【第16話】- 高位者の距離感 -
ここはランディア伯爵家の豪奢な屋敷の一室。
先程までリリアーナ伯爵令嬢のお茶会の場にいた筈のマリーヌは突如として窮地に陥っていた。
宿敵アレックの両腕と壁に挟まれ身動きできない状況に困惑を隠し切れず、正面に自身を真っ直ぐ射抜く深い緑色の瞳を遠慮がちに見つめ返す。
恐る恐る伺い見たアレックの瞳には今まで散々マリーヌへと向けてきた敵意も嫌悪も侮蔑も一切なく謎の苛立ちしか読み取れず、突然の事に動揺した身体はまるで蛇に睨まれたカエルのように萎縮し戸惑いと困惑からか固まって動かない。
(こ、これは一体全体…どういった事態なのかしら!?)
マリーヌは自分の身に起こっている事態を焦る気持ちの中で記憶を遡り目紛しく頭を働かせる。
すぐに思い出されたのは今にも続く背中やお尻、太腿の筋肉痛による痛みと共に今朝も不快に起床したこと。
師匠こと伯爵家の三男坊であるクリストフとダンスの猛特訓を始めてちょうど14日目になる今日は、前々からリリアーナよりお茶会のお誘いがあった為にダンスのレッスンは午前中に早々に切り上げる事になっていたのだが、今日くらいは連日続くハードなダンスの猛特訓を休みたい怠け心で、事前に師匠には休みなく付き合わせては申し訳ないからという理由を言い訳に「私は休みたい」という含みも込めて伝えてみたが、クリストフにはまったく伝わらず「これは自分の使命でもあるからマリーヌは何も気にしなくていい。」と後光を背負った眩しい笑顔で屈託無く言い切られてしまった。
そうなると怠心に駆られたマリーヌには何も言い返す術はなく、純粋に使命と言い切るクリストフへの罪悪感に溜息を呑み込んで笑顔を痙攣らせ浅はかな自分を責めるしかない。
2週間前に師匠からダンスの猛特訓の申し入れをついつい勢いで了承したのはいいが、朝から夕暮れまで長時間に続くダンス漬けの日々が残り43日間もあると思うと毎日の過酷なダンス練習に軽く吐気をもよおしてしまう。大凡、貴族の優美さとはかけ離れた猛特訓が終わりのない永遠と言われていたら3日目あたりで全てを投げ捨て逃げ出していただろう。
そしてダンスの特訓が終わって、自分に似合うとは決して言い難い練習着と化した母の重たい舞踏会用のお古のドレスと、囚人の拘束具の様に重いクリノリンを脱いだ時の身軽さを思い出し、連日の過酷なダンス練習から半日でも離れられる喜びに初めてリリアーナからのお茶会のお誘いに感謝してしまった。
(…まさか私がお茶会に感謝することになるなんて、人生どこでどうなるのかわからないものだ。)
「マリーヌ嬢、聞いているのか?」
「え…?あ、はい。聞いております。」
マリーヌは頭上から投げつけられたアレックの辛辣な物言いに肩をびくりと震わせ我に返る。アレックに壁際に追い詰められるに至った経緯は未だに心当たりは微塵も無く、打開策を見出せてはいない現状に慌てて直近の記憶を手繰り寄せる。
(思い出すんだマリーヌ!この不可解な現状を解決する糸口が絶対にある筈!)
先程までいつも通りにリリアーナを中心に贔屓のご令嬢方は噂話しに花を咲かせて楽しそうに談笑していたと記憶している。
ランディア伯爵家が手掛ける絹や布の輸出入で外国より仕入れた布で仕立てたリリアーナの優美なドレスの賞賛から始まり、ルイドリッヒ王子を褒め称える話し、そして対立する派閥の令嬢が催すお茶会や舞踏会の品評などなど、マリーヌはいつも通り一番端の席で優雅に紅茶を片手に振られはしない聴き慣れたいつもの話題に場の雰囲気を壊さないように微笑みだけ顔に貼り付けていた。
いつもと違う事があるとすれば、慣れるためと称して強制的に毎日着用させられている息苦しい事この上ないコルセットのせいで目の前の美味しそうなお菓子に余り手を付けられない事くらいだろうか。
リリアーナ主催のお茶会はいつも王都で話題の入手困難な新作のお菓子や、外国の珍しいお菓子が勢揃いするのを責めてもの心の慰めにしているのに、忌まわしきコルセットのせいで全く慰められやしなかった無念がふつふつと思い出される。
(コルセットとアレックのせいで、初めて見る木苺のソースがかかったチョコレート色の焼き菓子を食べそびれてしまったわ!!)
あれは絶対に美味しそうだったのに食べ逃した獲物への口惜しさに困惑からの焦りは徐々に苛立ちへと変わる。
胸元から腹部辺りにまで色濃く滲んだドレスの紅茶のシミの事を考えても、今日はあの場に戻って目当てのお菓子を一口でも食べる事は叶わない悔しさと自分が何故アレックに壁に挟まれ追い詰められているのか意味が分からず解せない思いにさらに怒りがふつふつと煮えたぎる。
「アレック様、そこをおどきになって頂けますでしょうか?この状態では、わたくしは会話などできませんわ。」
マリーヌの言葉にアレックは目を細め視線はさらに鋭さと威圧感が増す。
「ダメだ、このまま話すんだ。」
マリーヌはお菓子の八つ当たりも含めた苛立ちにアレックへと向ける視線も負けじと強くなるが、一方アレックはそんなマリーヌに口角が微かに上がり現状を楽しんでいるようにも見受けられる。
(まったく解せない。相変わらずこの男は一体何だと言うのかしら。ダンスのホールドといい今といい、過度に近い距離での会話が高位貴族の常識だとでもいうのかしら!)
ダンスの猛特訓を始める14日前の家族以外の男性と触れ合った事の無いマリーヌであれば、宿敵アレックといえども異性との至近距離というあまりにも不慣れな事態に慌てふためいて、ただ羞恥を堪えて無言で俯く事しかできなかっただろが、“後光の鬼”ことクリストフと連日に渡って視線を合わせ身体を終始くっつけて手や体を触れ合わせて踊るダンスの猛特訓をしているだけに、宿敵としか思えない憎っくきアレックとならダンスのホールドに比べると遥かに遠い距離感に何も感じはしない。
無闇に連れて来られ、無意味に壁際に追い詰められはしているものの、それ以上は不用意に近づく事も不必要に触れてこない所を見るとアレックも紳士の端くれといったところだろうか。
アレックが自身に危害を加えはしないと判断したマリーヌは徐々に自身が置かれた理不尽な状況に強い怒りが湧いてくる。そしてその怒りに思いのほか冷静さを取り戻し宿敵に負けじと控えめに強気な瞳を交えながら、現状に至った原因があるであろう数分前に自分が居たお茶会の席での出来事へと記憶を辿る。
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