【第6話】- 底辺貴族の洗礼 -
宿敵アレックはリリアーナの二番目の兄である。アレックがマリーヌの宿敵となったのは、リリアーナより何度目かに呼ばれたお茶会の席だったと記憶している。当時12歳のマリーヌは同じ年頃の貴族令嬢達の集まりに慣れてはなく、どこにもない身の置き場を探してソワソワとしていたようにも思う。
どのお茶会でも飽きもせず話題になる第一王子の噂話しに少しも興味が持てずに覚えたての愛想笑いを顔に貼り付けて、隣に居合わせた令嬢に「素敵なお方ですわよね。」と聞かれれば、馬鹿正直に「王子殿下とはお会いした事がないので、わたくしにはわかりませんわ。」と答える始末。当時の私は嘘と愛想の違いが全くわかっていなかった。
『王子様は素敵ね』という話しに相手や周りに合わせる事もなく、正直が美徳とばかりに水を差す受け答えでは友達などできるわけがないと今更ながらに反省している。
事の発端が起きたあの日も、第一王子の噂話しをリリアーナを中心に令嬢達が華を咲かせていたお茶会の場に兄であるアレックがいつも通り現れた。
底辺貴族のマリーヌが座る位置はいつも真後ろに出入り口の扉がある下座の席。今回も突然現れたリリアーナの兄アレックの存在に周りの令嬢達がうっとりとした視線や溜息混じりの囁やかな黄色い声のざわつきでようやく誰かが背後にいる事に気が付いた。
リリアーナの二番目の兄であるアレックには家名を継ぐ事ができないにも関わらず、王子同様に令嬢方には大変人気がある。
次男のアレックが貴族を存続したければ跡取りのいない貴族のご令嬢と結婚し結婚相手の家を継ぐか、国王に何かしらの功績を認められ新しく爵位を与えられるかしかない。しかし次男といえど由緒正しきランディア伯爵家の誉れな御令息。第一王子と同じ年齢という事もあり従者として幼い頃より仕えている事は誰もが知る周知の事実。
外見は可憐な顔立ちのリリアーナと兄妹だけあって作りは似ているがアレックには男性的な美しさがあり、背も高く整った凛々しい顔立ち、通った鼻筋や知を称えた涼やかな深い緑色の目元が持ち合わせた品位を存分に醸し出し、何事にも動じない悠然たる態度は貴族の鑑のようだ。
妹のリリアーナと同じ年頃のご令嬢方は身近な年上のアレックに当然の如く夢中である。同じ貴族でも最低位のマリーヌからしたら目の前にいても、王子と等しく遥か彼方の遠い世界の人物でしかない。
それに高貴な家に生まれた次男からしたら、爵位も継げない、有力な他家との繋がりも皆無で結婚時の持参金も期待できない何も差し出せない底辺貴族の令嬢はアレックからしたら何の足しにもならない取るに足らない存在であろう。第一にマリーヌにしたって身分不相応な貴族相手に憧れなど一切抱けない。
村に住んでいた頃に姉のように慕っていた使用人の女性から母には内緒で借りてこっそり熟読していた男女の恋模様を主にした大衆小説の影響で「異性への憧れ」や「恋心」「身分違いの恋」というものに凄く興味はあるが、どこか自分には無縁なのではと思ってしまう程に現実ではそういった感情がまったく湧いてこない。
物語を読んでいる最中は身分違いの恋により擦れ違う平民の娘と貴族の子息に涙し困難を乗り越え結ばれる二人に胸を踊らせるが、実際に自分が貴族社会の巣窟である王都に身を置いてみると、頻繁に招待され出向かなければならないお茶会や常に意識して気を張らなくてはならない爵位の上下関係に堅苦しい所作やマナー、本来の自分を心の奥底に押し込み隠して、いつボロが出るかと怯えながら貴族令嬢として振舞わなくてはいけない事がひどく窮屈で息苦しく、そんな自分を偽った生活が一生続くなんて耐えられないと思ってしまう。
その日のお茶会もいつもの様に妹を心配してか様子を見に来た兄のアレックにリリアーナが顔を綻ばせ兄へと駆け寄り、周りの令嬢達の前で兄の腕へと抱き付いて上目に見上げて微笑むと、アレックも懐く妹へと普段は変化の無い乏しい表情を笑みへと変える。
リリアーナ主催のお茶会で毎度お馴染みの光景は、普段は見る事のできないアレックの笑みを拝める貴重な機会に令嬢達からはいつも好評だ。アレックのリリアーナへと向ける笑みは慈愛に溢れ、まるで別人の様に変化する。アレックに憧れを抱く令嬢達は自分にも笑いかけて欲しくてさらに熱を上げているようだ。幼い頃より欲しいものは何でも手に入る令嬢達は、欲しくても安易に手に入らないアレックの笑顔を自分の物にしたくてたまらないのだとか。
そんな仲睦まじいランディア伯爵家の兄妹と、アレックの気を引きたくて媚びる目線を送る令嬢達の様子にマリーヌはただひとり傍観者と化していた。マリーヌにとって出向いた先のお茶会でいつも顔を出す令嬢の兄としか認識していなかった人物が、この日を皮切りに突然宿敵へと変わったのである。
後々、当時の状況を冷静になって考えると、アレックが部屋へと現れる直前に令嬢達が夢中で話していた『王子様は素敵ね』という話しを隣の令嬢に同意を求められた時のマリーヌの返答がたまたまアレックの耳に入ったのだろうか。
当時の私は田舎から出てきた貴族の服を着た無知な平民同然の子供。
母や厳しい侍女から教わった貴族としての知識はあっても、底辺貴族としての正しい振舞いも所作もわからずに成人後に貴族が参列する社交界の予行練習も兼ねたお茶会の意味も理解せずに、妹のリリアーナが主催したお茶会に水を差した貴族らしからぬ無作法な返答が気に食わなかったのか、はたまた王子の従者であるアレックが仕える主を侮られたと怒りを感じたのかは定かでは無いが、つまりは貴族の上位に位置する伯爵家の客としては余程に目の余る品位に欠けた振舞いにアレックは癇に障ったのだろうという憶測にマリーヌは行き着いた。
そして、今し方までリリアーナへと微笑んでいた同じ人物とは思えないあからさまな嫌悪の視線を何の前触れもなくマリーヌへと射抜くように向けてきたのだった。
マリーヌはあまりの突然の事にお茶を啜る手を止め、その凍り付くほどの鋭利な視線に目を離せずにカップ越しに身体を強張らせた。突如として一変した張り詰めた空気に令嬢達の視線がマリーヌへと集中する。
何が起きたのか訳がわからずに、今し方まで癒されていた上品なローズがほのかに香り立つ紅茶の味も匂いもしなくなり、微かに震える手元のカップを音を立てないようにそっとカップ皿の上に戻して、確認の為にもう一度アレックの顔を見る。するとやはり自分へと向ける辛辣な視線が交わる。焦る頭で必死に考えても現状を理解できずに困惑だけが募っていく。
そしてアレックは一頻りマリーヌを睨み終えると何事もなかったかのように令嬢達へと等しく笑顔を向けお茶会の席に訪れた詫びを告げて去り際に再びマリーヌへと辛辣な視線を投げつけてその場を後にする。
その次に呼ばれたお茶会も、またその次に呼ばれたお茶会でもアレックは現れては律儀にマリーヌにだけ嫌悪が混じる辛辣な視線を投げ掛けては立ち去っていった。
伯爵家の令息であるアレックの態度がマリーヌを取り巻く全てを変えていった。
男爵子爵と爵位の低いご令嬢達はマリーヌに対して目に見えて余所余所しくなり、アレックに睨まれる回数を追うごとに目も合わせず自発的に話しかけてもこなくなった。上位の令嬢達は憧れるアレックの視線が嫌悪のものでもマリーヌにだけに意識が向けられる事が面白くないのかアレックに同調するようにマリーヌへと向ける視線は辛辣さを増し、言葉に含んだ嘲りを強めていった。
ランディア家に相応しくないのならお茶会に呼ばなければいいのにと思いもしたし、お茶会の誘いが来ない事を何度も願ったが、リリアーナはマリーヌの存在を忘れてはくれないらしく事あるごとに律儀に欠かさず誘いがくる。
周囲の令嬢のマリーヌへと日増しに強くなる辛辣な物言いに主催者のリリアーナは他者が他者に向ける悪意を純真のあまり気がつかないとばかりにマリーヌへと何事も起きて無いように接してくる。
そんなリリアーナの言動は一見すると、身分の隔たりなどないかのように気安くて優しいと受け取れるが、それはリリアーナが身分を意識しないでいい立場に居るからであって、最低位の爵位であるマリーヌには間違いなく身分による序列がそこに存在しているのである。
マリーヌからしたら周りの状況を全く見れていないリリアーナの数々の言動はマリーヌをさらに立場も心も底辺へと突き落としていく。そしてリリアーナだけが優しく慈悲深いと賞賛に押し上げられていく悪循環。マリーヌへと向けられる辛辣な令嬢達の言葉に賛同はしないが制止も庇いもしないリリアーナの度重なる無邪気で気安い純真さに違和感や不快感を強めるほど、マリーヌは自分が汚れた嫌な奴に思えてくる。
こうして宿敵アレックをきっかけにマリーヌは貴族社会の洗礼を身をもって受ける事となった。
アレックにより高位貴族の影響力の恐ろしさを知り、辛辣となった令嬢達から底辺貴族の立場を知り、リリアーナの無邪気で純真な振る舞いから己の心の汚さを思い知った。
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