【第5話】- マリーヌの宿敵 -
「ルイ王子!こんな所に!執務の休憩中に忽然と姿が見えなくなるから、随分と探しましたよ。」
突然の掛け声と共に主城のある方から大股にこちらへと向かってくる存在にマリーヌは身体の前に添え合わせている手をきつく握りしめ慌てて頭を下げて王子から一歩後ろへと距離を置く。マリーヌが咄嗟に礼をとった頭上から不機嫌な舌打ちが聞こえた。
「ちっ、もう見つかったか。」
令嬢達が華を咲かせる噂話しのような外見も中身も素晴らしいだけの完璧な王子様を信じていたなら、今の王子の悪態に天地がひっくり返る程に驚いただろうが身を以てそれだけではないと知った今では然程驚きもしない。それよりも今現在、刻々と近付いてくる人物に存在を悟られない事こそが今のマリーヌには最優先事項だ。
「聞こえてますよ。まったく、見つかったかじゃありませんよ。探す身にもなって下さい。」
「おまえは地獄耳の上に小言が多くてたまらない。」
「誰の所為ですか、この後の執務に支障がでたら私が怒られるんですから。」
「執務に対して誰にも困らせた事は一度もないと記憶しているが?」
「はぁ、そうですね。私は優秀な主人に仕える事ができてとても幸せですよ。」
「わかっていればいい。」
溜息混じりに相手に全く効かない嫌味を悪びれもなく親しげに王子へと告げる声の主をマリーヌは知っている。普段なら王子に振り回されて可哀相にと同情でもしていただろうが、今のマリーヌにはそんな心の余裕は一切無い。自分の身を守る事で精一杯だ。
遠目に見えたその姿にマリーヌの頭には警鐘が鳴り響き、近付いて来るにつれて警戒の音は強く大きく鳴り響いた。「私は草木」と心で連呼し、一心に息を殺し身を潜める。その奥義はお茶会に出向いた屋敷の執事や令嬢付きの侍女達から学んだものだ。
彼等は仕える主人の邪魔にならぬよう、それでいて直ぐに要望を聞けるように細心の注意を払い務めている。ある時は調度品の一部の様に厳粛に、ある時は自然の風景に溶け込みさり気なく、そして主人の恥とならない様に決して出過ぎたりはしない品位を感じる完璧な身のこなし。マリーヌは億劫で退屈なお茶会の席でいつも彼等の様子を観察していた。そして高貴な令嬢付きの侍女もまた、どこかの男爵、子爵、地方の貴族の令嬢で行儀見習いの為に務めていると知った時は本当に驚いた。
母によると、貴族の女性は格式の高い屋敷で行儀見習いをすると令嬢としての伯がつき良い家に嫁げるのだとか。見習い先の家と繋がりができる為とも言っていた気がする。そして自身の働きを認められれば、城で王族に仕えるという大変誉れな機会も与えられるのである。
その事実を知ったマリーヌは出向いた先の令嬢とその家族だけではなく、仕える侍女、執事、取り囲む全ての人間がマリーヌより上位貴族の出という事実にもはや、赴いた先々の社交の場は恐ろしい所にしか見えなくなった。
もともと侍女だからと言って周りの令嬢達の様にその存在を軽視はしてはいなかったが、家にいる使用人のような身近な存在ではなくなってしまった。
爵位が底辺のマリーヌへと給仕をさせたりするのが恐れ多い程に内心では萎縮するばかりだったが、その様子や対応を観察すると彼女達はその務めに誇りを持ち、下位のマリーヌへも主人の客人として誠意を持って接してくれる。その意識の高さに尊敬の念を抱いてしまう。
村で暮らしていた小さな屋敷では、マリーヌとは年の離れた姉の様に気さくな平民の使用人と、古くから母に付いている母並みに貴族のマナーに厳しい侍女、それと家事を一手に担う肝っ玉な近所の初老の女性がいたのみ。
父の躾として彼女達から家事や身の周りの事を学び、自分でできる事は一通り自分でやる。
父の村での教育方針は兄を高官にさせ、娘を高貴な貴族へと嫁がせたい母の反発があっても、一代貴族の父が期限付きでも頑なに譲らなかった子供達への生きる教えでもあった。その教えのお陰で兄のドゥークもマリーヌも、平民となっても貧しくなっても自分が食べていける分だけ自力で稼げれば生きていけるだろうとも思う。そんな兄と私は、母に言わせれば貴族としての誇りが著しく足りないらしく母の悩みの種だ。貴族への拘りがないところだけが私と寡黙な兄との唯一共感できるところだろう。
「アレック様。ルイお兄様を探しに迎えに来られたのですね。」
マリーヌは顔が見えない様に俯いたまま身を潜めていると、王子と従者の親しげなやり取りに少女の愛らしい声が加わった事にお茶会に参加した令嬢達が王女へと別れの挨拶を終わらせた事を察した。
こうなったら私も早々に挨拶を済ませて帰路に着きたい。そして、家に帰ったら疲れ切った心と身体を労い休ませたい。マリーヌの頭の中は安らかな自室のベッドで埋め尽くされた。
「これはアンジェリー王女。今日はまた一段と愛らしく麗しい。まるで薔薇園に舞い降りた天使のようです。」
王女からアレックと呼ばれた従者は優雅に左手を胸に当て膝をおり、アンジェリー王女より差し出された手の甲に口付けをする。マリーヌからしたら歯が浮く程に過度な言葉の表現や大袈裟な礼の仕草は高位貴族特有の気品と相まって自然に受け入れられてしまうから不思議である。アレックの貴族然とした涼しげな風貌も関係しているのかもしれない。アンジェリー王女に限ってはアレックの言葉通りで、過度の褒め言葉でもお世辞でもないむしろ相応しくすぎて的確とさえ思える。
「この度は主を捜すためとはいえ、アンジェリー王女のお茶会に訪れてしまいましたことお詫び致します。」
「いえ、お茶会も終わりでしたから。何も気にする事はございません。」
「さようですか。それを聞いて安心致しました。」
王女とアレックの恭しい穏やかな会話がひと段落すると、今度は自分へと向けられたアレックの視線が頭上から突き刺さるのを感じてマリーヌは思わず身がすくみ呼吸が止まる。久し振りに感じるアレックのあからさまな敵意。身体の芯が急激に冷やされる感覚には未だに慣れない。
「おや?そこにいるのはマリーヌ嬢ではございませんか。侍女のように佇んでおいででしたので気がつくのに手間取り申し訳ない。」
マリーヌはやはりバレていたかと心の中で盛大に舌打ちし、貴族特有の遠回しの嫌味に「城で働く侍女達のほうが私より身分が高いけどね!」とひとり虚しい悪態を心に吐く。
敵意を隠そうともしない相手に気が付かれていたのなら仕方がないとマリーヌは姿勢を正し前を見据え苦手意識から強張る顔に笑みを作り、宿敵へと対峙するべく意を決して、ドレスの前へと添え合わせた手をギュッと強く握る。そんなマリーヌの様子にアレックは不敵に笑みを返した。
「アレック様。お久しぶりでございます。」
マリーヌは「苦手な相手にこそ礼儀を」と怯みそうになる自分の心へと暗示をかけるように何度も唱え、自分に向けられた嫌悪に負けないように、敵意を剥き出しにする鋭い目を逸らさないように、震えそうになる手を叱咤し、ドレスの裾を摘んでこれ見よがしに大きく広げたドレスの中で片足を交差させ、口では言い返せない高位の相手へ精一杯の嫌味が伝わるように、目線を下げて過度に諂って見えるように時間を掛けてゆったりと垂直に腰を屈めて淑女の礼を取る。
「わたくしの存在を気に掛けて頂き光栄にございます。アレック様。」
そして屈んだ時と同様に優雅さを装って時間をかけて身体を起こす。マリーヌはアレックと対峙するこの瞬間の為に何度も何度も夜な夜なイメージトレーニングをしてきたのだ。今の自分が持てる全ての気品と皮肉を込めて恥じらいと優美さ、そして嫌味を意識しながら宿敵の名を口にして、これ見よがしに微笑む。イメージ通りに上手くできているかわからずにマリーヌは内心不安でドキドキしてしまう。
宿敵アレックはマリーヌの思わぬ反撃に、嫌悪の対象である相手に侮られた事への怒りで頭に血が上ったのか顔が急激に赤くなる。開きかけた口からは得意な嫌味は驚き過ぎて引っ込んだのか押し黙り、マリーヌを食い入るように見はった目をわずかに見開いて、間を置いて口を結び直し怪訝に眉を寄せそして頬を屈辱に染めたまま得意の鋭い視線をさらに強くする。
「…くくく。」
マリーヌと宿敵アレックが目を離したら負けとばかりに火花を散らす険悪な空気に、前触れもなく突然に割り込んできた笑い声の主へと、いがみ合っていた2人は同時に視線を移す。臨戦態勢の緊迫した状況下にも関わらず、王子の突飛な笑いの参入にマリーヌは思わず拍子抜けしてしまった。
「お兄様。お笑いになったらアレック様に失礼ですわ。」
「アンジェ、あの堅物アレックが女子にしてやられて笑うなという方が無理だろ?」
「それもそうですわね。ふふふ。」
王子と王女の妙に息の合った掛け合いに、マリーヌは宿敵アレックへの勝利を確信して肩の力が徐々に抜けていく。
失態続きの自分が苦手なアレック相手に貴族然とした対応ができた自分への賞賛に心の中のマリーヌは嬉しさのあまり小躍りした。そして貴族の令息令嬢の頂点に君臨する王子と王女が、貴族の令嬢としていつも身の置き場がなく劣等感を抱いていた自分を認めてくれれたように感じ、マリーヌは貴族社会に身を置いて令嬢として初めて純粋な歓びに微笑んだ。
「お二人ともからかうのは程々にしてください。」
王族を前にしてもマリーヌへの嫌悪と敵意を隠そうともしなかったアレックは王子と王女に観念したのか、はたまたマリーヌ同様に興が削がれたのか、己の大人気なさを恥じ入るようにほんのり朱色に染まった頬に知的さと冷静さを称えた涼しげな緑色の瞳を細め、ゆるくクセのある淡い渋みのある金色の髪を掻き上げて、王子と王女につられたのか困ったように息を吐いて笑った。
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