を開始した。