16-5 The great escape. 魔界への大いなる逃亡 - 新しい名前 -
アンチグラビティ、それはネコヒト・ベレトートルートの体重、及び装備の重量を半分以下にする。
発動した状態で馬のたづなを持てば馬体重は半分、筋力はそのままとなります。その意味は凡人の想像力を驚きと共に裏切る。
「いいぞいいぞっ、とんでもなく速いじゃないか! これなら追っ手なんて怖くないなっ!」
「いえ夜が明ければあちらは狼煙を使い出すでしょう。そうなったら北の山岳部へ抜けましょう」
森を出て真夜中の街道を走り抜けました。
暗闇に包まれた道をカンテラの明かりを頼りに馬が駆ける。
「山か……でも道は大丈夫なのかい?」
「なに、天馬となったこの馬を使えば山道もまた何のことはありません。実に素晴らしい乗り心地ではないですか」
馬の足取りはまるで翼を持っているかのように軽く、それが乗り心地をふんわりとさせています。
この予期せぬ絶好調に、馬もまた走る気力に満ち満ちておりました。気のせいか、最高の騎手として好かれてしまったのかと疑いを覚えるほどに。
「それもそうだな。ネコヒトくん、キミに救われて心底ボクはついていたよ。頼む、ボクを連れて行ってくれ、キミの理想郷ニャニッシュに」
「違います、バニッシュなんです……」
それは里に帰ってから説明した方が早い。
とにかく今はただただ逃げた。西へ西へ、サラサールの手のおよばぬギガスラインの向こう側目指して。
「それにしてもネコヒトくん、キミはとても温かくて気持ち良い肌触りだな……」
「ちょっと、どこ触ってるんですか姫」
「胸毛だ。キミの毛皮をはいで、それを毛布にして裸で寝たらさぞや最高だろうな」
「それはまた猟奇的なことで」
馬をつぶさぬよう気を使いながら、走って走って、走り続けました。
やがて夜が明け始めると、わたしたちは北への街道を曲がり、パナギウム王国の勢力圏を抜ける。
それから森に潜伏して馬と、アンチグラビティ使いのわたしを休ませるという手順を加えることで、北部の山越えという計画は問題なく実現されることになりました。
こうしてパナギウム王国領の北にそびえる山岳地帯に逃げ込めば、そこは山の民くらいしか住み着かぬ辺境となります。
人口密度が極端に低いために、王国としては領土化するメリットが無い場所、とでも言えばわかりやすいでしょうか。
道こそ悪いですが安全な道を、わたしたちは休憩を繰り返しつつ大地の傷痕目指してひた進みました。
●◎(ΦωΦ)◎●
こうしてわたしたちは、大山岳地帯によりギガスラインが途絶えている辺りを狙い、まんまと魔界の森に入り込みました。
「うっ……。すみません、さすがに限界です……もうマジックアロー1発すら放てませんよ……」
そこでわたしは魔力を使い果たしてしまっていました。
馬もまただいぶ消耗していたので、もう歩きに変えるしかありません。
「ありがとうエレクトラム、最高の大冒険、まさに大いなる逃亡だったよ。まさかパナギウム北部の山岳地帯を馬で越えて、ギガスラインをすり抜けるなんて……」
「フフ、お姫様にそう言っていただけると光栄です。このルートは昔よく使ったものでしてね、わたしがもしパナギウムの将軍だったら、あの辺りに砦を建てさせたいくらいです」
しかしそれをすると金と兵がかかる。
パナギウムという国は、その程度の警備コストすらかけたくないのでしょう。
「キミがもし魔将だったら、さぞうちの国は手を焼いたんだろうな」
「ご冗談を。あいにくわたしは権力に興味がありませんで」
馬を引きながら男装の姫君と共に森を歩く。
長く生きましたが、それにしたって珍しい経験です。
道中何度もモンスターを駆除することになりましたが、そこは割愛しましょう。
ゴブリン、ベア、ジャアイアントビー、ヤドリギウーズの小さな群れと遭遇した程度です。
「さて、この先がキミの国なんだね?」
「いえ人口50にも満たない小さな里です。人間はパナギウム王国の者ばかりです。実はキシリールには隠しておりましたが、元騎士もおります」
「ははは、そいつはきっと変わり者だね。まあ今の現状を見れば、騎士を辞めたがる者の気持ちもわかるけど……。危険ばかりの貧乏暮らし、そう聞いてる。だからキシリールみたいなやつには感謝しないとな……」
もうじき隠れ里バニッシュに到着します。
そこでわたしは足を止め、今の会話を振り返りました。
「どうしたネコヒトくん、またモンスターか?」
「わたしたちは逃げることばかりに頭がいっぱいでした。しかしこれは少しまずいですね」
「キミって回りくどいよね。もっと具体的に言ってくれ」
「ええ……ですから、あなたがあなたであることがバレてしまうと、何かと面倒や騒動の発端となる。ここは名と身分を隠すのが無難かと思います」
このままでは真っ先にバーニィが気づく。
パナギウムの姫君がそこにいるとなれば、今さら捨てた忠誠心を取り戻してしまうかもしれない。
ですけどそれは、きっと彼の幸せのためにならない。わたしはそう考えます。
「ハハハッ……不謹慎だけど変な笑いが出てきた。新しい名前、新しい人生か……王族やってた頃は、想像でしか許されなかったな……」
「心中お察しいたします。ですのですみませんが、あちらに着く前に偽りの名と経歴を作りましょう」
「だけどそう言われても、自分の新しい名前なんてそう簡単に出てこないぞ……?」
しかしあくまでその偽名は仮初めのものでしょう。
もしサラサールの地位が揺らぐような事件が起きれば、彼女は玉座を奪い取るために動く。少なくともホルルト司祭などの周りの者がそうさせる。
「そこはほら、キシリールの服を借りたことですし、パナギウム東方の騎士ということにされてはどうでしょう?」
「騎士か、んん……しかし女騎士というのは珍しいし、それはそれで怪しまれないか?」
「それもそうですね。でしたら男性になられてはどうでしょう」
「それは名案――って、ちょっと待ちたまえネコヒトくん! 一国の姫に男のふりをしろって言うのかい?!」
てっきり乗ってくるかと思ったのですが、ハルシオン姫は不平の態度の方を見せました。
騎士様が腰に両手を当てて、勇ましく失礼なネコヒトに文句を言われる姿は、何かと芝居じみて見える。
「その口調からしても、性格からしても、麗しい容姿と長身からしても、この上なく向いているとかと思われますよ」
「ボクはこんなでも女だ! 誤解されてる気がするから言うけど、恋愛の対象も男だからな!」
「おや、そうだったんですか」
「意外そうな反応しないでくれ!」
しかし他にありません。
平民のふりをさせるには無理があります。
逆に貴族令嬢という設定ではバーニィが正体に気づいてしまう。
「とにかくですね、わたしたちはパナギウムの姫をかくまっていると、外部に知られたくないのですよ。ならば男のふりをするのもまあ一興でしょう。……ああ、間違えました、一興ではなく一計でしたね」
あえて付け足すならば、隠れ里の平穏のためにも姫という特別階級は存在してはならない。
バーニィは騎士という地位を捨てた。石工のダンも全てを捨ててやり直すためにここに来た。
彼らにとって、ハルシオン姫は逃げてきた世界の象徴なのです。
「ネコヒトくん! キミはとても良いやつだけどそういうねちっこいところは、これから同じ場所に住む者としてどうかと思うな! 今のは絶対、わざと間違えたんだろっ!」
「フフフ、はて、どうだったでしょうかね。それよりやっと見えてまいりましたよ。さ、わたくしめのお手を……」
彼女もからかうと、バーニィほどではありませんが面白い部分がありますね。
さすがにちょっと怒っていましたが、里への鍵を持つわたしと手が結ばれると、彼女の顔色が驚きに変わっていきました。
「なんだ、これ……色の無い世界……?」
「この猫の陶器が中への鍵となっております。さ、どうぞ中へ……」




