29-3 バイオリンの調べと隠れ里の騒がしい夜 - ばおりん - (挿絵あり
音楽が人の心に響くのは、その旋律と音色の美しさあってのものです。
楽器という芸術品を道具に、作曲者の生み出した妙なる旋律を借りて、わたしたち楽士は人々に喜びと感傷を与えます。
しかし人の心を動かす要素は、必ずしも音楽の音色と旋律ばかりではありません。
音楽が人を魅了するもう1つの要素、それは――思い出です。
その音楽を聴いたときの楽しい思い出、共に奏でられた演劇のセリフ、亡くなってもう二度と会えぬ演奏者との思い出が、ただの音色にストーリーを与えて、人を焦がれるほどに惹き付けるのです。
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結局最後はバーニィの手を借りることになりましたが、どうにか昨日は納屋を完成させることができました。
今日はパティアとの狩りを成功させて、その後に2人で昼寝をした後は、家の建築を手伝いました。
しばらくすると日がすっかり暮れて暗くなったので、今はこうしてわたしとパティアは自分たちの部屋に戻ってきていました。
「そういえばパティア、おみやげを見せるのを忘れていましたね。これが礼のおみやげ、新しい楽器の、バイオリンですよ」
そこでわたしとパティアは書斎式ベッドに腰掛けて、夕飯までのひとときをゆっくりと過ごしています。
そのベッドから下りて、わたしは袋の中に隠しておいたバイオリンをまずパティアにお披露目しました。
「あっ、パティアこれしってる! えと……なんだっけな……あっ、シジンさん? シジンさんってひとがね、つかってたよー! りゅーりゅーりゅぅぅ~♪ ってね、きれいなおと、するやつ!」
シジンさん……? ああなるほど、これはもしや人名と職業を混同しているケースでしょうか。
パティアは吟遊詩人のことを、シジンという名前の人物だと思い込んでいるようでした。
「もしかして吟遊詩人のことでしょうか。これは、りゅーりゅーと、鳴る楽器なのですね」
「そうそれ! りゅーりゅーりゅぅー♪」
娘がバイオリン奏者のまねをして、ゆらゆらと踊るように空想の弓で弦を引く。
心から音楽を楽しんでいるその姿に、わたしの口元はついつい緩んでしまっていました。
過去を思い返せばイスパ様も、楽器に夢中になってゆくわたしにこんな感情を抱いていたのでしょうか。
「お上手ですね」
「うんっ♪ あっ、ちょっとそれー、パティアになー、かしてみてー?」
「ええどうぞ」
「ありがと、ねこたんっ」
繰り返しますがもうじき夕飯です。
今日は大きなワイルドボアをしとめたことで、倉庫の肉の備蓄が少し回復してくれました。
昨日一昨日は長旅の反動かすぐにわたしは眠ってしまっていましたから、今夜をバイオリンのお披露目の日とする予定です。
「いくよっねこたんっ……りゅ~♪」
こうなることは既に約束されていました。
パティアがデタラメにバイオリンの弓を無邪気に動かすと、酷い金切り音が部屋に響き渡ります。
「ぐぇぇぇーっっ?! な、なにこれっうるさーいっ! ねこたんっ、たいへんっ、これだめだ、こわれてる!」
「おやそうでしょうか、でしたらわたしに貸してみて下さい」
「うんっ! たのむねこたん、これ、なおしてー」
ベッドに腰掛けたパティアが、その向かいに立つわたしにバイオリンを手渡す。
直す演技を見せようかとも思いましたが止めて、わたしは静かにバイオリンを構えて見せます。
「ねこたん、それー、こわれてるよー?」
「さて、それはどうでしょうね」
気取った微笑みをパティアに向けて、弦の上で弓を滑らせます。
パティアが喜びそうな軽快なやつ、タルトの骨董屋で弾いたのと同じものを、わたしはさっと数小節だけ奏でてみせました。
「あれー……こわれてない……? よしー、いまので、なんとなくわかったかも。ねこたんっ、ちょっとかしてみてーっ!」
「どうぞ」
また酷い音が耳元で鳴り響いて、驚いた娘がひっくり返りそうになったのはもう言うまでもありません。
「むぅぅぅーっ、なんでじゃーーっ!!」
「また新しい語尾を覚えましたか。パティア、上手くいかなくても仕方ありません、この楽器は特別に扱いが難しいのですよ」
思い通りにいかない厄介な楽器に、パティアはお得意のがに股で怒ったり、負けず嫌いにも再挑戦したりしていました。
そこでわたしが難しいと教えてさしあげると、少しだけ落ち着いたようです。
「そうかぁ……これはー、パティアにはむりだな……でもっ、ねこたんのえんそー、きれい!」
「フフ、では素直に嬉しいと言っておきますよ」
「へへへー、パティアのせいかいだなー。がっき、おねがいしてー、せーかいだった! リセリにもきかせてあげよーねっ、ねこたんっ!」
「はい、彼女は我々の歌姫ですから」
今から楽しみになってきました。
食堂でこのバイオリンを奏でれば、音楽好きの里の住民がうっとりする姿がまぶたに浮かびます。
こんなことは普段あまり言わないのですが、わたしは、わたしの音楽が彼らの糧となっていることに、幸せを感じています。
ところでそこにあのリード、いえ桃色の髪が美しいマドリお嬢様が音色に導かれてやってきてくれました。
「おやマドリ、早速聴きつけてきたようですね」
「あ、それ、バイオリン……」
「あー、まどりんだー。ねーねー、これしってるかー? ねこたんなー、しゅごーく、しゅっっごぉぉーくっ、じょうず、なんだぞー」
リード・アルマドはイスパ様の末裔です。
ニス塗りされた美しい楽器とその音色に、すっかり目を奪われていました。
どうやらコレに並々ならぬ興味があるようです。
「はい、さすがベレトさんです。あ、じゃなくて、ええと……ねこたんさんです」
「そうだろそうだろー、ねこたんはなー、すごいんだからなー。パティアのパパは、なんでもー、できるのだ……」
あなたまでわたしをねこたん呼ばわりですか、そう突っ込もうかと思いました。
ところがとあることを思い出しまして、白いネコヒトはバイオリンと弓をマドリお嬢様に差し出すことにしました。
「えっ……」
「思い出しました、あなたも弾けましたよね、これ」
父親のレアルに会いに行ったときに、彼の演奏を何度か聴いたことがあります。
リード少年だった者はわたしの差し出したバイオリンと弓を、今も夢中で見つめています。
「おおー、まどりんっ、バオリンひけるのかー?!」
「パティア、バオリンではなく、バイオリンです」
「ん……ば、バイ……バイ……バ、バオリンッ!」
「まったく言えてませんね……」
9歳になりましたが相変わらずパティアは4文字が限界のようです。
滑舌の悪い少女がわたしの指摘にちょっと不機嫌になりました。
「むぅぅー、パティアは、まだわかいのー! わかいからー、うまく、しゃべれないだけ! バ、バオ、バーオリンなのはっ、わかってるからっ、へーきなのーっっ!」
「ふっ、ふふふっ……♪ あ、すみません、パティアちゃんが凄くかわいくて、つい……」
父親って不思議です。ただ娘の姿をかわいいと褒められるだけで、自分のことのように心がウキウキするのですから。
「にへへへ……まどりんに、そーいわれるのは、わるいき、しないなー♪ でもな、まどりんのほうがなー、かわいいよー♪」
「では一曲お願いしますよ、まどりんさん」
「あ、あなたまでそういう冗談を……。わっ、わかりました、では……」
そろそろ手が疲れてきましたから、わたしはちょっと強引に楽器をマドリへと手渡しました。
何だかんだ演奏したかったようです。すぐに彼女はバイオリンを構えて弦に弓を乗せる。
するとパティアが押し黙りました。
やがてしばらくの間をおいた後に、マドリがゆっくりと弓を滑らせて弦楽器を奏で始めました。
イスパ様がわたしに音楽を教えて下さったように、アルマドの家では代々当主より子へと音楽を教えます。
リードの得意はバイオリン、この楽器はいっそ彼に任せるべきでしょうか。
事実、技術はわたしに及ばずとも、彼の演奏には心がこもっていました。
気持ちよさそうにゆったりと弓が弦の上を滑り、クラシカルな旋律と彼が一つになる。
美しいマドリお嬢様がバイオリンを奏でる姿とその音色に、うちの娘は瞳を輝かせて見とれていました。
うちの娘はかわいい女の子が大好きでしたから。
スローテンポな旋律はまるで終わりを惜しむかのようで、演奏が終わったのはそれからしばらく経った後のことでした。




