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【第7話】- 父ダグラスの教え -

それからのマリーヌの日常は混沌としたものとなった。


断ることも逃げることもできないリリアーナからのお茶会の誘いは恐怖の手紙と化し、もともと好きではなかった貴族勉強はさらに上の空となり、夜は布団に入ると村での生活が恋しくて貴族社会で何も満足にできない不甲斐ない自分への嫌悪で枕を濡らした。それ程までに心が追い込まれているのに身体は健康そのものなのが尚更恨めしくなる。


自分では手に負えない状況や感情をどうしたらいいのかを貴族出の母に相談をしたかったが、娘を立派な貴族の令嬢として淑女に仕立てたい母の期待を裏切って悲しませてしまいそうで何も話せないでいたし、月に何度もあるランディア伯爵家のご令嬢からのお茶会のお誘いに母は毎度大喜びでマリーヌを自慢だと褒めちぎる。

「お茶会はどうだった?」と聞かれれば咄嗟に「楽しかった」と嘘で誤魔化し、それを聞いて満足気に微笑む母の理想と本当の自分との違いに、マリーヌはさらに追い込まれていった。


貴族社会に飄々とさり気なく馴染んでいる兄は妹のマリーヌの事など一切関心はない。5歳年上の兄ドゥークは剣技の才能を認められて王立の学舎へと王都に移り住むと同時に入学しそのまま寮で生活ている。


村で暮らしていた幼い頃はよく近所の子供達と遊ぶ兄の後ろをついて回り、兄に負けじと野山を駆け回っていたが、お互い思春期というものを迎え王都に移り住むと妙に余所余所しくなった。とくに兄妹仲が悪い訳でもないが、私と兄のデュークはリリアーナとアレックの様に兄を慕い、妹を可愛がる様な関係ではないのは確かだ。


誰にも相談できずに鬱々とした日々を闇雲に過ごしていた時、長期の遠征から帰って来た父に早々と挨拶を済ませいつものように自室に籠っていると普段はめったに使わない開かずの間となっている書斎に来るように呼び出された。

私のお茶会での悪い噂が国王に仕える騎士である父にまで伝わってしまったのかと思うと、両親への申し訳なさと貴族社会に馴染めない自分の至らなさに肩を落とし重い足で父の待つ書斎へと時間をかけて向かう。


貴族の邸宅というにはあまりにも小さい我が家で、どんなにゆっくり歩こうと一階の奥にある書斎にすぐに辿り着いてしまいマリーヌは憂鬱に溜息をひとつ吐いてから重い腕を持ち上げて目の前の扉を2度程叩いて父の入室を許可する言葉に一拍おいてから書斎へと入る。


いつもよりも重く感じるドアを開けると部屋の正面に鎮座する重厚感のある古い机の奥に座る父の存在を確認したが、どんな顔をしていいのかわからずに顔を俯かせたまま扉の入り口から足が前へと進まない。


「何してる、早く入るんだ。」


「…はい。」


父の深刻そうな重い声に緊張が高まり泣きたくもないのに涙が喉を込み上げ鼻がツーンとする。マリーヌは必死に涙を食い止めようと喉と眉間に力を入れて前へと進みでる。


「マリーヌ、そこに座れ。」


顔を上げて父の顔を見たら涙が溢れてしまいそうで、俯いたまま頷き言われた通り部屋の真ん中に置かれた応接用の対面ソファーに座る。

父が机から立ち上がりこちらに向かって足音が近づく度に込み上げる涙と緊張感を必死に飲み込み、これから言われるであろう事を想像すると恥ずかしさと情けなさ悔しさと自己嫌悪で心が悲鳴をあげる。


「それで、お前の身に何があったんだ?」


頭の上から発せられた父親の低い声に肩をビクりと震わせたと同時にマリーヌが浅く座るすぐ真横へと体重をかけて座るものだから父親の半分の体重もないマリーヌの身体は上下に跳ねてソファーからずり落ち床へと突然に落とされた。

予期せぬ衝撃に身構える事もできずに痛めたお尻をさすりながら、ソファーに悠然と足を組んで座る父へと文句を言おうと振り返る。


「何があった?」


マリーヌが振り返ると、そこには先程の威喝感など微塵も感じないただ優しく微笑むマリーヌの大好きな父の顔が待っていた。


突然に目に飛び込んできた父親の包み込む優しい顔にお尻の痛みも吹き飛んで、自己嫌悪に追い込まれていた心はどこかに消えていた。文句を言おうと思っていた口からはあまりの安堵に嗚咽が漏れる。

マリーヌは我慢していた全ての感情が溢れ出て、込み上げて止まらない感情も涙も嗚咽も全てを受け止めて欲しくて父親へと勢いよく抱きついた。


ダグラスは弾けるように突進してきた娘を両腕でしっかりと受け止めて「頑張ったな」と腕に力を込める。

父の言葉端からはマリーヌの現状を何も知らない筈なのに、久しぶりに会う娘がどう頑張ってるかも悩みも知る由はない筈なのに、マリーヌは父親の腕の温もりと鍛え抜かれた逞しい胸に包まれて、さらに縋るように泣きじゃくった。


マリーヌは気持ちの整理も話しの順序もないままに、今まで溜め込んできた感情を喉をしゃくりあげながら自分が陥る状況を包み隠さず全てを話した。


貴族社会に馴染めない事も、リリアーナに不快感を抱いてしまう嫌な自分も、アレックを嫌悪させてしまったのに自分の何が悪かったのかすらわからない至らなさも全て吐き出した。ダグラスは娘から吐き出される纏まらない心の丈に黙って相槌を打つ。


どれくらいそうしていたのか、マリーヌは心のつっかえを全てを出し切ると落ち着きを取り戻し、手持ちのハンカチで鼻をかんで泣き腫らした重い瞼をそっと閉じて、つまった鼻の息苦しさに口から息をそっと吐いた。


「それで、今の話しの何がそこまでおまえを追い詰めてるんだ?」


自分の現状も気持ちも全てを話した父親に予想外の質問を返されて困惑に父の顔を伺い見る。

そんなマリーヌの泣き腫らした驚く顔がよほど面白いのか、父が笑いを我慢しているのがわかる。そんな父親の様子に今まで真剣に悩んで考えて思い詰めていた自分を軽くあしらわれているように感じ理解してくれない父に苛立ちが込み上げてくる。


「だ、だって!高位の方々に目を付けられたら、お父様やお母様に迷惑がかかるわ!」

「それで?」


ダグラスは大した事ではないとばかりに、尚もマリーヌに質問で返してくる。


「私のせいで貴族でいられなくなるかもしれない!」

「ほーう。」


マリーヌの必死の訴えにも気の無い返事をする父親が理解できなくて自分が間違っていたのかとすら思えてくる。


「いいかマリーヌ。貴族の立場が大事だと思っているのは、この家でおまえの母親のエリザだけだ。」

「え…?」


マリーヌは父の言葉の意味がよくわからずに目を瞬かせ間の抜けた返答しかできない。


「…大事じゃないの?」

「それはお前が決める事だ。俺が決める事じゃない。」

「だってお母様は大事にしてるでしょ?」

「ああ、それはそれは大事にしているな。」


マリーヌは父との言葉の応酬に謎が謎を呼んで頭の中は訳がわからなくてハテナが溢れかえる。


「ちなみに俺が譲れない大事なのものは家族だけだ。エリザにドューク、そしてマリーヌがいてくれればそれでいい。その家族が幸せでいてくれるなら尚いい。でもそれは、俺の大事なものであっておまえの大事なものじゃない。」


「わ、わたしだって!わたしだって家族が大事だわ!」


ダグラスは不思議そうに顔をしかめる娘の頭を嬉しそうに笑いながら大きな無骨な手で乱暴に撫で回す。


「俺が言いたいのは何も心配するなって事だ。俺の愛するエリザが貴族でいる事が大事と言うなら、俺はエリザの大切な物を必死に守る。貴族じゃなくなったとしても俺はエリザを幸せにする自信があるがな。」


父は娘へと自信ありげに言い放ち、親の惚気混じりの話しにマリーヌは呆気にとられて言葉がでない。


「マリーヌは俺達の事は気にせずに自分の絶対に譲れない大事なものを見つけろ。」


マリーヌは釈然としない思いの答えを探そうと、父の自信に漲る目を上目に覗き込む。


「家族以外に大事なものが見つからなかったら?もし、大事なものが見つかって家族を不幸にさせしまったらどうするの?」


「大丈夫!おまえなら自分の譲れない大事なものが見つかるさ。それでもしエリザが不幸になったなら、それは俺の力不足なだけだ。デュークは自分で何とかするだろ。だからおまえは気にするな。」


父親に何の迷いもなく「大丈夫」と言い切られると、家族を誰一人として不幸にするつもりは毛頭ないが不思議と大丈夫という気がしてくる。


「でも、でも私…。貴族を頑張りたいのにみんなから嫌われて、貴族でいる資格なんてないんじゃないかって…。みんな私が邪魔なんじゃないかって…」


マリーヌは令嬢達の辛辣な視線や物言いを思い出し、止まったはずの涙が再び込み上げてくる。真っ赤に充血した灰色の瞳に涙が溜まりマリーヌの気持ちを体現するかのように瞳から溢れて一筋の涙が頬を伝い落ちる。

とめどもなく込み上げる涙に父の顔が歪んで見えて、堪らずに俯向くと膝に置いた握る手の甲に涙が雨のように降り落ちる。


「マリーヌは欲張りだな!」


またもや突飛に笑い飛ばす父の言葉にマリーヌは驚いて父へと顔を向けた目からは瞬きに応じて涙が次々と溢れ落ちた。ダグラスはすぐ横に座る娘の頬に伝う涙を手の腹で拭き取り、そのまま大きな両手で顔を優しく包み込んで戯けた笑みで娘を見つめ返す。その視線からも父の優しさや愛情が伝わってくる。


「万人に好かれる人間はこの世にいない。それと同じで万人に嫌われる人間もいないんだ。それとも、その令嬢達や令息がおまえの幸せで譲れない大事なものなのか?」


マリーヌは令嬢達が自分の絶対に譲れない“大事なもの”なのかを聞かれて慌てて父に包まれている手の中で勢いよく顔を横に振る。


「それでも嫌われるのが耐えられないと思うなら、相手が大事に思っている事を否定したり拒絶しないことだ。理解できなくても相手の存在を受け入れてやるんだ。できるか?」


「…私を気に食わない事を認めろってこと?」


「まぁ、そうだな。おまえは犬が苦手だろ?もしかしたら、犬もおまえが苦手なのかもしれない。でもおまえは犬が嫌いでも犬が存在することは認められる。目の前にいる犬が何をされたら嫌なのか、何をしたら喜ぶのかを理解できたら、自分がどう行動すればいいのかわかるだろ?怖くない距離を保つ事もできるし、必要だと思ったら恐い犬から一目散に逃げればいい。大事なものを守りたければ信念に従って立ち向かえ。あとは犬を従わせるのもなかなかいいぞ。」


マリーヌは高位貴族の令嬢令息を犬に例えた父に呆気にとられ、自分では思いもつかないような突拍子もない、だけれど妙に説得力のある父の助言に止まらなかったはずの涙も引っ込んでしまった。最後の言葉は何を意味しているのか怖くて聞かなかったことにしよう。


困惑と驚きに目を大きくして言葉が出ない様子のマリーヌに、ダグラスは娘の顔を包む両手で頬を潰して、目を丸くして口を尖らせた娘の間抜けな泣き腫らした顔に笑いを吹き出した。


「もう!お父様ったら、私は真剣に悩んでるのに!」

「ははは!悪い悪い、子供の成長が嬉しくてついな。」


マリーヌは父の笑いに悩みも薄れて、混沌とした気分も晴れて元の自分に戻れた気がする。いや、もしかしたら前の自分とは何かが違うかもしれないという予感さえしてくる。次に令嬢達に会ったら、キャンキャン吠える着飾った小型犬にしか見えないだろう。どうやっても太刀打ちできない大型犬のアレックは逃げる事にしようと心に思う。


「いいかマリーヌ。生きるって事は自分を知っていくことだ。自分を知るには嫌な事も楽しい事も満遍なく経験しろ。そして貴族社会から逃げる勇気がないのなら自分がいる世界をもっと学べ。色んな経験をして学びを積み重ねて自分を知り理解して、初めて自分が譲れない大切な物が見つかる。そこまでいったら貴族社会もそこまで悪くないと思えるかもしれないし、結果として貴族社会から離れてもそれは逃げではなく新たな旅立ちになる。」


マリーヌは先程とは打って変わって真剣な口調と表情の父の顔を一身に見つめて、その言葉を胸に刻むようにゆっくり頷く。

平民から自力で国王に認められ貴族となり、今現在も国王に信頼されて側に仕える父がそうだと言うならきっとそうなのだろうとマリーヌは自身に言い聞かせる。言われた事を自分の出来る限り頑張っても駄目だった時は父に文句を言えばいい。


きっと父なら私がどんな選択をしたとしても変わらず父のままでいてくれるだろう。そしてまた悩んだり行き詰まったら、マリーヌには思いもつかない解決案を教えてくれるだろう。その安心感がしがらみに縛られて身動きの取れなくなったマリーヌの心を解放していく。


「これからは誰かの大事なものではなく、自分の譲れない大事なもので生きていけばいい。」


表情を一変させて目を希望に輝かせる娘にダグラスは再びマリーヌの頭を乱暴に撫で回す。そしてマリーヌもまた大好きな父へと飛び込むように抱きついた。

お読み頂きありがとうございます!

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