16-5 The great escape. 魔界への大いなる逃亡 - 秋風と裸馬 -
スリープ、それはつくづく便利な力でした。
人道などという甘えた言葉などわたしの辞書にはありません。
ですが殺害という不可逆な解決方法とは異なり、スリープは死体や失踪という結果を残しません。
目覚めた兵はこう考えるでしょう。不覚にも眠気に負けてしまった。上にバレる前に警備に戻ろう、と。
そういうわけです。眠りこける警備兵を尻目に、わたしとハルシオン姫はイブリーズ監獄を走り抜けてゆきました。
「まさかこれ、全部キミがやったのかい?」
「ええそうです。たまたま脱獄に向いた力を持っていたがために、あなたの救出を頼まれてしまいましてね」
「頼もしいな……だけど質問だ、なぜ上に向かっているんだろう?」
「フフフ、それは行けばわかります。わたしを信じて付いて来て下さい」
兵を眠らせて確保した道です、難なくわたしたちはイブリーズ監獄屋上部に到着しました。
絶壁の前に立ち、足下の彼方に揺れる小舟を見つけました。
姫もわたしの目線を追って、退路がその小舟であることを悟ったようです。いえ、同時に青ざめておりました。
「ちょっと待ってくれネコヒトくん……」
「いいえ時間の猶予はありません」
「いや、まさかとは思うんだけど……こ、ここから一緒に湖水に飛び降りろとか、人でなしなことは言わないよな……? 誤解無きように念押ししておくけど、ボクは姫だよっ!?」
「この上なく存じていますよ。ですがご安心を」
ナコトの書を取り出して大判化させました。
真夜中の監獄、その屋上に蝶番の外れる金属音が響き渡る。
「それは魔導書か……しかしそれでどうする?」
「こうするのです、アンチグラビティ。では失礼ハルシオン姫」
「えっ、何を、わぁっ?!」
これは緊急時、ならば失礼にあたりません。
わたしは縦長のお姫様を背中におぶりました。
「魔導書をお願いします。では行きますよ、このまま壁を下りますので、ちゃんとわたしにしがみ付いていて下さいね」
「え……えっえっえっ、ちょ、ちょっと待ってっ?! ボクだってさすがにこういうの……っ、ひっ、ひぃぃぃぃーっ?!」
「騒がないで下さい、気づかれますよ」
「そっちこそ無理を言わないでくれっ、こんなの聞いてないっ、うっ、うわぁぁぁ……っっ」
姫君という大きな荷物を背負って、ネコヒトは要塞の壁を下る。
ハルシオン姫からすれば気が気じゃなかったでしょう。
己よりずっと小さい生き物が己をおぶっている。
その者がいつ力尽きるのやら、不安のあまりかわいらしく震えておりました。
あの褐色の小姓にこの現場を見られたら、わたし叱られてしまうかもしれませんね。
「到着です、では大いなる脱走の始まりといきましょうか」
小舟に到着しました。姫はその上で腰を抜かしております。
王族がするには情けない姿でした。
「ハハハ……もう何が起きてもボクは驚かないよ……。ボクがもし男なら、この暴れ回る胸の心拍を、キミに確認してもらっていたところさ……はぁぁ……っ」
「それは仮に男であったとしても、積極的に遠慮させていただきましょう」
麗しい姫君のざれ言を聞きながら、わたしはイカリを戻して小舟を出発させる。
後は森の教会に案内して、一目散に大地の傷痕目指して逃げるだけ。時間を無駄にしたくありません。
「ふぅ……それでこの後の予定は……?」
「付近の教会に寄り、そこで協力者の手を借ります。退路に問題がないようなら発覚する前に、一気に馬で高飛び、といったところです」
イブリーズ監獄の様子に変化はありません。
静かな湖水に揺られながら、わたしたちは監獄のかがり火から遠ざかってゆく。
ハイドを使っているとはいえ気づかれたら大変です、あそこから矢の雨が降ってくるかもしれません。
「悔しいな、兄殺しの汚名を着せられたまま、ボクは名さえも知らぬ辺境に逃げるのか……。いや違った、名前は聞いていたな。ニャニッシュ、素敵な名前だ」
「バニッシュなのですが……」
「ん、何か言ったかい?」
「いえ、今は捨て置くべき、ささいなことですので……」
思い返せばあの時だったのでしょうか。
議論の結果バニッシュという名でまとまり、安心し切ったわたしはパティアに伝言を頼みました。
伝言ミスが生じるとしたら、そのときの他に考えられません……。
●◎(ΦωΦ)◎●
対岸でキシリールが待っていてくれました。
さすがです。仕事の早いことで、ただの騎士にさせておくには惜しいとさえわたしに思わせました。
「キシリール・メサナと申します。ご無事で何よりでした」
「その顔、どこかで見たことがあるな。すまないねキシリール、ボクや兄がしくじらなかったら、こうはならなかった。今はキミらに謝りたいくらいだ……」
「姫様……ご無事でいて下さっただけで何よりです。今はただ、逃げおおせることだけをお考え下さい」
キシリールは誠実にして堅物です。
膝を突いてこうべをたれ、貴重な時間をムダにしてくれちゃいました。
騎士バーニィ・ゴライアスとはだいぶ性質が異なります。
「そんなことしている場合ではありません。それより首尾はどうでしたか?」
「ああ、退路に問題はない。来るとき使った街道を西へ西へとひた走ろう。だがいずれ早馬に追い抜かれ、道が封鎖されることになるだろう、急いだ方がいいな」
「そうですか。では行きましょう」
わたしは率先して先に進み、その先にある神秘的なようで不気味な森の教会へと彼らをエスコートしました。
●◎(ΦωΦ)◎●
そこでこの時のために体力を温存させた馬を1頭貰い、姫には布の古着を着込ませた。
「馬ならボクも嗜みがある、任せてくれ」
「ではエレクトラム殿はこちらに乗って下さい」
キシリールの馬の背にわたしがまたがると、森を抜けて街道を目指す。
いえその計画は出発してすぐに、森の中にて変更することになりました。
わたしがたづなを勝手に操作して、馬を止めて差し上げたのです。
「何だ、どうしたエレクトラム殿?」
「気が変わりました。キシリール、ここでわたしたちとあなたは別れましょう」
「えっ、そんな、急に何を言うんですか!」
「この先姿を見られれば、あなたに、あなたの親しい者にるいが及びます」
パナギウムはいずれにしろサラサールが支配することになるでしょう。
蒼化病患者の殺害命令を出した宰相も、失脚するか、あるいはサラサールに屈することになる。
「バカな! 俺は騎士です、そんな遠慮はいりません!」
「いやボクも賛成だよ。3人はそれだけ目立つ。ネコヒトくんのハイドの術も、ボクとペアで行動した方が維持が楽だろう」
ハルシオン姫もわかっていらっしゃる、そういうことです。
この先は3人で逃亡する意味がない。
「それはそうかもしれないが……だが、ここまで来て、何の貢献も出来ないなんて! 俺に何かさせて下さい姫!」
「ええそれについてはご安心下さい。キシキシのキシリールさん、あなたにお願いがあります」
「監獄に反転して、攪乱すればいいのか?」
「いいえ、その騎士の服……姫様のと交換してやって下さい」
夜の森の中、それは面白いと麗しい姫君が口元を意地悪に笑わせる。
「な、なんだと……?!」
「なるほどね。騎士なら馬を飛ばして駆け回っていてもおかしくない。なら男くさいだろうけど、そこは我慢するさ」
そういうことです。馬にまたがるならそれ相応の服装が必要でした。
そこはキシリールの服があれば解決します。
「ああそれと、馬は元気なこちらの1頭だけで十分です。わたしがこの子を最高の名馬にしてさしあげましょう」
「ちょっと、冗談でしょう……? 姫様、お考え直し下さいっ」
「悪いけどネコヒトくんに賛成かな。パナギウム王国第三――いや、第二王位継承者として命じる。キシリール、その服をボクに差し出せ!」
「お、俺に、裸で教会に引き返せって言うんですかッ?!」
そこは清廉潔白なキシリールとして辛い部分なのでしょうか。
ですがこれが一番だと思うのですよ、わたしは。
「そこは特別にボクの服を着ていい」
「ちょ、ちょっと姫様っ、それこそ変態じゃないですか!」
「キシリール、時間が惜しいので早く脱いで下さい。今こそあなたの忠誠を見せるところです、腹をくくって下さい」
「秋風が身にしみるせいかな、俺、急に泣けてきました……」
こうしてハルシオン姫は騎士の装束をまとい、わたしと同じ馬にまたがりました。
キシリールはパンツ1枚の半泣きで自分の馬にまたがり、ですが律儀に姫とわたしの再出立を見送って下さいました。
どちらにしろギガスラインの向こう側に彼は行けないのです、ならばここで別れて正解でした。
いつも誤字報告、感想ありがとうございます。
返信が遅れてしまっていて申し訳ありません。
本章の最後に挿し絵回が来ます。




