29-6 古城グラングラムに眠る遺産
人は生活の中に優先順位を付けます。
順位の低いものは後へ後へと追いやられ、やがて記憶の中からも忘れられる。
1日が有限である以上、それは半ば仕方がないことでもありました。
努力次第では克服できるが、結局その努力も他の優先事項に割り振られるのが常です。
まあ要するにですね、わたしはバイオリンとその音色を喜ぶ里の者の笑顔に満足して、グラングラムの亡霊、黒猫ザガへのみやげ物の存在を完全に忘れていたのです。
●◎(ΦωΦ)◎●
その日、昼寝から目覚めるとようやく思い出しました。
わたしはあの瑪瑙の女神像を右手に、古城にある日いきなり生えてきた地下世界へと歩を進めます。
それから通路を真っ直ぐ進んで地下祭壇の前までやってくると、ただ静かにあの黒いネコヒトが現れるのを待ちました。
名前はそう、確かザガ。ネコヒトのくせに肝のすわった喋りをする、大物ぶった方です。
わたしは祭壇の前であぐらをかき、燃え尽きない不思議なろうそくを見上げながらしばらくザガを待つ。
やがて黒い風がわたしの背中側に通り過ぎると、背後に気配が生まれていました。
「会いに来たのなら呼べばよかろう、不器用な客人だ」
「そちらこそ、もう少し現れ方というものがあると思いますよ」
背後を振り返ると、黒猫のザガが立っていました。
初めて接触したときはぼやけていましたが、瑠璃の女神像を差し出してからはくっきりとしています。
「やっと持ってきて来てくれたな。我が輩の存在ごと忘れられたのかと思ったぞ……」
「すみませんね。どうも見せに来るのが面倒でして、ならいっそあなたを焦らそうかと思いまして」
「ならばお前の狙い通りだ。我が輩は焦れた、そなたを憎らしく思うくらいな。まあいい、来てくれたのだ。それで、どこでそれを手に入れた?」
「聖王、黒鬼のクーガの末裔が持っていました。あなた、これが欲しいのですよね?」
黒猫のザガ、この城の元々の持ち主はわたしがもたらした情報に沈黙しました。
あるいはよっぽどコレが欲しいのか、わたしから手に入れる算段を急ぎ張り巡らせているのか。
「欲しい。だがタダではないのだな」
「ええ、わたしたちは別に友達でも家族でもありませんし、代わりに何かをいただけませんと。わたしはコレの代価として、プリズンベリルの指輪を支払ったのです」
すると彼はとても困った顔をしてくれました。
欲しくてたまらない、しかしわたしを納得させる物が無い。そう見えます。
「あいにく我が輩からは何も出せん。我が輩は亡霊のようなものだ、亡霊が財産を持つなど、ナンセンスな冗談だ」
「では破談ですね」
わたしってやっぱり意地悪なんでしょうね。
彼の隣を素通りして、祭壇から去ろうとして見せました。
「待て、まあ待て! だがこの城はそなたに力を貸してくれるだろう。この城の名はグラングラム、偉大なる竜殺しの刃。頼む、女神像をそこに置け」
「フフ……置くとどうなるのです? そのことによって、あなたは何の利益を得るのでしょう?」
黒のネコヒト・ザガは、頼むそこに置けと言いました。
彼はかつて、人に命令するのが当たり前の日常に身を置いていたのでしょう。そんな彼を困らせるのが少し楽しいようです、わたし。
「ならば逆に問う、同族を騙すネコヒトがいるか?」
「1人だけ覚えがありますが、まあそういうのは希少な存在でしょうね」
「信じてやるといい、アレもまた我々の同胞だ」
「幽霊は気楽で良いですね……」
いっそザガの口からクレイは黒だと言ってくれたら、喜んでわたしはその情報を代価として受け取ったでしょう。
「違う、我が輩は亡霊だ」
「わかりましたよ、今回のコレはサービスとしておきます」
わたしはきびすを返して祭壇の前に立ち、瑠璃の女神像の隣に瑪瑙の物を鎮座させました。
はてさて今度は何が起こるのやら……。
「末裔よ、封印が1つ解けたようだ、よくやってくれたな」
すると外の通路側から、バチリとライトニングボルトが暴発して爆ぜるような、電気質な音が響く。
「変な像1つで、あなたの正体を見破れるなら安いものかと」
「どの部屋もそなたの期待にそえるはずだ。さあ付いてこい」
「フフ……はしゃぎますね城主様」
「当たり前だ、どれだけこの日を待ったことか、良くやったエレクトラム・ベル」
ザガの亡霊を追ってわたしは祭壇部屋を出ました。
するとなるほど、封印されていた扉が開いていました。
最も地上に近い奥の扉です。
ザガを追って中を目指すと、奥から不思議な匂いが立ち込めている。
「何です、ここ……水?」
「稼働したばかりだ、少し見ていろ」
想像していた物と全く違います。
こんな怪しい祭壇が隠された地下にあるのですから、もっとこう、スピリチュアルな何かが待っているかと思っていました。
ところがそこにあるのは少しザラザラとしていた石造りの白い床と、大理石で作られた仕切りです。
祭壇部屋にある物と同じ構造なのでしょうか、沢山のランプが壁に並べられていまして、地下だというのにとても明るい。
「ついているな、ここはいくたの設備の中でも当たりの中の大当たりだ」
「ちょっとザガ、まさかこれは……」
近付くと大理石の仕切りの中に、少しずつ水がたまってゆくのが見えます。
あまりに場違いなので頭が追い付かなかっただけで、それはどうやら浴槽であり、ここはよく見れば大浴場でした。
「どうだ、我が輩と取り引きして良かっただろう」
「それはどうでしょう」
「ぬ……?」
「亡霊のあなたにはわからないかもしれませんがね、この湯……ずいぶんとぬるいですよ、ぬるま湯です」
湯気がないと、浴槽の上で手を振って見せるとザガが固まります。
黒いネコヒトが首を傾げて、それから言いました。
「すまん、本調子ではないようだ」
不思議です。どこからこのぬるま湯はしみ出てきているのでしょう。
だてに亡霊が城主をしているだけあって、それがとても珍妙不可解な部屋でした。
「昔はもっと温かく、ここで仲間たちが、日々の疲れを癒していたのだがな……。だがあの湖水に浸かるよりは温かく、それに水もまた入浴に適した物だろう。体や芋の泥を流す程度なら、汚水の心配もいらんぞ」
ぬるま湯ですが立派な大浴場です。
わたしは辺りを見回して、ここが使えるか入念に確認して回りました。
どんなマジックを使ったのやら、どこもかしこも綺麗なままです。ただこれは……。
「どうした、我が輩の後継者よ?」
「もう1つ問題があります」
これはまずいです。入り口の扉は1つ、浴槽も大きな物が1つ、30人は一斉に入れるでしょう。
だがしかし肝心な物が無いとくる。
「ここは混浴だったのですか?」
「左様」
男湯と女湯を分ける仕切りがありません……。
「左様じゃありませんよ、あなたの想定を越えるスケベどもと、性別を偽らなきゃならない者たちがいるのです。このままじゃまずいです」
「そこは好きに改造すれば良かろう、彼らの手が余っていればだがな」
「ええ、石工のダンはともかく、バーニィは大喜びでコレに携わってくれるでしょうね。のぞき穴を作らないか心配なくらいです」
湯をくむ桶と掃除道具、地面はザラザラとした石ですからイスの類も必要でしょう。
良かったですねバーニィ、あなた方の仕事が増えましたよ。
「彼か、彼のことは嫌いではないぞ。男とはスケベな生き物だ、大目に見てやるがよい」
「後半はどうも同意できませんね、頼もしい反面教育に悪いですよアレは」
「フッ……それにあの豪快さは、どことなくクーガのやつにも似ている……」
「……何ですって?」
わざとには見えません、ザガが口を滑らせていました。
おかしいとは思いました。黒鬼のクーガの末裔が、魔界の森に隠された古城の鍵、女神像を保管していたのですから。
「ふむ、ではな、後はまかせた。そなたらのがんばりを、影ながら見守っているぞ」
逃げ足の早い亡霊もいたものです。
ザガは追求を避けて陽炎のように消えていました。
「堂々とのぞきを公言とは、スケベな城主様もいたものですね。後の世のネコヒトとして、ご先祖様が恥ずかしいですよ」
皮肉を言うと空気が少し揺れたような気がします。
ともかくそうなりました。わたしたちはこの日、とてもぬるい中途半端なお風呂を手に入れたのでした。
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このことをまずパティアとクークルス、リックに伝えると、最初は信じないというより理解できないようでした。
そこで地下へと下り直して実物を見せました。
「あら~、神様ったら粋ね~♪」
「たいへんだーねこたんっ、これっ、これな、て、つっこむとなーっ、あったかーい」
「風呂と呼ぶにはぬるいが、何という贅沢、教官! オレたちだけで、一番風呂を、もらってもいいだろうか!」
好きになさい。そう答えると、彼女たちは大浴場のある地下からしばらく出てきませんでした。
ちなみに後日マドリがこのお風呂に誘われて、断り文句も浮かばずとまどい困り果てたのは言うまでもありません。




