39-1 ケーキ作りから始まる夏の日々
前章のあらすじ
レウム大聖堂にて、ネコヒトは昏睡より目覚める。
彼はニュクスの隠居を司祭とタルトに告げ、戦争の最中の帰り道を模索した。
その一方、里ではネコヒト族の移民者が新たに300名もやってきていた。
エルリアナの宿る王家のレイピアを腰に、ネコヒトが北方ベルン王国を目指す。
南部ギガスラインより西側は戦争が激化しており、北回りの迂回路を選ぶしかなかったからだ。
その地でベルン王との謁見を果たし、ネコヒトは停戦交渉のために殺戮派の後釜にして、己の元生徒、魔将ミゴーとの接触を行う。
一時はミゴーとの戦いに発展するが、邪神の破片を宿して魔法無効化体質となったネコヒトに、ミゴーは拍子抜けして停戦の提案に応じる。
こうしてネコヒトは堂々と殺戮派の勢力圏を進んで、ニュクスを倒した最強のネコヒトという勘違いを受けながらも、ネコタンランドへの帰還を果たした。
誰もが彼の帰還を喜び、パティアとネコヒトの親子の再会に涙した。
その後、聖女エルリアナが見晴らし台から里を眺めていると、そこに古城の亡霊ザガと、しろぴよがやってくる。
ザガの正体は古の魔王。古城グラングラムはかつて、人と魔族が手を結んだ地だった。
そこでエルリアナはしろぴよの正体を悟ることになったが、過ぎ去った過去はもう忘れて、再び彼とやり直すことに決めた。
初めまして、しろぴよ。どうかこれから私と仲良くして下さい。
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帰ってきたねこたんと夏色の日々
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39-1 ケーキ作りから始まる夏の日々
クレイを介して、穏健派のサレとわたしは約束を交わしました。
戦う力に乏しいネコヒトが戦乱で数を減らさぬよう、この地に移民させるという話です。
だというのにこの里にやってきたのは約300名。これでは約束が違いました。
ですが今はよしとしましょう。
何せこれから始まるケーキ作りは、約360名分という大仕事となるのですから。
「みててね、ねこたん。ねこたんのぶんは、パティアが、つくるからなー?」
「ええ、それは楽しみです。しかしよくもこんなに材料をかき集めたものですね……」
厨房には小麦粉袋が詰まれ、卵が山のようにひしめき、ミルクの詰まった容器と、メープルシロップの壷がところ狭しと置かれています。
そんな中でわたしだけが距離を置いて、まぶしい笑顔で生地をこねるパティアを見つめていました。
驚きです。パティアは確かにかわいい娘でしたが、これほどまでに愛らしいとは、わたしはこの子の魅力を過小評価していたようです。
「教官が、なかなか帰ってこないのが、悪い。パティアもオレも、ストレスが溜まった。その吐け口が、迷宮だっただけのことだ……」
「そうですよ~? 私たち、本当にネコさんを心配したんですからね~? パティアちゃんがもう、私かわいそうで、かわいそうで……。グスッ、本当に良かったですぅ……」
なんでもない一言だったはずが、リックとシスター・クークルスに怒られてしまいました。
クークルスに至っては思い出し涙に目を隠して、鼻をすすりながら生地をこねる始末です。
「へへへ……あのね、ねこたん。クーたちが、やさしくしてくれたの。あ、それとね! こげにゃんもね、ずっとね、いっしょに、いてくれたんだぞー!」
「はい……? あの、クレイがですか……?」
「そうなんです。どうやら今回の件に、かなり責任を感じていたようで……」
厨房にはリード――いえ、令嬢マドリもいました。
卵を溶きほぐす手を止めて、彼は気の毒そうに、世にもあり得ないことを言い始めました。
責任。それはクレイに最も似合わない言葉です。
「あれは、だいぶ参っていたな……。だがヤツには、良い薬だったと思う」
「凄くいい子でした。後でクレイさんを誉めてあげて下さいね、ネコさん♪」
「パティアからも、たのむ。こげにゃん、ねこたんだいすき。いちぞくの……ほ、ほ……ほっこりだって」
にわかに信じがたい話でした。
しかもリックまで一緒になってクレイを賞賛するのですから、なんと返したらいいのやら。
「はてパティア、一族のほっこりで本当に合っていますかね?」
「うん、ばっちり、そういってた! ねこたんは、いちぞくで、いちばん、ほっこり!」
「そうですね~♪ 私もねこさんは、里で一番のほっこりさんだと思います♪」
残念でしたね、クレイ。
どうやらあなたの誇りは、パティアにはまるで通じていなかったようですよ。
この場にいるのが女性ばかりなのもあってか、誰もシスター・クークルスの言葉を否定してくれませんでした。
……いえ、マドリは一応男でしたか。まあ些細なことです。
「こねこね……。ああ……あまーい、にほい、する……。ミルクの、いいにほい、する……。おいしそう……」
「待てパティア、生地は食べちゃダメだと、いつも言っている……」
「そうですよっ、お腹壊しちゃいますよっ!」
うちの娘ですから仕方ありません。
拾い食いで食中毒になったあの日も、思い返せばずいぶんと昔のことのようでした。
小さなパティアは踏み台に乗って生地をこねていましたが、その表情は甘い匂いにトロトロになってだらしなく、今にもヨダレをトッピングしそうな有様でした。
「こんなに、いいにほいなのに……。ジュルリ……」
「また苦い薬を飲むことになりますよ。シスター・クークルスに助けてもらったのを、もう忘れましたか?」
「はっ……!? そうだった……。クー、あのときはな、ありがとーなー?」
「いえいえ。これからも拾い食いはほどほどにしましょうね、パティアちゃん♪」
全ての生地を焼くを考えると、今夜に間に合うかどうかギリギリだそうです。
ですがわたしが帰ってきたので、お祝いとしてどうにか間に合わせたいそうでした。
「お待たせ! 製粉終わったから手伝いにきたよっ!」
「こねるだけなら、私にもできそうです。どうかお手伝いさせて下さい」
「あっ、リセリ、ジア! いいよーっ、パティアのとなりに、こいー?」
そこにリセリとジアが小麦粉を抱えてやってきました。
さらに少し遅れてハルシオン姫だった者まで厨房を訪れて、一緒になってお菓子作りに夢中になってゆくのを、観客のネコヒトは見届けました。
「ねこさんが帰ってきた上に~、ケーキまで焼けるなんて、今日はいい日ですね~♪」
「私たち、本当に心配していたんですからね。次からは、あまり無茶をしないで下さい……」
「ああ、責任を感じて、僕まで気が変になりそうだった」
マドリの言葉に、パナギウムの旗印になるはずだった女性がため息を吐きました。
東西にパナギウムが分裂したとは伝えずにおきましょう。
そもそも、わたしが彼女を帰さなかったから、パナギウムが東西に分裂したとも言えます。
「ご安心を、もう無理をする気はありません」
同胞だけが気がかりです。
サラサールと邪神が滅び、ニュクスが失踪したことで、世界は新たな秩序を求めてこの先も入り乱れる。
弱いネコヒトはそのあおりを受けるのが、既に決まっていました。
「パティアなー、ホットケーキ、たべたこと、あるんだー。……たぶん?」
「そうなんだ。でも曖昧なんだね」
リセリが作業の手を一度止めて、パティアの唐突な言葉に耳を向けてくれました。
すると面倒見のいいお姉ちゃんを、うちのパティアは輝く瞳で見つめて、それからまた語り出します。
「うん。たべたこと、あるはず……。だけど、いつだったか、おもいだせない……。でも、たべたことある! あじ、おぼえてる! あまーーくて、ふわぁぁぁーってね、しゅごい!」
パティアはずっと貧しい生活をしてきたと聞いていますから、少し意外でした。
ちなみに今回作るのはホットケーキではなく、ミルクパウンドケーキだそうですがね。
「へー、うちは貧乏だったからないなぁ。毎日オートミールと葉っぱだけだった。ねぇ、今夜にはもう食べれるんだよね、リックさん!?」
「ああ、その予定だ。教官の凱旋祝いだな……」
「いえ、それより皆さん、これはささいな質問なのですが――夕飯の準備の方は、いつ始まるのでしょうか……?」
360人分の夕食を作るのは並大抵ではありません。
だというのに彼女たちは現状ケーキしか作っていません。
「後回しだ。教官には悪いが、今夜は干し肉を戻したスープと、作り置きのパンで済まそう。それよりも今はケーキだ」
「いえあの、なぜケーキが最優先になるのでしょうか……」
「ケーキは大事だ。今日までずっと、食べられなかったのだ。ケーキさえあれば、今夜はそれでいい……」
「一理ある。ただ純粋に、僕もケーキを食べたいからという理屈だ」
「私も賛成です。みんなあの隔離病棟に入ってから、一度もケーキなんて食べてないから、大喜びすると思う」
ケーキは極めて重要だと、誰一人わたしの疑問に応じてはくれません。
まあ確かに、一晩くらいかまわないとは思います。ですが……。それはそれで、わびしい一晩になる気がするのですが……。
「マドリはどう思いますか? ……里の先生として」
「そ、そうですね……。ちょっと不健康な気もしますね。だけど甘いお菓子を作ってあげたら、子供はみんな喜ぶでしょうね。ん……バーニィさん、僕の手作り、食べてくれるかな……」
後半の部分は、ネコヒトとリセリの鋭い耳にだけ届きました。
マドリあらためリードはバーニィにお熱なようです。
気のせいかリードの雰囲気が、以前より女性らしく見えてきてしまいました。
その桃色の髪もよくくしけずられて、今までより清潔でやわらかです。
包み隠さずハッキリと言ってしまえば、リードの女装技術は飛躍的に上達していました。
「ケーキは、あまいからなー。パティアは、ごはんだとおもう」
「ふふふ~、大きなケーキを焼きましょうね♪ たくさん食べれば、ケーキも立派なご飯です♪」
「それでは酒飲みどもが発狂しますよ」
「問題ない。火酒とパウンドケーキは合う。バニーが文句を言ったら、ケーキに酒を、ぶっかけてやればいい」
「それは名案だ! フフフッ、ぜひ今夜やってみることにするよ!」
それはそれでバーニィがいい悲鳴を上げてくれそうで、一度見てみたいものです。
アルスの方は完成した生地をまとめて、暗所に運ぶ力仕事を受け持っていました。
「仕方ありませんね……。ではわたしは外で肉を焼いてきましょう。ケーキを酒のつまみにしたくないならと、バーニィとクレイあたりを脅せば簡単なことでしょう」
「悪いな教官。しかし人数分となると、倉庫の肉も、在庫がかなり厳しくなる。明日からは、大物を頼む」
人員が増えたことで労働力が増したものの、食糧事情がわびしくなってきているようです。
いくらネコヒトが人より小食とはいえ、対策をしないと住民の不満が募るでしょうか。
「おそとで、おにく、やくのか……。それは、ひかれる……。でも、ケーキも、つくりたい……なやむ……」
「肉はいつでも焼けますよ。では行ってきます。わたしに美味しいケーキを焼いて下さいね、パティア」
「ねこたん……。ねこたんが、そういうなら、しょうがねぇな……。ここはー、パティアにまかせろー? ねこたんのケーキは、パティアの、とくべつな、あじつけ、しとく」
「いえ、そこはなんとなく怖いので、普通の味付けでお願いします」
「えー……。もー、ねこたんの、いけず……」
すると何を考えたのか、娘は生地で手をベタ付かせたまま、お構いなしにわたしへと飛び付きました。
そしてもう一度帰ってきたねこたんを抱き締めて、満足するとリセリとジアの間に戻ってゆく。
「パティアもかり、てつだった! きょうは、えんかい! ねこたん、おにくは、まかせた!」
「ええ、どうかお任せを」
打ち粉の付いた服を軽く払って、わたしはパティアの姿をしばらく眺めてから、後ろ髪引かれる気持ちでそこを立ち去るのでした。




