魔王
勇者は真っ直ぐに闇の中を落下していた。
奈落へと続く竪穴は深く、どこまで落ちても先に光は見えなかった。どれほど落ちたのか分からなくなったころ、視線の先に微かな光が見えた。針の穴を通して見るような小さな光の点は、時間の経過と共に少しずつ大きくなっていく。
下方に灯りが見えたことで、勇者は自分が頭から一直線に落下中であることを知った。上体を起こし体を開くことで、風の抵抗が強まり、落下のスピードが少しだけ遅くなった。共に落下していた数百匹のサラマンダーの死骸をやり過ごし、勇者は呪文の詠唱を始めた。
魔術の適正は、もともと乏しかった。自分を育ててくれた三賢者のひとりであるエンノオヅネは、勇者に魔術師としての適性がないことを早くから察知し、魔法自体を教えるのではなく、魔法の成り立ちそのものを教えることにより、敵からの魔法攻撃を躱す術や、自分の能力を倍増させる補助系魔法の応用を身に着けさせてきた。結果、勇者自身が扱える魔法は僅か数種類しかなく、それも長大な呪文詠唱を必要とする戦闘に不向きなものばかりだった。
勇者が詠唱し始めたのは、自身の体に受ける物理ダメージを軽減するマモリトの呪文だった。呪文を詠唱し終えると、勇者の体が緑色に輝く薄い被膜に覆われた。本来は敵の打撃から身体を防護する術で、高高度からの落下の衝撃に耐えるほどの効力はない。このまま地面に激突すれば、勇者の五体は飛散する。
終着である灰色の大地が迫ってきていた。夥しい数のサラマンダーの死骸が次々に地面に叩きつけられていく。
体を地面と平行に保ったまま、勇者は左手を突き出した。掌を大地に向け、発生する強力なエネルギーの逆流を防ぐため、右手で左手の前腕を掴む。
「フロガエクリクシーィィ」
叫びと同時に、左掌から高温の火球が放たれた。勇者が操れる炎系の最大呪法がフロガエクリクシーだった。錬成された超高温の火球は、大地に激突すると急激な熱膨張を起こし、音速を超える衝撃波を伴いながら爆風を拡散していく。
錬成した火球は、落下地点に折り重なるサラマンダーの死骸を直撃した。火炎耐性の優れたサラマンダーの皮膚でさえ一瞬に蒸発させた火球は、爆風を伴って煙突状に伸びた空洞へと向かった。
勇者は背負っていた白銀の盾を体の全面に押し出した。全身が盾に隠れるよう体を折りたたむと、噴き上がる爆風の中に構えた盾ごと突入した。爆風が重力に逆らって勇者の体を押し上げる。落下速度が著しく落ちるのを感じた瞬間、勇者の体は盾ごと乾いた大地に激突した。
激突の衝撃の大半は盾が吸収してくれていた。北の永久凍土から掘り起こされた氷と鉱石が混合された特殊な材質で作り上げられた盾だったが、落下の衝撃で歪に変形してしまった。勇者の体は跳ね上がり、灰色の大地を激しく転がった。
回転が止まると、勇者は埃に塗れた体で立ち上がった。着地の衝撃で、唇を切っていた。盾で防ぎきれなかった四肢の一部は、噴き上がってきた爆炎のせいで、激しい痛みを伴う火傷を負っていた。
勇者が立ち上がった先に、岩石で作り上げた巨大な玉座が見えた。広大な荒れ地の中央に据え付けられているように見えたが、天井の設えからして、そこが伽藍であることがしれた。光など入らぬ地の底でありながら、伽藍の中は明るい。これももまた、魔王によって施された魔法なのかもしれない。
玉座には小柄な老人が座り、勇者が落ちてきた空洞を見上げていた。
「あそこから落ちてきたのか」
視線を空洞の先に向けながら、老人が訊ねる。答えを欲していない、呟きに近い声だった。
「飛翔系の魔法や、得体のしれない道具で降りてくるなら、いくらでも迎撃してやれたのだが」
老人は埃塗れの勇者をまじまじと見つめ、溜息をついた。
「策もなく、ただ飛び降りてきたか。想像以上におかしな奴だ」
「魔王か?」
唇から零れ落ちる血の雫を拭いながら、勇者は老人の前に立った。
老人は答えず、ただ勇者を見つめている。
「もう一度問う。魔王か?」
勇者は左右の腰に差した鞘から二振りの刀を引き抜いた。柄の無い半円形の刀は日本刀というより、古のエチオピアの剣、ショーテルに近い形状を持っていた。
「玉鋼 眉月と有明か。父と子が互いを殺すために作り上げた憎悪の刃を両手に掲げ、わしの前に立つか」
うれしそうに捲り上がった老人の唇から、オオカミを思わせる巨大な牙が覗いた。
「返事がなければ魔王とみなす。ご老人、よろしいか?」
「せわしいの。会話を楽しむ余裕もないか」
笑みを浮かべたまま、老人が玉座から立ち上がる。
「わしが魔王だとしたら、主はわしをどうする気だ?その二振りでわしを殺すか?」
「魔物の進軍を止め、元いた場所へ帰るというなら、あなたのこれまでの行いには目を瞑る」
「それは素晴らしい」
激しく両手を打ち付け、老人は声を上げて笑い始めた。
「百を超える村を焼き払い、数千もの人間どもを殺したわしを、お前は許すというのか?貴様らの土地を汚し、不毛の大地に変えてやったことも、貴様を育てた、あの忌々しい三賢者を皆殺しにしてやったことも全て忘れて、貴様はわしを許すというのか?」
「これ以上の殺戮は望まない。魔物といえど怒りも哀しみを持っているのだろう?われらも多くの魔物を殺した。ここで引くというのなら痛み分けだ」
「本気でいってるのか?」
勇者は二振りの刀を鞘に戻した。
「本気だ」
老人は目を伏せ、何かを考えるように俯いた。
「本気でいっているのなら」
顔を上げた老人の鋭い視線が勇者を捉えた。
「貴様は大馬鹿だ」
老人がそう告げると、広大な空間を持つ魔王城の天井の一部が大音響と共に崩れ落ちた。瓦礫は粉塵を撒き散らせながら、勇者の頭上へ降り注いだ。