特殊閃光弾
警視庁指令センターには年間900万件近い110番通報が入る。平均すると3,5秒ごとに1回、誰かが警察に通報をしていることになる。
非常通報装置は設置された非常ボタンを押すだけで、信号が指令センターに送られ、通報場所を特定する機能を持った通信装置だ。非常ボタンではあるが、犯人に察知されないよう非常ベルなどは鳴動せず、遠く離れた指令センターに自動録音メッセージが流れる仕組みとなっている。通報を受信した指令センターは、直近にいる警察官や覆面パトカーに連絡し現場に急行させ、事案の早期解決を図る。店長が押したカウンターの下の非常ボタンは、まさにこのタイプの非常通報装置だった。
南条が入ったコンビニ、おひさまマート志村坂上店は警視庁第10方面本部の管轄区だった。折しも第10方面では、北赤羽の金融機関が武装した強盗に襲われた直後だったため、管区内に緊急配備がなされている最中だった。
銃で武装した集団の犯行を重くみた第十方面本部は、警視庁警備部にSATの出動を要請し犯人との遭遇に備えていた。武装強盗発生から数時間しか経過していない上に、同じ大10方面本部管轄区での緊急通報であったため、強盗事件との関連を疑ったSATはおひさまマートへ急行した。現着したSATの隊員が見た光景は、コンビニ内で包丁を振りかざす男と、カウンターの中で立ち竦む女性従業員の姿だった。
この時SATを指揮していたのは、管区機動隊からの叩き上げである真庭孝明警部補だった。事件の即時解決を狙った真庭警部補は、人質である従業員女性が今現在危機的状況であると判断し、即時介入及び特殊閃光弾の使用を許可した。
特殊閃光弾はスタングレネード、フラッシュバンとも呼ばれる非致死性兵器だ。手榴弾とよく似た形状を持つ特殊閃光弾は、手榴弾同様、上部のピンを抜いて相手の直近に投げ込むことで効力を発揮する。大音響と閃光で対象の感覚を一時的に麻痺させ、その隙をついて犯人を制圧することを目的とするこの兵器は、対テロ対策において目覚ましい成果を上げ、人質救出作戦においては、スタンダードな戦術となっている。
100万カンデラの強烈な閃光と、170デシベルを超える爆発音は、カウンター内部の明奈の視力と聴力を奪った。明奈が感じた浮遊感は、爆音によって三半規管を狂わされ、方向感覚を消失したことによって生じた錯覚だった。左右はもちろん、上下すら識別できない状態で立ち尽くした明奈の体を、力強い腕が包み込んでいた。心臓の鼓動を感じ、次に人のぬくもりを感じた明奈は、閉じていた瞼を開いた。カウンターの床に横たわった明奈の体を、誰かが抱き止めてくれていた。
「ケガはないか?」
南条の声がした。声音に明奈に対する気遣いが感じられる。何かが店の中で爆発し、その爆発から南条が救ってくれた。
「大丈夫、です」
「そうか。ここにいてくれ。あとは、わたしが片づける」
完全に回復していない視力のせいで、明奈には南条の姿は見えなかったが、南条が立ち上がる気配は感じられた。
モニター越しに真庭は、信じられない光景を見ていた。
足元に投擲した特殊閃光弾が炸裂する寸前、男はサッカーボールを蹴るように特殊閃光弾を靴先で弾いていた。ピンを抜き、投擲から炸裂するまでの秒数を、隊員は訓練を通して熟知している。閃光弾が男の足元に到達してから炸裂するまでの時間は、2秒に満たなかったはずだが、そのコンマ数秒の間に、男は閃光弾の特性を見抜き、コンビニの棚の先に向けて蹴り飛ばした。それだけでも驚異的なことなのに、次に男は、カウンターの内側にいた女を両手に抱きかかえて床に伏せた。一連の動作は淀みなく、これが人間の動きなのかと疑いたくなるような速度の中で、予め決められていた手順をこなすように行われていた。
閃光弾の炸裂を待って男を確保する予定だった突入部隊は、蹴り飛ばされ、予期せぬ場所で炸裂した閃光弾のせいで完全に動きを止められていた。
炸薬が燃焼した際に生まれる薄煙の中、濃灰色のアサルトスーツに身を包んだ4名の部下たちが、被疑者を探して周囲を見回していた。
「カウンターの中だ!」
真庭はインカムに向かって怒鳴った。高感度のインカムを装備した隊員たちの首が竦むのがモニター越しにも分かる。鬼の真庭と呼ばれるほど、真庭の存在は隊員たちに恐れられている。
隊員がカウンターに向き直るのと同時に、男がカウンターの内側から姿を現した。素肌の上半身に、袖を引きちぎった青い縞模様の半纏を羽織ったふざけた格好だが、その動きは刮目に値する。
「対象を視認。現在、対象は凶器を所持しておらず」
「見ればわかる。そのまま確保しろ」
男は包丁をカウンターの上に置いたまだ。敵意がないことを示すつもりなのか、両手を上げている。
「衛兵か?」
隊員のインカムを通して、真庭にも男の声が聞こえた。まだ若い、20代半ばくらいの男だ。
「確保します」
男の問いには答えず、インカム越しに隊員が真庭の言葉を復唱する。男が凶器を放棄したことが判明している以上、隊員の携行するH&K MP5の銃口を向け続けるわけにはいかない。
「指揮官と話がしたい。ここにいるのか?」
男の声が聞こえる。お前とは山ほど話をすることがありそうだなと真庭は思う。もっとも、その話し合いはここではなく、狭い取調室の中で行われることになる。




