消滅
「見事だ」
落とされた魔王の口が動いたが、声は大伽藍の中空から響いてきた。
「人間ごときに、この首落とされようとはの。しかし・・・・・」
勇者は自分の体に浮かび上がる斬撃の跡に気がついた。ディメンションリッパーの斬撃は左の肩口から右脇腹にかけ、斜めに走っていた。
「死んだことにすら気づかなんだか。哀れな男よ」
膝をついた勇者の体から、多量の血液が噴出した。
首の無い魔王の体から、至極色の瘴気が流れ出し、たなびいていた。どこまでも黒に近い紫の闇の奥から、魔王の声は響き続ける。
「わしに実態は無い。滅びた肉体を捨て、新たな体に宿るだけだ」
至極色の動く影は、勇者の体に纏わりついていく。
「頑強な貴様の体こそ、わしの新たな宿にふさわしい」
影が勇者の口に向かって這い上がっていく。影が口腔に流れ込むと、勇者の顔が苦痛に歪んだ。
「喜べ。貴様は死ぬが、貴様の肉体は生き続けるのだ」
影が吸い込まれるたびに、勇者の傷が癒えていく。
「お前を倒すことは、できない」
苦し気に勇者が呟く。勇者の声帯を操る魔王がそれに呼応する。
「その通りだ。人間であるお前に、わしを倒すことなど、最初から不可能だったのだ」
勇者の左目は、闇を湛えた魔王の目と化していた。支配されつつある、左の口元に邪悪な笑みが浮かび上がる。
「知っていたさ」
苦痛に耐える勇者の右顔に自嘲的な笑みが浮かぶ。
「倒せないことなど、最初からわかっていた」
「自己犠牲とやらか。適わぬまでも、一矢報いるつもりでいたのか?愚かな」
「そうでもない。人にとって最悪の敵である魔王と相打ちなのだからな。悪くない」
邪気に満ちた勇者の左顔に疑念が浮かぶ。
「相打ち?何を言っている。今まさに死にゆく貴様に、これ以上何ができる?」
「あなたを倒せないことは知っていたといってるだろう。だからわたしは・・・・・」
最後の力を振り絞り、勇者は大地に立ち上がった。
「倒せる相手を捜し出した」
大伽藍の真上、落下してきた巨大な縦穴を勇者は見上げた。強力な光が迸り、大伽藍を照らし出す。昼間のように明るく照らされた大地の上に、大量の火竜の死骸が叩きつけられた。火竜の死骸の上に降り立ったのは、雷光を纏った黄金龍だった。
「龍の王!」
驚愕に満ちた魔王の声と、勝利を確信した勇者の声が、重なり合って勇者の口を突いて出た。
「待たせたな、小僧。お前の望み通り、手加減はせん。許せ」
黄金龍の巨大な口が開く。勇者の目を通して、魔王は龍の顎の奥からせり上がってくる強大な熱を感じた。溶岩の奔流にも似たその炎は、魔王が作り出した火竜が吐き出す炎など比較にならないほどのエネルギーを有していた。
魔王は支配している勇者の左手を、龍の顎の前に突き出した。冷凍魔法で相殺できるような熱ではないだろうが、一瞬にして蒸発させられるよりはましだった。体の一部でも残っていれば、肉体は再生できる。
「バゴス・テリコス!」
魔法が発動しなかった。突き出した左腕の先にあるはずの勇者の掌は砕け散っていて、魔力を放出することができなかった。
「おのれ」
魔力を集中し、左手を再生した。あとは再生した左手を突き出し、蓄えた魔力を氷結魔法に変換し放出するだけだ。
「バゴス、」
魔法発動の直前、勇者の口が強い力で閉じられた。魔王の意思に逆らう勇者の右半身が口を閉じたのだ。
「バカが。お前も死ぬぞ。まだ間に合う。やつを止めろ!」
閉じた口からくぐもった声が漏れた。一点に集約された熱エネルギーは、龍の顎の中に白熱した光球を出現させていた。
「止めろ、わしの力で、どんな願いでも叶えてやる。止めてくれ」
光の球から放たれたエネルギーは、光り輝くのレーザーとなって勇者の全身を覆い尽くした。人の身なら一瞬にして蒸発するほどの熱だったが、魔王の魔力を宿した勇者の体は、強力なエネルギーの奔流にさらされながらも、人としての形状を留めていた。
「貴様、貴様さえいなければ・・・・・」
高高度の熱線の中に身をおきながらも、痛みの感覚は無かった。魔王の断末魔の声だけが騒がしかったが、頭の中から響いてくる声を止める方法などありはしなかった。やがて魔王の声も掻き消え、完全な静寂が勇者を包み込んだ。五感を司る器官はことごとく消滅したせいで、音も光も、痛みすら感じない世界に、勇者はひとり取り残されていた。膨大な魔力を有し、それ故に完全なる消滅から抗い続けている肉体より先に、魔王の意思が消え去ったのは意外なことだった。
「使命は果たせた。でも」
消えゆく肉体をよそに、自分の声が聞こえた。声帯すら消失した今、声が出るはずがないのに、呟きははっきりと聞こえた。
人々の期待と不安を一身に背負い、ただひたすら勇者への道を邁進してきた。それが正しかったのか間違っていたのかを問うことに意味はなかった。魔王を倒すことが勇者に課せられた宿命だというのなら、自分はその使命を見事に果たしたのだ。
だがそこには、何の感慨も無かった。自分の人生の全てを賭けた使命を全うしたのにも関わらず、勇者の心には誇らしさも満足感も湧き上がってはこなかった。
「わたしは、何をしたかったんだろう」
消滅する間際に、シンプルな疑問が頭の隅に沸いた。シンプルであるが故に、その疑問は瞬く間に勇者の全身を包み込んだ。
「わたしは、本当に勇者になりたかったのか?本当に、この世界を救いたかったのか?」
勇者は微笑んだ。今更考えても詮無いことだった。
「望むなら」
消えゆく意識の中で、勇者は声を上げた。
「この次は、勇者などではなく、普通の、当たり前の普通の人間として、争いの無い世界に生きてみたいものだ」
力も名声もない、凡庸なただの男として、普通の世界で、普通に生きていくことができたなら、どれほど幸せなのだろう。
絶命する瞬間、勇者は心からそう願った。




