帰宅
メゾン・ド・ビトーは北赤羽駅徒歩17分の場所にある、1DKのアパートだ。木造モルタルづくり築30年のこの建物は、低所得者向けの賃貸アパートで、古さと日当たりの悪さが相まって、付近の相場よりも1万円ほど家賃が安い。
1階と2階にそれぞれ3室あり、そのうち5室は埋まっている。南条民人の部屋は2階の中央202号室で、よく軋む金属の階段を上がり、昼間でも薄暗い廊下を進んだ先にあった。建物は薄汚れ、全体的に湿っぽい。ここに住むなら留置場の方が幾分ましだと、廊下を歩きながら奈緒は考えていた。
到着したときには晴れていたが、南条の部屋の前に着いたときには雨が降り出していた。強烈な暑さで急発達した積乱雲が、夏の嵐を呼んでいた。
「おお、確かにここだ。わたしはここで目を覚ましたんだ」
自室のひび割れたドアを指差し、南条がうれしそうに叫ぶ。不用意に大きな南条の声は、じめついた廊下に立っていると妙に騒がしく聞こえた。
「うるさいよ」
南条の声に反応して、隣室のドアが開いた。出て来たのはうらぶれた中年女で、4~5歳の男の子を連れていた。中年女は南条の顔を一目見るなり、形相を変えた。
「また、あんたかい。何度言ったらわかるんだよ。いい大人が昼間から酒に酔って」
ひとしきり喚いたあと、中年女は南条の背後にいる奈緒と明奈に気がついた。
「女連れかい、珍しい。あれか、デリバリーなんとか」
「違います」
奈緒と明奈が同時に声を上げる。
疑い深そうに二人を見る中年女の傍らで、鼻水を垂らした男の子が泣き始める。
「怒られたと思って泣き出しちゃったよ。子どもの前で恥ずかしくないのかい?昼間からデリバリーなんとか」
「違います」
再び奈緒と明奈がハモる。
警察手帳を取り出そうと懐に手を入れた奈緒の脇を、南条が軽やかにすり抜け、泣いている男の子の前で膝をついた。
「どうした、なぜ泣いている?」
聞くだけで気持ちが暖かくなるような声だった。男の子もすぐに泣き止み、南条を見つめている。
「ママは好きか?」
男の子の目を見つめながら南条が訊ねた。男の子が小さく頷く。
「お前が泣くと、ママも悲しくなる。だから泣いてはいけない」
男の子が再び頷いた。中年女は不思議そうに息子と南条を見比べている。
「ママを守れ。それが男の子だ。今はまだ力もないだろう。だから、せめて笑っていろ。お前の笑顔を見れば、ママは喜んでくれる」
男の子は南条に笑いかけた。南条が髪に触れると、男の子は母親を見上げて笑い声を上げた。息子の笑顔につられ、中年女の顔にも笑顔が浮かぶ。
「大声をだしてすみませんでした。久しぶりに戻ったので、うれしさのあまり、つい。今後は気をつけます」
右手を胸に添え、南条が頭を下げる。西洋の挨拶にあるボウ・アンド・スクレープに似ていたが、より自然で滑らかな動きだった。
「わかればいいのよ。でもあんた、いつもの人じゃないね。ご兄弟?」
「いろいろと事情がありまして。すみません」
中年女と南条の会話に、奈緒が割って入る。ここでまた南条が光の勇者とやらの話を始めると、いろいろとややこしい。
「そうなんだろうね。うちも旦那が仕事なくしちゃってね。いらいらしてたからさ」
中年女が男の子の手を引いて部屋に戻っていく。振り返って南条に手を振った男の子の顔には、もう鼻水の跡はなかった。




