第一章 砂塵の都 第六話 二人の世界 後編
空中を縦横無尽に飛び交う灰色の猟犬達は次第に速度を増し、時折勢いを殺し切れずに互いに体をぶつけ合っては、金属特有の硬い声を上げ、その身から赤い火花を撒き散らしている。
白い空間が鎖達に線引きされていく中を駆け回りながら、シュウはなんとか現状を打開する術はないかと思考を巡らせていた。
(かなり気が進まないが… ネーリアを無力化させる以外に手はないな…)
呼び出され、この世界に意識を取り込まれた場合、此所から抜け出す方法は余り多くない。というかシュウはその方法を三つしか知らない。
一つは体の方が自然に目覚める事。二つ目は外界から何かしらの強い刺激を加えられる事。もう一つはネーリアがシュウを解放するかのこの三つだ。
一つ目は論外。此所では現実と同じように時が進んで行く以上、自然に目が覚めるなど一体何時間後になるか分からない。その間ネーリアの猛攻を凌ぎ切るなぞ不可能である。
次に二つ目、こっちもこっちで全然当てにならない。部屋に引き上げて寝ている自分を起こす者など朝が来るまで訪れる訳がないし、唯一この時間帯でも自分の部屋を訪ね、娘たちの近頃の態度について相談を持ち掛けてきそうな赤髪の男性は、おそらく今も酒場で狂宴と呼ぶべきいつ終わるやも知れぬ宴を繰り広げている事だろう。
後はベッドから放り出されるぐらいの地震でも起きる事を天に祈るしかないのだが、そうそう都合良くそんなものが起きる訳がない。
三つ目は…もはや考えなくても分かるだろう…。鬼女の如き形相でこちらを射殺さんとばかりに睨み付けながら、次々と鎖を射出させるネーリアが自分を解放するなど到底有り得ない。
よってシュウはネーリアの無力化、つまりはただ単に一発ぶん殴って気絶させるという結論に至ったのだが、これにもまだ問題がある。
際限なく鎖を具現化させ操ってくる彼女に近付くのはかなり難しいという理由もあるのだが…。一番の問題は…。
(全然、根本的な解決にならないって事なんだよな。 いや、むしろ悪化するのか?)
例えばこのままネーリアを張り倒して、彼女が気絶してる内に運良く目を覚ます事が出来たとしよう。しかし、その後に待っているのは怒りを倍加させたネーリアによる報復行動。
日付が変わり、明日にはクエストが控えている現在、そんな状況に陥るというのは冗談抜きで命に関わる事態を引き起こしかねない。
シュウは足元を狙い、薙払うようにして迫ってきた鎖を靴底で踏み倒すと、どうしたものかと思案げにネーリアを見遣った。
視線がかち合った黒き少女はニヤリと笑い、口許を歪めるとシュウに向けていた方の手をくるりと回す。
すると踏み付けた箇所より後の部分が突如盛り上がり、シュウの足に巻き付き動きを封じようと身をもたげ、地を走り出した。
慌てて足元の鎖を蹴り飛ばし、飛びずさったシュウは更に後ろに下がろうとチラリと振り返り後を確認するが…
「…なっ!」
逃げ道はとうに断たれてしまっていた。
いつの間にか鎖が後方から左右数十mに渡り歪な格子状に並び立ち、半円を描くようにしてシュウを取り囲んでしまっている。
どうやらネーリアは無計画に鎖を放っていたのではなく、彼の意識を自らが操る鎖に釘付けにさせ、気付かれぬようにこの牢獄を完成させていたらしい。
これでシュウは後ろにも左右にも逃れることは出来なくなった。唯一、開けた前方に存在する黒い祭壇に陣取り、ニヤニヤとお世辞にも上品とは言えない意地の悪い笑みを浮かべる少女を見据えたシュウはとうとう後がなくなった状況に覚悟を決めたらしく、先程考えていた事を実行する事に決めた。
今の彼の思考を占めるのはただ一つ、それは…
(許せよ、ネーリア。男の×××××(…検閲削除)なんて恐ろしいものをこの世に顕現させる訳にはいかないんだ )
加えて言えば主演が俺なんて笑えなさ過ぎる、という自分がネーリアにした事や交わした約束を棚上げにした、完璧に己の保身に走った最低のものである。
「どうやら覚悟を決めたようじゃの」
何かを決意し顔付き変えたシュウの様子をネーリアは別の意味に捉えたらしく、うんうんと満足気に頷き、彼の恐怖を煽ろうとしているのか、鎖をジャラジャラとこれみよがしに打ち鳴らした。
…この余計な行動が彼女にとって命取りになった。
ネーリアは自らが圧倒的に有利な立場にいる為か、完全に失念していた。
追い詰められたシュウの往生際の悪さとしぶとさは台所に現われる太古から生き延びてきた黒い節足動物以上だという事を…
ッダン!!
辺りに響き渡る炸裂音にネーリアは悦に入り、これからどんな風にシュウを責めてやるかと呆けていた思考を中断させられる。
音の方、さっきまで立っていた場所へと注意を向けるとシュウの姿は忽然と消えてしまっていた。
「っ!? 何処に消えおった!」
ネーリアは慌てて周囲を見回すが彼の姿は影も形も存在しない。
もしかしたら体の方が目覚め帰ってしまったのかと狼狽したネーリアは今、シュウの意識がどんな状態にあるのかを探る為に感覚を研ぎ澄ませ始めた。
(くぅっ! ここまできて取り逃がす訳に…は…?)
彼女の感覚はまだシュウの意識が現実世界へと浮上しておらず、まだこの世界に留まっている事を告げている。
だったら何処に…と改めてシュウの姿を探そうと視線を動かした瞬間、
ストンと気が抜けるような音ともに…。
「ふぇ?」
ネーリアの目の前へと…。
「何とか成功したみたいだな」
黒い固まりがそんな台詞を吐きながら降ってきた。
「シュ、シュウ、お主どうやって…」
どのようにして姿を隠し、自分の元に辿り着いたのか皆目検討がつかないネーリアはシュウに問うが、彼は何も答えず、指先で上を指差しながらニヤニヤと笑っている。
つられるようにして天井の方を見上げたネーリアはそこに存在してる物を確認し、シュウがどうやって自分に接近したのかを悟り、愕然とする。
「気付いたか? 上にある鎖を伝って来たんだよ」
シュウは逃げ回りながらある事に気付いていた。ネーリアはやたらめったに鎖を具現化し飛ばしたり、操ってくるが動き出した鎖達はどれも生み出した量に合わないごく限られた量である事に。(それでもかなりの数だったが…)
シュウはおそらくネーリアは視認出来る範囲に存在する鎖しか操れない、また知覚出来ないのではないかと推測し、一つ賭けに出る事にした。
彼女が自分の勝利を確信しシュウから気を逸した瞬間、契約によって得た力をフルに使い、思いきっり跳躍して上方にある鎖に跳び乗ったのである。
もし、ここでシュウの読みが外れ、視認出来ない鎖にも感覚みたいなものが通っていたならば、一発でネーリアにバレて作戦は終ってしまっていただろう。
しかし事は彼の思い通りに進んだ。見事、自分を見失い狼狽える少女を尻目にシュウは頭上に浮かぶ彼女が怒り任せに余分に具現化させた鎖を軽業師のように伝い、眼前へと飛び降りたのである。
「済まないがしばらく眠って貰うぞ」
何としてでも罰を回避したいシュウはそう言うと軽く腕に力を込め、彼女の体に当て身を喰らわそうと構えた。
ネーリアはそんな危機的状況にも関わらず無言で俯き、全く動こうしない。彼女も分かっているのだろう。
ここまでシュウに接近を許してしまった以上、自分が何か行動を起こす前に彼の一撃が届く方が早い事に。
彼はいつもの調子なら狡いと喚き起て、色々と罵りの声をぶつけてきそうなネーリアが黙り込んでいる事に怪訝な表現を浮かべる。
(まぁいいか、ギャアギャア騒がれるよりマシだしな)
シュウは逆に好都合と疑問を放り投げると後ろ引いた右手を突き出し、ネーリアの鳩尾目掛けて軽く掌底を放つ。
それが寸分狂わず狙った場所に吸い込まれる寸前、シュウの手に温かいものが降り注いだ。
手に残るその感触に何を思ったかシュウはネーリアに触れるか触れないかのギリギリの位置で手を止める。
そして目を見開き少女を見つめる彼の顔には呆然とした表情が貼り付いていた。
何故ならば…
「嘘…つき…、シュウの、ちゃんと約束…したのに…」
ネーリアは泣いてしまっていたからだ…。
ネーリアはいつも一人だった。
少女が自分が自分である事を認識した時、最初に目に入ったのは崩れた天井から差し込む月の光であった。
光に照らされるかつては意匠が施され整然とした輝きを放っていた痕跡が僅かに垣間見える倒れかけた柱達。
そこかしこに元がなんであったか解らないほどに砕け積み上がる瓦礫。そんな廃墟同然の打ち捨てられた遺跡の一画で少女は目覚めた。
自分が何故こんな場所にいるのか?
この身は何者であるのか?
数万、数十万という月と太陽の移り変わりの中で己の内でそんな問いを繰り返したが、答えを得る事は出来なかった。
長い長い年月をそこで過ごした。何も変わり映えなく、ボロボロな物が転がる風景に多少は退屈はしたが不思議と寂しくはなかった。
それは少女が本当の意味で“他者”を知らなかったからであろう。
自分以外の“誰か”という存在がを心に何をもたらしてくれるかという事を…。
ある時、何かの気配が近付いて来るのが解った。しばらくしてその者達はネーリアの元へと辿り着く。
三人、それぞれ剣や杖を構え鎧を着込んだ者達。
そして、他の三人とは気色が違う軽装で頼りなさそうに見える冴えない男。
ネーリアは自分の中に残る記憶とは違う“知識”と照らし合わせ、どうやら人間という者達らしいと当たりをつける。
一人違う服装の男を他の連中は学者先生と呼び、その者はネーリアを見つけると小躍りするように喜んだ。
三人に指示を出し、ネーリアを遺跡から運び出すとある場所に連れていった。その道中、自分の他に意思ある存在に初めて出会えた少女は何度も声を発したが誰にも声は届かなった。
そして目的の場所に着くと入れ替わり人が現われ、ネーリアを調べ始めたが一つ一つの調査が終わるにつれ落胆した表情でネーリアを見る。
勝手に連れ出して変な物で調べられた挙句、そんな顔される筋合いはないと文句を言いたくなるが、その中で色々と指示をだしていた老人がボソボソと保管庫行きだなと呟き、すると数人がネーリアを運び出して、ある部屋と持っていった。
そこはかなり広く用途不明の怪しい道具やもはや機能を果たさないほどに壊れかけた武具やらがゴチャゴチャと置かれた雑多な部屋だった。
彼らはそこにネーリアを放り込むと足早にに去って行く。
また幾年かの月日が流れ始める。
時々、彼らが彼女と同じように何かしらの物を此所に置きに来る事はあったが、それ以外には人が訪れる事はなかった。
最初の内は見える景色が変わっただけでもマシな方だと考えていたネーリアだが、稀に此所を訪れる者達が楽しそうに笑い合い、今日の予定や馬鹿話に華を咲かしているのを見ているとある疑問が浮かぶ。
――何故、自分には誰も…。
ネーリアはその先を考えるのを止めた。その後の言葉に付随する感情を自覚してしまったら何か取り返しのつかない事になると感じたからだ。
己の思考に埋没しそうになる度に浮かび上がるその疑問を打ち消す為に彼女は歌を歌った。
知識の中にだけに有る、特に思い出も感慨もない歌であったが、何処か懐かしい気分にさせるその旋律に身を委ねている間だけは心に燻る得体の知れない感情を忘れる事が出来たからだ。
―そして幾許かの時が経ち、二人は出会った。
―…この歌、まさかこの剣から聞こえてるのか?
何時からだろう。一人でいる事がこんなに怖くなったのは…。
何時からだろう。一人でいる事がこんなに寂しいと思うようになったのは…。
何時からだろう。こんなにも自分が弱いと感じるようになったのは…。
全ては彼と出会ったあの日からではなかったのか…。
ネーリアはシュウが昼の約束を守らないとはっきりと宣言し、罰に対して憤慨した時に思ってしまった。
もしかしたら、あの夜に荒野で交わした、
―我を…おいていかないでくれ―
あの約束もこんな風に破ってしまうのではないかと。彼女にとって約束という言葉はあの時以来、今までとは違う重みを持った言葉になってしまっていた。
悲しそうにしゃくり上げながら、涙をこぼすネーリアにシュウは彼女の胸元にある手を下げる。
「ひっく、…お主…にとって我との…約…束、…約束な…んて、どうでも…どうで…も」
約束という言葉を何度も繰り返すネーリアに何かを察したのか、シュウは顔を歪め自分自身に舌打ちをすると沈痛な表情になり、両手で溢れる涙を堪えようとする少女を見下ろした。
(…全く自分の阿呆さ加減が嫌になる)
シュウはそう言葉を自分に掃き捨てると、泣きじゃくるネーリアに手を伸ばした。
「うぇえ?」
そして、ネーリアを横抱きにすると振り返り後ろにある黒き石碑に背中を預け、腰を降ろすと膝に座る少女を見つめる。
一方のネーリアはキョトンとした様子でシュウを見遣るが、彼は困ったような、それでいて少女を労るような優しげな微笑を浮かべていた。
その顔見たネーリアは安心したように強張った体から力を抜くとシュウに身を預け、胸元に顔を寄せると静かに嗚咽を漏らし始める。
「あの…な、ネーリア。あーその、何だ、あの罰ゲームというか約束に関してなんだがちゃんと度をわきまえてくれるなら、別に受けてやっても良いと今なら思ったりも…」
今までの自分の言動と行動を顧みて罪悪感が募ってきたシュウは彼女にそう進言するが…。
「………」
ネーリアは彼の胸に顔を埋め黙ったままだ。静寂が満ちた閉ざされた白い部屋にシュウの声が続いてゆく。
「何なら鎖で縛り上げて魔法の的に…」
「…よい。もっと別の事をさせる事にするのじゃ」
取り留めなく言葉を紡いでいたシュウの耳に急にネーリアの声が聞こえてくる。
別の事ってまさかアレ以上のっ! と微妙に顔を引きつらせるシュウだが、そんな彼の心境とは裏腹に彼女の願いはとてもささやかなものであった。
恥ずかしそうにゴニョゴニョと呟き、上目使いにシュウを見上げるネーリアは、
「……シュウ、頭を撫でて、抱きしめてはくれぬか?」
ととんでもない事を宣った。
「………何だって?」
ネーリアが放った言葉が理解出来ない、もとい理解したくないのか、シュウはもう一度聞き直す。
我儘で無駄に強気で意地っ張りなこいつがそんな甘えるような事を言うか、いや有り得ないとシュウは数年来築いてきた人物像を真正面からぶち壊す様な台詞を吐いたネーリアをうろんげに見る。
「っ!! じゃから頭を撫でて、抱き締めよと言っておるのじゃっ! 」
しかし、膝に座る彼女は顔どころか体全部を真っ赤に染め上げ、先程と同じ事を言う。
今にもまだそこら中に存在する鎖をけしかけてきそうな剣幕でガーッと吠え立てるネーリアにシュウは慌てて、彼女の言う通りに抱き締めようとするが…。
「うぬぅ…」
と変な声を出して、ネーリアの肩に右手をかけた状態で固まってしまう。
「どうしたのじゃ? 早くせぬか」
「いや、いきなりやれと言われてもな。正直、かなり小っ恥ずかしいんだが…」
さっきネーリアを急に抱き上げたり、今も膝元に座らせているという状況の方が余程恥かしいと思うのだが、改めて意識的に行動を起こすというのはやはり違うものらしく、シュウの顔には薄く朱が差してしまっている。
そんな彼の滅多に見れない珍しい表情にネーリアは益々、自分がさせようとしている事を意識してしまったのか更に顔を赤くし俯き、シュウに何事か呟き始める。
「お主に、身を預けた時、その、妙に心地よかったんじゃよ…。じゃから抱き締めれたら…どんな感じかと思っての」
ネーリアの告白に、そう言えば少女姿の彼女とこれ程までに身体を寄せあったのは初めてだという事に思い至ったシュウの頭にある答えが浮かぶ。
(うーん、あれか? 子供が親に抱っこをせがむのと同じ心境なのか…)
見掛け通りにある意味幼い彼女の心を鑑みて、そう結論を自分の中でつけたシュウは先程までの煩悶とした様とは打って変わって落ち着いた様子で苦笑を漏らすと、優しくネーリアを抱き締めた。
「むっ」
急な彼の行動に少女は抗議の声を上げるが、ゆったりとした手付きで頭を撫でられ、髪を梳かれるにつれ、目を瞑りシュウの胸に顔を埋める。
しばらくの間、穏やかな時間が白き世界に流れる。シュウいい加減に手が疲れてきたのかネーリアに声を掛けた。
「そろそろいいか? もう十分だろ」
「………」
「? おーい、ネーリアさん。そろそろ腕がヤバいんだが…」
返事を返さないネーリアをシュウは覗き込むようにして見ると、彼女は可愛らしい寝息を起てながら寝てしまっていた。
普段は睡眠を必要とせず、気紛れ程度にしか寝ようとしないネーリアだが、シュウに抱き締められ、頭を撫でられるのが余程気持ち良かったのか、ムニャムニャと口を動かしながら彼の胸に貼り付いている。
しょうがない奴だとネーリアの寝顔を見ながら溜息を吐くシュウだがある事に気付き、顔を引きつらせ呟く。
「…まさか、一人朝までこのままの状態でいろと?」
だったらネーリアをさっさと起こしてしまえばいいだけであるのだが、今の彼女の顔を見てしまった以上、無理矢理起こしてしまうのは余りにもしのびなさ過ぎる。
シュウは諦めたように真っ白いキャンバスを当て嵌めたかのような殺風景な天井を見上げ、更に深く石碑に身をもたせ掛ける。
いつの間にか空中に張りめぐされていた鎖は消えてしまっていた。
彼と彼女しかいない閑寂の世界。
そのもの悲しげな世界には二人のどこまでも優しい時間が流れてゆく…。
「やっぱ朝までは勘弁してくれ」
「ふあぇ?」
流れている筈だ……多分。
【六話 完】
六話全て完成しました。みるとやはり表現の使い回しが多いですね、自分…。
あー、もっと精進しなければ…。