プロローグ
遠く…思えば遠くまで来たものだ。
あの日、差出人も分からぬ文を見、そして何かに導かれてここまで来た。
老いに蝕まれろくに動かぬ身体でよくもここまで来たものだと、自分でも不思議に思う。
場所を知れず、人の気配すら無いにも関わらず、水上にただただ静かに佇む社がこの旅の終着点だと理解した。
長く世話になった船頭は決して上陸してはならないと、その先は向こう側だと言っていたが彼らは腕が良い男達であった。きっと無事に帰れたであろう。
今一度、己のいる場所を確認する。
どのように建てたか、皆目分からぬが凪いだ水面が広がる上に佇む社の、そう…ここはまるで演武や舞を納める様な広く作られた間取り。
そして、今まで見たことがない鎧姿の戦士が両の膝を折って座っている。
あれは遠い昔、まだ小さき頃に母上が私に稽古をつけてくれた時、ああして座っていた気がする。
やはり見知らぬ衣装の兜は、額から後頭部に走るおそらく環のような衣装の飾りに、防御よりも身軽であることを重視したかのような鎧。
兜と面頬の間にあるはずの目は見ることができず、ただただ漆黒に青き燐光が浮かんでいる。
そして…そして彼の存在が前に置かれた物は、見紛うはずもなく母上の腰にあった太刀。
今は稽古場に置かれているそれが、なぜここにとは思わない。在るべくしてここに在るのだと。
チリチリと後ろ髪がひり付くこの感覚は何時振りであろうか。脇に刺した剣の柄に手を添え、一歩を踏み出した。それと同時に鎧の者の目が僅かに輝きを増し、一切の音を立てずに腰に佩いて立ち上がった。
お互い黙して抜刀し構える。武者の目が細まったのを見、斬りかかる。
一合、二合と斬り合う度に遠き記憶がよみがえる。
その武者の立ち姿に、母の揺るがぬ立ち姿を見た。
その武者の太刀筋に、無形すら断つ母の至天の太刀筋を見た。
その武者の比類なき眼光に、数多の絶望を粉砕した母の眼光を見た。
老いにより白く染まった髪が、灰色に静まった瞳が、炭のように燻っていた心が、再び烈火を灯した。