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私の精神安定剤ニート君


 私、佐倉千景(さくらちかげ)(二十九歳)。

 大学卒業後に就職した食品会社の営業課で懸命に仕事をして上り詰め、今や営業部の課長として働いている。


 私にとって、仕事は生きることと同義。会社や社会の役に立つ人間であるように、毎日懸命に仕事に取り組んでいる。休みの日も勉強をして、仕事のことを考えない日などなかった。


 世間は、不景気が絶好調だと呼べる時期。

 商品が売れず、新規の契約が取れないことで、私の会社の中の空気も最悪な状況だった。上司からのプレッシャーと部下のミスに胃薬片手に奔走した。

 経営状況が持ち直し、周りが安堵する中。会社に出勤した私は、朝礼でアクロバティックな失神を披露し、部署内に阿鼻叫喚をもたらすことになった。


 目を覚ました私は、病院で点滴を受けている最中だった。

 私が目を覚ましたことに気いた看護師が医師を呼ぶ。現れたのは、笑顔が胡散臭い、若い男性医師だった。

 医師は、私が職場で倒れて病院に運ばれたこと、過労と精神的ストレスが原因だと告げられた。


「十分な睡眠と、しっかりとした食事をとってください。可能ならば、仕事を少しお休みするなどして、休息をとってください」

 当たり前で実行することが難しいことを並べる医師の言葉は、私には響かなかった。

(仕事で穴を開ける訳にはいかない。私が休めば、周りに迷惑がかかる……。今日だって、倒れて迷惑をかけてしまった。みんなも困っている)

 入社してから一度も有給も早退もしたことがなかった私は、仕事に穴を開けてしまったことに罪悪感を感じた。目の先にあった時計を確認すれば、時刻は十三時を過ぎている。


「仕事に行かないと……」

「まだ点滴が終わっていません。それに、今日は休んで、安静にしていてください」

 ベッドから出ようとした私を、医師が止める。

「私が休んだら、周りに迷惑を掛けます! 今日だって、会議が……」

 週に一回ある会議のことを思い浮かべる。会議は十五時から始まる。今から行けば、間に合うだろう。午前中に出来なかった仕事だって、残業するか家に持ち帰れば挽回できる。 

 自分の体より仕事のことを優先的に考える私に、医師は溜め息を吐いた。


「とにかく、点滴が終わるまでは安静にしておいてください。また倒れてしまわないように、あなたには特別な処方箋をお出しします。必ず、指定された調剤薬局で薬を受け取ってください」

 私は内心舌打ちをしながらも頷いた。今すぐ仕事に行きたいが、医師と揉め事を起こすのは憚られた。

 点滴を終えた私は、病院の会計窓口で会計を済ませた。受け取った処方箋を持って、病院の敷地内にある調剤薬局へ向かう。受付で処方箋を提出し、待合室のソファに腰掛けた私は、会社用の携帯で仕事のメールをチェックしながら薬の受け取り待ちをした。

 

「佐倉さん」

 名前を呼ばれて受付へ向かうと、可愛らしい顔の女性が机に並べた薬の説明をする。

 胃炎や十二指腸潰瘍を抑えるための三種類の薬の説明をした後、受付の女性はニコリと微笑む。


「あと、精神安定剤として、ニートを処方します」

「え?」

 女性の言葉が理解できずに呆けたような声を上げる。女性はニコニコと笑ったまま、一旦後ろの部屋に下がると、窓口のカウンターから出て、私の前に立つ。

 女性の横には、一人の男性が立っていた。


 日光など浴びたことがないような不健康なまでに白い肌。ボサボサの黒髪と、毛玉が着いたブカブカの黒ジャージ。両足に履いている安っぽい色違いのスリッパ。だるそうな表情を浮かべ、面倒臭さを体現するようにダラっと立っている二十代前半くらいの年齢の男性を上から下まで眺め、私は更にポカンとした。


「こちらの薬は、一日二食と間食が必要なので、しっかりと与えてください。好き嫌いも少しありますから、考慮してあげてくださいね。あと、ゲームやネットがないと発狂しますので、ネット環境がない場合はすぐに整えてください。全ての薬を一ヶ月分出しておきますね。薬の説明は以上ですが、何か質問はありますか?」


 十分に説明をやり遂げたいうような笑顔を浮かべる受付の女性に、混乱しかない。意味不明な状況に、私は何とか口を開いて言葉を紡ぎ出す。


「いや、待ってください。最初の三つの薬はわかるんですけど、その男性は?」


「精神安定剤ニートです。年齢は二十一歳で、ニート歴は三年。佐倉さんは初めてニートを処方されると思うので、まずは軽いニートから処方になります。」


「待て待て待って!!! 意味がわかりません! ニートを処方って何!? あなた、私を馬鹿にしてるんですか!?」


「え? あの? え?」

 怒った私に、受付の女性は困惑の表情を浮かべる。待合室にいる他の人達も驚いた顔で私を見ていた。


「もしかして、もっと強いお薬をご希望ですか? 症状が重い場合は、熟成ニートが処方されますが、熟成ニートは効果が強すぎるので、まずはこちらのお薬で様子をみられてください。薬が効かなかった場合は、また医師の診察を受けてくださいね」

「熟成ニートって何!? いや、そこじゃなくて!! なんで人が薬として処方されるんですか!? 意味がわかりません!」

 諭すように説明する受付の女性との話が噛み合わないことに、私は地団駄を踏んだ。女性は首を傾げる。


「? 人が薬として処方されるのは、数年前から行われていることですよ。ニートだけではなく、スパダリ、ツンデレ、ドS、メンヘラ、ヤンデレなんかも、薬として処方されることがあります。何もおかしくありませんよ」


「は? え?」

 待合室にいた中年の女性二人組が私の方を見て、「最近の子はニュースを見ないのかしら?」と話していた。

(え? え? なに? 私がおかしいの??)

 周りの空気は明らかに、私がおかしいことを言っているような雰囲気だ。


「千景。帰って飯にしようぜ。腹減った」

 精神安定剤と言われて出てきたニート君が、馴れ馴れしく私に近づいて肩を叩く。

「待って! 意味わかんない!! 私がおかしいの!? ねえ!?」

 混乱して叫ぶ私に、待合室にいる人達が迷惑そうな視線を向ける。ニート君が周囲の人達に向けて頭を下げた。

「すみません。こいつ、仕事でストレス抱えてて。すぐに連れて帰りますんで」

 周囲の空気の悪さに、私は納得も理解も出来ないまま、ニート君に促されて会計を済ませて薬局を出た。


 薬局を出た私はフラフラとした足取りで会社へ向かう。

「なあ、千景。コンビニ寄ろうぜ。俺、プリン食いたい!」

 ニート君が私の袖を掴み、コンビニを指さす。私は隣を歩くニート君を睨みつけた。

「何でついてくるのよ! 本当に意味わからないんだけど!!」

 近くを歩いていた人が、驚いた顔をしながらも通り過ぎていく。ニート君はキョトンとした。


「だって、俺は千景の精神安定剤だし」

「それがわからないのよ! あんたも何で当たり前のように薬として処方されてるのよ!!」

「千景。本当に疲れてんだな。プリン買って家に帰ろう。食べた後は、のんびり昼寝でもしようぜ」

 ニート君はどうしてもプリンが欲しいようで、千景をコンビニへと引っ張っていく。


「そんなことしてる場合じゃないわ! 仕事に行かないと!! 周りに迷惑がかかる!!」

「休んだ方がいいって。仕事は周りがなんとかしてくれるし、休んでも迷惑だとか思わないから。もっと周りを信頼しろよー」

 だらけたように見えるニート君でも、千景より力が強いために引っ張られていく。千景は舌打ちして、財布から取り出した千円をニート君の額に護符のように貼り付けた。


「私はコンビニに行く元気ないから。それあげるから、あんた一人で買ってきて」

 千円を貰ったニート君は嬉しそうに顔を輝かせて頷く。ニート君がコンビニに入った瞬間、私はすぐさま拾ったタクシーに乗り込んで会社に向かった。

 

 午後の会議に間に合った私は、周囲に心配されながらも自分で課した仕事のノルマを終わらせる。帰宅する頃には、辺りはとっぷりと暗くなっていた。


 自宅マンションに辿り着き、玄関のドアを開けた私は驚きで固まる。一人暮らしの部屋。リビングの電気がついているのが見えた。

(ま、まさか、誰かいるの?)

 泥棒、空き巣だろうか。逃げて警察に電話をしなければと考えた瞬間、リビングのドアが開いた。


「おかえりー。どこ行ってたんだよー。仕事休むように言っただろうー」

「!!!!?????」

 現れたのは、精神安定剤として処方されたニート君だった。信じられない光景に、私は口を開けて固まる。

「あ、腹減ってるだろう? 千景の分もプリン買ってるからな」

「な、何で私の家の場所がわかったの?」

「ああ。保険証に住所が書いてあったからな。歩いて帰れる距離で助かったよ」

 個人情報保護法は何処へ行っただろうと、千景は遠い目をした。

「………待って。私、部屋の鍵かけてたはずよね? どうやって部屋に入ったの?」

 私の問いに、ニート君は胸を張って微笑む。

「ニートは又の名を”自宅警備員”って呼ぶんだ。警備員は鍵を持っているものだろう?」

「いやいや、回答になってないし。怖い怖い怖い!」

「おいおい、精神が不安定になっているじゃないか。大丈夫か?」

「いや、お前のせいだからぁ!! 精神的な恐怖を味合わせてるの、お前だからぁ!!」

 

 ニート君との会話は壊滅的な平行線を辿る。

 私がおかしいと思うことが普通だと言い張るニート君。私は自分の考えが間違っていないことを証明しようと、パソコンで人が薬として処方されることがあるのかを調べた。


「嘘……」

 ネットの情報では、海外では六年前、日本では三年前から人が薬として処方され始めたことが書かれている。人が薬として処方される件数は年々増えていること、処方後のエピソードが並べられていた。


(もしかして、私は頭を打っておかしくなったの? それとも、変な夢を見ているの?)

 頬をつねってみたが、痛みはない。信じたくないが、このどうしようもなく可笑しな世界が現実らしい。


「これからよろしくな。千景」

 自分の部屋のようにくつろぐニート君が、プリンを食べて笑っていた。



***



「人が処方薬? ああ、私は処方されたことないですけど、普通にありますよ。デザイン課の戸村さん、スパダリを処方されたらしいですし。家事全般をこなしてくれるらしいから、羨ましすぎますよねー」


 翌日、会社の昼休み中に部下に話を振ると、部下は当たり前のように笑って言った。

 夢であってくれたら良かったのに、朝目が覚めると、ソファの上でニート君がだらしなく眠っていた。仕事に行かなければならないので、ニート君のことは一旦、現実逃避して放置してきた。

 悪夢のような現実に、私はゲッソリとする。

「それより、課長。体調大丈夫ですか? 少し休んだ方がいいですって。オーバーワークすぎて、みんな心配してますよ?」

「大丈夫よ」

 部下に心配させるなんて、上司としてあるまじきことだ。もっと頑張らないといけない。私は、午後の仕事も気合を入れて臨んだ。



「おかえりー」

 仕事に疲れて家に帰れば、ニート君がリビングのソファに寝転がっていた。

「ご飯は? 俺、お腹すいたー」

「消え失せろ、悪夢野郎」

「悪夢じゃないよ。ニートだよ」

 舌打ちをしながら罵声を浴びせても、ニート君には効果がないらしい。適当にスルーされてしまった。


「あんた、家に居つく気なら、せめて家事とかしないの?」

 今日、部下から聞いた話を思い出し、私は溜め息を吐く。


 収入に余裕はあるが、何も役に立たない見知らぬ人間を養うなど、腹が立つ。家事をするなどして役立ってくれるのなら、私も仕事に専念出来て助かるので、百歩譲って置いてやるのもいいだろう。


「家事は立派な仕事だよ? ニートは仕事しないからニートなわけであって、家事をしたら、ニートという俺の存在意義が問われるし。俺はニートでありたいから、家事しないよ」

「出てけ。クズ男」

 ニート君を足で踏みつける。ニート君はソファの上にあったクッションを抱きしめ、情けない顔で首を横に振った。

「ヤダァ。寄生させてよー。俺がいれば、精神的な安定に役立つんだからいいじゃん」

「今現在、私の精神を脅かしているのはお前なんだけど!? 役に立ってないんだよ! 生きるためには働かないといけない。当たり前のことだから、わかるでしょ?」


 ニート君は頬を膨らませ、口を開く。


「そもそも、生きるために働かないといけないなんておかしくない? 猫とか居るだけで可愛がられて、働かないでも生きられてるじゃん。人間もさ、存在しているだけで生きてていいと思わない? 俺がいるだけで、誰かの役に立っているかもしれないし」

「……理解できない」

 ニート君の言葉に辟易とし、私は疲れた溜め息を吐き出す。真面目に相手にするだけ無駄だろう。


 薬局に問い合わせたが、薬の返品は不可。処方された日数分だけ、強制的にニート君は居座るらしい。薬というより呪いのように思えるが、要するに一ヶ月を終えれば、ニート君は私の前から消えてくれるということだ。

 私は仕方なしに、ニート君と生活することになった。



***



「課長。最近、前と比べて顔色よくなりましたね」

 部下の何気ない一言に、私は首を傾げる。

 

 家事もせずに家でゴロゴロするだけのニートの面倒を見ていることで前より大変なはずだが、最近は精神的にも肉体的にも疲れにくくなっていた。


 今までは食事が面倒だと抜いていたが、ニート君が「腹減った」とうるさいため用意しなければならない。ニート君だけに食べさせるのは腹が立つので、私も一緒に食べるようになって、食事を抜くようなことがなくなった。


 仕事を持ち帰ると、「一緒にゲームしよー」と邪魔してくるため、家に仕事を持ち帰らなくなった。遅くまで起きているとニート君がうるさく絡んでくるので、早めに就寝するようになって、睡眠不足になることがなくなった。

 睡眠不足と、栄養不足がなくなったおかげで体の調子がよく、仕事も前より捗るようになり、残業時間もだいぶ減っている。


 ニート君に対して気を遣う必要はなく、思うままに感情を表現したり、愚痴を零したりしているためか、以前のように心の中に溜め込むようなことも少なくなり、ストレスが緩和されていた。


(……あれ? あいつ、意外に役に立ってたのか?)

 半信半疑どころか、無信全疑だったが、少しは私の健康に役立っていたらしい。

 


「おかえりー」

 家に帰ると、日常になってしまったニート君の声が響く。家に帰り着いた時に、部屋が明るくて、出迎えてくれる人がいるというのは、何故だか温かく感じた。

「見て見て! 今日、ガチャでSSR出したんだ! 課金無しで出るとか、凄いぞ!」

 私のノートパソコンを手に持ち、勝手にインストールしたソーシャルゲームの画面を見せつけるニート君。

「また一日中ゲームしてたの?」

「うん! おかげで、ランキング一位を獲得した! 俺、えらい!」

 ニート君はソファに座り、ゲームを再開する。一日八時間以上ゲームに注いでいるというニート君。

(その熱意を、ゲームなんかの無意味なものではなく、社会の役に立つようなことにぶつけたらいいのに)


「もっと役立つようなことをしなさいよ。バカニート」

 私は手に持っていたビニール袋を、ニート君の頭の上に載せた。ニート君はキョトンとした顔で、ビニール袋を受け取る。


「わ! プリンだ! しかも高いやつ!! 食べていいの?」

 ニート君の目が輝く。私が頷くと、嬉々としてプリンを食べ始めた。

「あ! 千景! 俺、お小遣いも欲しーなー」

「調子のんなクズ」

 私が却下すると、ニート君は両手を合わせて私を見上げた。

「クズじゃなくてニートだよ。お小遣いください! 千景様!!」

「働かない奴が金をもらえると思うな」

「お賽銭だと思って! ニート神に、お小遣いください!」

「ご利益なさそう。むしろ、マイナスな効果しかなさそう」

「お小遣い欲しい欲しい欲しい欲しい!! 千円でいいからぁ!! お小遣いぃいいい!!」

 うるさく駄々をこねるニート君にドン引きしながら、私は財布を取り出す。


「ほら。これでいいんでしょ?」

 千景は千円札二枚を護符のようにニート君の額に押し付ける。二千円を手にしたニート君の目が尋常じゃないほどに輝いた。

「え!? 二千円もいいの!? やったー!! これで俺の夢叶うじゃーん」

「二千円で叶う夢って、どんな夢なのよ」

 二千円で喜び踊るアホな成人男性がおかしくて、私は声を出して笑った。

 

 

***



 翌日は、最悪な一日だった。

 取引先と揉めて、私が説明に向かうと、女性であることや年齢が若いことを理由にして、理不尽な罵倒を浴びせられた。

 悔しさと怒り。どうして事前に事態を回避できなかったのかという思いで、脳が溶けそうなほどに熱い。

 どす黒い思いを抱えて帰宅した私を、いつものようにニート君が出迎えた。


「おかえりー。今日は遅かったなー。飯食べたか? 冷凍の焼きおにぎりあるぞ。特別に、このニートが温めボタンを押して進ぜよう」


「いらない」

 明らかに不機嫌だとわかる私の行動を見たニート君は眉を下げる。


「どうした? 仕事で何かあったのか?」

「……疲れているから、構わないで」

 私は仕事鞄を放り投げる。鞄の中身が散らばって、床に転がった。ジャケットも乱雑に脱ぎ捨て、踏みつける。


「俺で良かったら、愚痴でも聞くよ。あ! ゲームするのもいいな! 格ゲーとか、シューティングゲームでストレス発散すればいいよ! 仕事のことなんか忘れてさ!!」

 能天気に笑うニート君に、苛立ちと不快感が一気に込み上げる。


「あー! もう!! 構わないでって言ってるじゃん!! 本当にうざい!!!」

 閉じ込めていた怒りが噴き出し、怒鳴り声として室内に響いた。ニート君が驚きで目を見開く。

「千景?」


「仕事してないあんたにはわからないわよ!! 私がどれだけ、今の仕事で頑張ってきたのか知らないくせに!! いつも、いつも頑張ってきたのに!!」

 

 「女が管理職だから駄目なんだよ」「どうせ、今まで実力じゃなくて、色目使って契約取ってきたんだろう」「女と違って、男は仕事に命かけてんだよ。女なんて、どうせ結婚して仕事辞めるんだろ。半端な気持ちで働くな」


 取引先に言われた言葉を思い出し、どす黒い怒りが沸き続ける。

 新人の頃は悔しくて毎日泣いた。契約なんて一件も取れず、上司や先輩や同期からも見下された。お客さんからも、たくさん怒られた。それでも、めげずに頑張ってきたのだ。


 今まで頑張って積み上げてきたもの全てを否定された気がした。会社に、社会に必要とされる人間であるために、頑張り続けてきたのに。


 心の中は怒りでいっぱいなのに、頬に涙が伝う。


「”仕事のことなんか”ですって? ニートなんて社会不適合者に、頑張って仕事してきた私の気持ちなんてわからないでしょ!? 誰の役にも立たない人間が、生きる意味なんてあるの!? あんたなんて、社会から必要とされない、いらない人間なのよ!! 消えてよ!! 出てって!!」

 

 人から受けた理不尽な怒りを、私はニート君にぶつけた。

 ニート君の悲しそうな顔を見た瞬間、私はハッとする。口から溢れた言葉は、消すことが出来ない。震えた唇は謝罪の言葉を紡ぎ出すことが出来ず、私は逃げるように寝室に閉じこもった。

 


***



 朝目覚めると、ニート君の姿はなかった。

 昨日、私が放り投げて散らばった鞄の中身は、綺麗に鞄の中に収まっていた。脱ぎ捨てていたジャケットもハンガーにかけられている。

 

(どこへ行ったのだろう?)

 いつもならソファで寝ているはずなのに、部屋の何処にも人の気配はない。

 モヤモヤとした思いのまま、私は出勤した。


 その日も次の日も、ニート君は帰ってこなかった。



***



 ニート君が姿を消して、一週間が過ぎた。

 帰ってきた時の「おかえり」が聞こえない。冷たく暗い室内が、ただ虚しく思えた。


「課長。大丈夫ですか? 顔色悪いですよ?」

 部下が心配そうに眉を下げる。

「大丈夫よ」

 心の中のモヤモヤとした思いのせいで、食欲がなく、夜もよく眠れていなかった。

(体調管理もできないなんて、社会人として失格ね)

 溜め息混じりに椅子から立ち上がる。力が入らず、がくりと膝から崩れ落ちた。部下が小さく悲鳴を上げる。


「だ、大丈夫ですか!? 今日は早退して、病院に行った方がいいですよ!」

 立ち上がる時、部下が手を貸してくれた。

「でも、仕事が」

「それなら、私がやっておきますから!」

 部下は私の手から資料を取り上げる。


「少しは、頼ってください。頼ってもらえないのって、信頼されていないような感じがして、寂しいです。私もこの会社に入って四年目です。出来る仕事だって、だいぶ増えたんですから。信じて任せてください!」

 話が聞こえていたのか、近くのデスクにいた男性の部下が立ち上がる。

「俺も今日は手が空いてますから、手伝いますよ。課長が有給使ってくれないと、俺たち下っ端も使いづらいんですから、休んでください!」

 

 部下二人に追いやられて、私はポカンとしたままエレベーターに載せられた。

 戻ることは出来そうにないと、外に出る。


(こんな時間に退社するなんて……)

 いつもは夜遅くにしか退社しないのに、昼前に退社するなど初めてで、違和感がある。

 

(病院か……。一ヶ月前みたいに、倒れたわけじゃないのに行くのはどうかな……)

 立ちくらみも、栄養不足からの貧血が原因だろう。眠れないだけで病院に行くのも憚られた。

 

 私は足を止める。

(一ヶ月……)

 ”処方する薬は一ヶ月分”という言葉を思い出し、私はハッとする。ニート君がいなくなったのは、薬をもらって丁度一ヶ月目だった。同じく一ヶ月分貰っていた胃薬は途中で飲む必要がなくなっていたため、一ヶ月経っていたことに気づいていなかった。


 ニート君がいなくなったのは、処方の日数が終わっただけじゃないだろうか。


(……‥もし、そうだったとしても、私は酷いことを言った) 

 人に対して、言ってはいけないことを言った。自分が言われたら、相手を許す気にはなれない。口から滑り落ちた言葉は、戻すことはできずに、相手の心に絡みつき、心を苛む。

 

 もし、今から病院に行ったら……。

 ニート君がまた処方されて会うことができるかもしれない。

 けれど、謝ったとしても、言った言葉を帳消しにはできない。許してもらえるとは限らない。

 私の顔を見るのも不愉快だろう。それなら、会わない方がいい。

 それに、ニート君が再び処方されるとは限らない。


 自分の中で生まれた言い訳に、私は顔を歪めた。


(いつからだろう? 大人になればなるほど、傷つかないための言い訳ばかり考えるのが上手になっていく)


 ニート君に会うための理由を手に入れることができなかった私は、病院に向かうことは出来なかった。



***



 自宅マンションに帰ると、ポストの中に配達通知書が入っていた。

 私は首を傾げながら宅配ボックスを開ける。中には、大手の通販サイトから私宛の荷物が入っていた。

(荷物なんて、頼んでいたかしら……? あ、そういえば、昼寝して買いに行き損ねたビジネス書を注文してたっけ)


 部屋に戻って、中身を開けてみる。出てきたのは、本ではなかった。

 

「なんなのよ。あの馬鹿ニート」



***



「今日はお仕事は大丈夫なんですか?」

 病院に到着して、私を診察したのは、一ヶ月前と同じ医師だった。相変わらず、胡散臭い笑みを浮かべている。


「早退してきました」

 休むことに罪悪感がある私は、気まずい思いで俯く。

「それは良かった。一人で強がって周りを見ず、休むことも出来なかったあなたが、早退を選択することが出来た。あなたには、もう精神安定剤は必要ないのかもしれませんね」

「!」

 穏やかな口調で告げられた言葉に、私は慌てて顔を上げる。医師が浮かべていたのは、微笑みではなく、嘲笑だった。


「仕事もせず、社会の役に立っていない。誰かに寄生して、生産性の欠片もない。真面目に汗水垂らして仕事をして生きている人間にとって、腹が立つものでしょうね。この世界に必要のない、何の意味もない存在だと、彼を見下していたでしょう?」


「! それは……」

 私は言葉を詰まらせる。医師の言葉を否定出来なかった。仕事もせず、なんの努力もせず、ただ生きているだけの人間など、社会から排除されるものだと。

 私は、ずっと怖かった。誰かにいらない存在だと言われることが。だから、頑張って働いてきた。会社の、社会の役に立つ人間になるために。だから、誰の役にも立たない存在がいることが、許せなかった。そして、安堵もしていた。なんの役にも立たない人間に比べて、私は必要な存在であると。私は、ニート君を見下していた。


「確かに……思っていました。私は、彼を馬鹿にしていた」

「それなら、処方は」

「だけど、部屋が寒いんです」

 言葉を遮られた医師は首を傾げる。私は、構わずに口を開いた。


「帰った時、部屋に電気がついていると温かく感じるんです。『おかえり』の言葉とか、一緒にご飯を食べたり……。イラつくこともあるし、うざったく感じることも勿論あるけれど」


 休みの日に、一緒に昼寝したり、子供みたいにゲームで遊んだりして。気取ることもなく、馬鹿みたいな会話をした。

 仕事みたいに、社会の役に立つようなことをするような時間じゃない。何の役にも立たない、意味のない時間。けれど、楽しくて、大切だと思えるような時間だった。


「特別じゃない。なんの役にも立たない時間が、私に必要だったんです」


 役に立つから良い。役に立たないから駄目。私は、自分も人も、それを基準にして判断していた。馬鹿な考えに囚われて、休むことも楽しむことも、誰かと笑うことも忘れていた。

 私は医師に向かって、頭を下げる。


「お願いです。また、私に彼を処方してください」

 

 医師は穏やかな笑みを浮かべた。



***



 調剤薬局でニート君と再会した。

 外に出た私は、勇気を振り絞って口を開く。


「あの時はごめん……。酷いこと、言った」

 私の拙い謝罪に、ニート君は眉を下げる。

「俺も”仕事なんか”って、言ってごめん」

 ”お互い様だ”と、ニート君が笑う。


「それより、千景がまた俺のこと養ってくれるんでしょ! やったー」

 相変わらずのニート君に、私は溜め息を吐く。


「謝罪だけじゃなくて、私、あなたに言いたいことあるんだけど?」

「え? 何? まさか! プロポーズ!? 俺、ヒモに昇格!?」

「んなわけあるか! 私宛に通販サイトで『夢のバケツぷりんキット』注文したの、あんたでしょ!?」

 段ボールの中身を知った私は、『バケツぷりんなんて意味不明なものを押し付けたニート君に文句を言うため』と自分の心に理由をつけて、病院に向かった。冷静に考えれば、病院に行くことを迷うことも、向かう理由も馬鹿馬鹿しい。


「え!? 今日届いたの? ナイスタイミングじゃん!! 牛乳は別に必要らしいから、スーパーで買って、家に帰ったら作ってみようよ!!」


 目を輝かせたニート君に、私は呆れ顔を浮かべる。


「いや、こっちは、なんであんな物を注文したのか聞きたいのよ」

「だって、千景が『役に立つことをしなさい』って言ったじゃん? プリンなら食べられるし、役に立つだろう? それに、小さい頃から夢だった『大きなプリンを食べる』っていう夢が叶うし。貰ったお小遣いで買える金額だったからさ」


 私がお小遣いとしてあげた二千円を、バケツぷりんの購入に当てたようだ。


「役に立つことを考えた結果が、バケツぷりん? あんた、本当に成人してるの?」

「ニートは、永遠の十四歳だから」

 微妙に格好つけながら言うニート君に、私は冷めた目を向ける。


「私が病院を再受診しなかったら、どうするつもりだったのよ。私一人に処理させる気だったわけ?」

 私の言葉に、ニート君は苦笑する。


「いやー。なんか、一緒にいるのが当たり前みたいな感じだったから、俺も一ヶ月のこと忘れててさ。まあ、結果オーライだから、いいじゃん」

「つまり、考えなしの行動だったってわけね」

 私は心底呆れた溜め息を吐いた。文句をいうのも、馬鹿馬鹿しくなってくる。


「帰ったら、思う存分プリンを食べれるじゃん。楽しみだなぁ」

「プリンは作ってすぐには食べられないわよ。固めなくちゃいけないから」

「え!? そうなの? ああ、じゃあ、明日までのお楽しみかー」


 ニート君は笑って、歩き出す。


「千景、明日休みだろう。ゲームして、一緒にプリンを食べよう!」 


 何の役にも立たない幸福な時間が、心を温かくしていくのを感じながら、私はニート君と並んで家に向かって歩き出した。



***



 どんな人間(くすり)が処方されるかは、あなた次第。

 処方された人間(くすり)をどう捉えるかは、あなた次第。


「おや。あなたも随分と色々な思いを抱えて生きているようですね。そんなあなたには、特別な薬を処方させていただきましょう」

 

 とある病院の診察室。

 胡散臭い笑みを浮かべた若い男性医師は笑う。


頭がおかしい設定の作品を書きたくて書きました。

※無信全疑は私が適当に作った言葉です(実在しません)。


他にも短編や連載小説を書いています。よかったら、読んでください。

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