27-2 白の焔に抱かれて灰燼へ帰する悪夢の調べ
しかしその魔王様がある日、別人へと豹変しました。
何の前触れもありませんでした。
ただ単に性格や価値観が変わっただけなら、わたしは考えることを止めてこれまで通りの忠誠を尽くしたのでしょう。
ですがそうではなかったのです。それは別人でした……。
「魔王イェレミア様、今日こそ首を縦に振っていただきますぞ!」
「あなたの深い考えは私にもわかります。だがこのままでは、奴らがつけ上がります! せめてギガスラインだけでも、我らのこの手に――」
その日も怠惰な魔王の城、魔王の玉座に好戦派が朝から通い詰めていました。
めんどくさい、却下、やるなら1人でやれ。魔王様が彼らの願いを聞き入れることなど、1度たりともありませんでした。
ですが……そのときのわたしは、とても大きな不安と恐れと共にありました。
なぜならあんなにもわたしを愛玩して下さった魔王様が、その日は1度も頭を撫でてくれなかったのです。
それどころか話すらしてくれない。
何か自分に手落ちがあって、魔王様を失望させてしまった。嫌われてしまったと最初は思いこんでいました。
けれどおかしいのです……。
魔王様はわたしをただの使用人として認識するばかりで、眼中にすら入れない。
魔王の僕ベレトートの肉体は透明となり、世界から消えてしまったのではないかと、ありもしない妄想を抱くほどの衝撃でした。
「手ぬるい、それでも魔族か貴様」
まず口調が変わっていました。
「……は?」
「い、イェレミア陛下……?」
一致するのは清らかで美しいその声色だけで、何もかもが別人に変わってしまっていたのです。
誰がこの時点で、魔神に肉体を奪われていると気づけるでしょうか……。
「ギガスラインは我が焼き払おう、今すぐ侵攻の準備をしろ。貴様らの願い通り、我が人間を滅ぼしてくれる……」
わたしにはわけがわかりませんでした。
誰かが魔王様に化けて、なりすましているのだと疑いました。
このことをイスパ様に報告しなくてはと。
「何を怯えている、そこのネコヒトよ、ちこう寄れ。ふむ、貴様の名は、なんといったかな……」
わたしはお側付き、魔王様の斜め後ろに控え、ただ震えていました。
魔王様がわたしの名前を忘れるはずがありません。
だってそうでしょう、この名は魔王様にいただいた名なのですから……。
「ッ……。お……おたわむれを……あなたが、付けて下さった、名ではありませんか……」
「ああ、そうだったな。それで、貴様の名は?」
「ベレトートです……」
「クッハッハッハッ、猫神の名を冠するわりに臆病なやつだ」
それは魔王様の姿をした別人。わたしは命じられるままに玉座の前にかしづき、頭の毛並みをその怪物の手慰みにされました。
わたしとの5年間の思い出が、魔王様の中から消えてしまった。
ただただそのことが苦しくて、わたしの頭はそれからずっとまともに働かなくなりました。
魔王様の肉体に宿っているこの最低の存在が、魔神という名で呼ばれていることを知ったのは、それからずっとずっと先のことです……。
●◎(ΦωΦ)◎●
人間たちの絶対防衛線、ギガスライン要塞が陥落したのはこの3日後のことです。
魔王様が魔界の森北部高台に向かうと、わたしたちお側付きも付き従うことになりました。
「クククッ、何が見える、アレは何だ、ベレトートよ?」
「はい、魔王様……あれは、ギガスライン……かつて巨人族ギガンデウスを阻んだとされる、鉄壁の高き城です……」
「ほう、勉強熱心だな」
「あなた様に教わりました……」
魔神はわたしが苦しんでいるのを知っていました。
しかしわかった上でわたしたちお側付きを連れ回して、その苦しみや戸惑いを気持ちよさそうに見ていたのです。
「ならば我からも教えてやろう」
「ありがとうございます……ですが何を――え、なっ?!」
魔王様の美しい手が白い焔を3つ空中に生み出しました。
それが危険なものであることは、もはや本能レベルでわかる。
「これはメギドフレイム、炎魔法最高位にして、絶対に消えることのない破滅の焔よ。ククク……さあ、見ているがいい……」
「魔王様っ、いったいあなたは何を……っ?!」
3つの白焔は空へと浮き上がり、信じられない高熱を放ち出す。
そして魔王様は、いえ忌むべき存在邪神は、それを北部ギガスラインの北、中央、南に撃ち込んだのです……。
「見よ、これが我の力! 全てを灰燼へと返す破滅の炎! 愚か者が築いた城が焼け落ちるのを、そこで見届けよ! 哀れな下僕ベレトートよ!」
絶対に消えない炎、メギドフレイム。
その白焔は離れた高台から確認できるほどに高々と燃え上がり、石で作られた城を灰へと焼き払ってゆきました。
時刻は昼、つい先ほどまでギガスラインの上には人間の青い空がありました。
それを真っ黒なススが暗く染め上げ、光の全てを飲み込んでこの世を暗闇の世界に変えていたのです……。
「世界の終わりが来たかのような、良い顔だな下僕よ。だが違うぞ、これは夜明けだ、貴様は黙示録の始まりを見ているのだぞ……」
「な、なぜ……わたしにこんなものを……あ?!」
それはまるで幻覚のような光景です。
目的を果たした邪神がさっと右手を振ると、白焔が跡形もなく消え去っていたのです。
「足りん、これでは焼き足りぬ……」
「魔王様ッどちらへ?!」
「宴」
わたしたちお側付きをその場に残して、魔王様の肉体はギガスラインを飛び去っていきました。
たった3つの炎で、魔王様だった者はギガスラインという停滞防波堤を焼き払って、魔族と人間の全面戦争を始めるのでした……。
●◎(ΦωΦ)◎●
わたしたちお側付きが魔王様に追いついた頃には、もう全ての趨勢が付いていました。
軍の情報を頼りに、仲間たちと共にギガスラインの頂上へと駆け上ると、東側の人間の空を見つめる魔王様を見つけました。
ギガスラインは果てしなく高い巨城です。
いったいそこから何が見えるというのか、魔王様の美しいお顔が残忍に歪み、愉悦を込めた笑みを浮かべている……。
「そ、そんな……こんなっ、これでは、魔王様……ッ」
街が燃えていました。
魔王様の一番のお気に入りだった者としてわたしが主人の隣に立つと、そこに、地獄が広がっていました。
けして消えることのない悪夢の白焔が、街を焼き、川を焼き、森を焼き、遙かかなたにある城も、聖堂も、畑も草も土も何もかも全てを白く焼き払っていました……。
ここまでやってしまっては、もはや和平など不可能、どちらかが滅びるまで戦いは終わらない……。
わたしはその地獄を眺めて、ただ立ち尽くしました。
わたしの主人がこれをやったとは、とても信じられなかったのです……。
「遅かったな、愛しのベレトート。……どうした、何か言え」
「お……お待たせ、しました……魔王、様……」
「もっと見よ、美しかろう……。あの家々の1つ1つに人間の生活がある。それが今、理不尽な炎に灰へと変わり果てている。動けぬ老人は焼け死に、逃げた親不孝者もまた、炎にあぶられて物言わぬ焼き肉となる……。さあ、笛を奏でろ、人間どもへの、鎮魂歌を奏でてやれ」
「はい……魔王様……」
魔王様に憑依した魔神は、わたしのフルートを余興に、猟奇的な薄笑いを浮かべて燃える街をいつまでも眺め続けました。
世界を焼くのが楽しくてたまらない。空は夜のように太陽の光をススに覆い隠され、邪神という悪魔を喜ばせる。
やさしかった魔王様はもういない。この悪意の塊は魔王様じゃない……。
「イェレミア陛下!」
「クククッ……これはこれは、遅かったではないかイスパ公爵」
「な……なんてことを……。貴女は、いったい何を……陛下っ、貴女はご自分のされたことを理解しておられるのですか!!?」
魔界公爵イスパ・アルマドがそこに駆けつけて来ました。
彼は戸惑いながらも、弱いわたしと違って怒っていました。
近しい価値観と美的感覚を共有する盟友が、とつじょとして死神に変わったのです。
わたしは認めがたい現実に、フルートに逃避するばかりでした。
「じきにあの街も、森も、城も、聖堂も、人間の傲慢の全てが、灰燼と化す。メギドフレイムを我が消したその瞬間が始まりだ。イスパよ、魔王の名において命じる、戦線に加わり、劣等種どもを滅ぼせ……」
魔王様の肉体は魔神の憑依により、メギドフレイムを代表とするけた違いの術と魔力を得ました。
ですが1つだけ失ったものがあります。それは魔族全てを魅了していた、あのカリスマです。
「お考え直し下さい! 人間を滅ぼしても、その後は魔族同士の殺し合いになるだけ、貴女はそうおっしゃっていたではありませんか! こんな、全てを焼き払うようなことをしたら、憎悪となって貴女に呪いが返ってきてしまいますぞ!」
「クッ、クハハッ……イスパ、魔王の命に背く気か? その覚悟はいいが、犠牲になる領民が哀れだな。公爵領ごと、全てが灰になっても良いと?」
「な……貴女が愛された赤の離宮すら焼き払うと?!」
「ああ……そこだけはまあ、残してやらんでもないな」
そこでイスパ様も、わたしと同じ結論に至りました。
わたしたちお側付きが、言えなかった言葉を。状況から推測できる悲しく認めがたい事実を。イスパ様は敬愛する主君に、口にすることを選びました。
「誰だ……」
そう、それは魔王様ではない。
「お前は、誰だ……。貴様ッッ、貴様は魔王イェレミアではない!! 誰だ貴様はッッ!!」
「見ればわかろう、我こそが魔王イェレミア。その隠された本性だよ。イスパ・アルマド、もう1度だけチャンスをやる。戦線に加わり人間を狩れ。友である貴様を、この大戦の英雄にしてやろう……」
「もし従わなければ、貴様は、公爵領の民を殺すのだな……?」
「さよう。イスパ・アルマドという優秀な手駒を得るためだ、我の本意ではない」
300年前には、人間の世界の北西部を支配する、ベルン王国の旧王朝がありました。
その国は、魔王イェレミアの手により焼き払われ、1週間も経たずして滅びました。
全てが灰燼へと化した、そう呼んだ方が適切なほどの、酷い末路でした……。
灰の墓標となった世界を、わたしはかつて魔王様だった邪悪の権化に付き従い、戦えぬ己から見える全てを見届けたのでした。




