第六話
まさか、そんなことを言い出すとは思わなかった。
アベラール殿下に振り回された後。
弟の侍従から時間が取れたとの連絡があった。
弟はいま私室に下がっているという。やれやれこれで、あちらに戻れると知らずため息がこぼれた。
アベラール殿下と縁が切れると、安堵した分もいくらか、ある。
殿下には何も言わずにここを離れるけれど……まさかわたしの行方をカイトに問い詰めたりはしない、よね?多少の不安が胸を掠めたけど、それには目を瞑る事にする。弟たちがなんとかしてくれると思いたい。
弟の部屋に行ってみると、そこには下の弟も、そして妹もそろっていた。 まるで待ちかまえていたみたいだ。
そこはかとなく嫌な予感がする。それを振り払うようにわざと明るい声をあげた。
「どうしたの、みんな揃っちゃって。わたしの見送り、とか?やだなあ、帰る前にはちゃんと皆のところに顔を出すつもりだったよ?」
弟妹たちの顔を見回して言うと、ソファに足を組んで腰掛けていた弟は、秀麗な顔に笑みを浮かべ、どうぞと許可証を差し出した。ちょっとわたしの言ったことに何か応えてよと思う。
何だろうなあと首を傾げながらも、何の疑いもなく受け取ろうとして……指が空を切る。
アレクシオスがすいと手を引き、持っていた許可証をカイトとエルミナに手渡したからだ。
「え、ちょっとなんで?」
当然の疑問だ。くれるというものを何故取り上げる。
それなのに、アレクシオスは口元に薄い笑みを浮かべて、これみよがしに手に持った許可証をひらひらと振った。口元は笑っているのに、目がちっとも笑っていない。
だからその顔は怖いからやめろって言ってるのに。
嫌な予感が的中したみたいだ。弟がそんな顔をする時、碌な事を言いださないのを知っていた。
優しげな……虫も殺さないような顔をして一番えげつない言動をするのは、この弟だったからだ。
一旦敵とみなせば容赦なく弱いところを抉ってくるし、涼しい顔で傷口に塩をぬりこんでくる。二度と歯向かわないように磨り潰すがごとくに徹底的に叩きつぶす。
先王が病に伏し、またぞろ碌でもない権力争いが起きそうだった頃。
自分の娘と結婚させて、子でも生まれれば大きな力を得られるとでも勘違いした莫迦者たちがいた。
弟の、大人しそうな雰囲気に騙されて、組みし易いと思ったんだろうけど、全部綺麗に返り討ちにされていたっけ。少しでも弟を知っているなら恐ろしくて出来ない行動だった。
少なくとも自分や、奥宮で働いている者や、弟の近くに居る者は間違ってもやらない。
見た目だけは年若いお嬢さんたちが憧れるような、繊細な“王子様”いや、今では“国王様”か……なのに、お腹の中はどこの策士かと思うくらい真っ黒だ。文武でいえば武に傾く下の弟よりも、色んな意味で容赦がないのはこの弟だった。
「これをお渡しするにあたって、条件があります、と言いましたよね」
「そういえば言ってたよね。で、なに条件って。わたしに出来る事なのかな」
もちろんです、と弟は素晴らしい笑顔を浮かべるけれど。
うわあと内心呻いてしまった。出来る事なら逃げ出したい、今すぐにでも。助けを求めるようにカイトとエルミナを見やっても、これまたいい笑顔が返って来る。
誰も助けてはくれないとみえる。仕方ないと諦めのため息を零して、再び弟に視線を向けた。
何、簡単なことですよとアレクシオスは言った。
「ねえ、兄上。ちょっとした遊びをしませんか」
それから続けられた言葉に、目を丸くしてしまった。
許可証は三枚。私たち一人ずつが持っています。
これから私たちは隠れますから、兄上は探して下さいね。
小さい頃よくやったかくれんぼをしましょう。
兄上が鬼ですよ。ただし、私たちを見つけても、簡単にこれが貰えるとは思わないで下さいね。
ああ、王宮全体では広すぎますから、私たちが隠れるのはこの奥宮だけですよ。
それでは、急いで探して下さいね。早く見つけないと、今日中に出発できませんよ?
それでは……また後ほど。
シュリが茫然としている間に、自分の言いたい事だけ言って、弟は立ち上がり部屋から出て行った。
気付くとカイトとエルミナの姿も消えている。早速隠れにいったらしい。
「何が遊びだよ……」
がくりと項垂れて、誰も居なくなった部屋で呟いた。皆忙しいはずなのに、何をやっているんだと呆れてしまう。宰相あたりに知られたら、文句を言われるのは自分なのにと。
弟妹たちが何かを仕出かせば、ちゃんと手綱を取っていてくれよとどやされるのだが……何故自分が責められるのか未だに腑に落ちない。
それに手綱って一体……自分の弟妹たちは馬か何かか?馬だとしたら暴れ馬に違いないが。もしくは人に懐かない気難しい馬か。
そこまでつらつら考えて、まだ宰相に挨拶をしていなかったことを思い出した。
一瞬、黙ったままここを離れようかと思ってしまう。弟たちと違った意味で、厄介な相手だった。
自分の事をどこまで知られているのか些か疑問を持っているけれど……それでも弟たちの不利になる事だけはしない相手だと信頼もしている。
付き合いも長いし、自分にもよくしてくれた相手だから、やはり最後にきちんと会うべきだろうと思った。
弟の部屋を出て行きかけて、ふと振り返る。誰も居なくなった部屋。そこに一人残された自分。
甘いなあとほろ苦く笑う。何だかんだ言いながら、自分が後を追って来るものと弟妹たちは疑いもしない。
実のところ、ひっそりと此処を去るのも可能ではあったのだ。許可証についても手だてはあった。アリスやアレスの言ったようなものよりも、穏便な手段が。
ただ、弟妹たちの気持ちを考えて、黙ってここを出て行くのはやめにしておこうと思う。
こうして“遊ぶ”のもこれが最後なのだから。かくれんぼなんて何年振りだろうか。
「さて、あいつらどこに行ったかなあ……」
幾つか“隠れ場所候補”を頭に思い浮かべながら、今度こそ振り返らずに部屋を後にしたのだった。
弟たちを探す前に宰相に会おうと、王宮内にある宰相の執務室の方へと出向く。取り次いでもらうとさほど待たされる事もなく中へと通された。
他の人たちは席を外しているようで、部屋の中には宰相本人しかいなかった。
書類や本や、雑多なものが積みあげられた部屋の中に、大きな机が据えられている。大きな手で書類にペンを走らせていた宰相が、書類に何やら書きつけた後、顔をあげてこちらを見た。
「おう、どうした。お前さんがこっちに顔を出すなんざ珍しいな」
物言いから仕草から、またがっしりとして逞しい体格から……豪放な男は宰相という職よりも将軍職の方が余程似合っているように見える。先王の幼馴染で、またシュリの母の事もよく知っていた。それだからか、シュリのことをまるで親戚の子どものように構いつけてくる。
宰相という職につく前、離宮で暮らす母や自分のもとに、王の使者として訪れていたのはこの男だった。幼い頃から知られているだけに、気安いのと同じくらい……少し怖い。
生半可な嘘や誤魔化しは見通されてしまいそうで。
そうですかと惚けたふうに肩を竦めてみせたあと、実は、と切り出した。用件は早く終わらせるに限る。
「慌ただしいのも一段落したみたいだから、しばらく領地の方へ戻るつもりです。だから挨拶に来たんですよ」
ふん、と宰相は鼻を鳴らす。シュリの言い分を疑わしいとでも言いたげだった。
「ふうん?誰にも一言も告げずに、ふらふらどこぞへ行く奴が挨拶ねえ」
「そうでしたか?いやだなあ、わたしも礼儀くらいは知っているつもりですよ?一度領地の方へ戻れば、ここへは当分顔を出せませんからね」
にこりと駄目押しの笑顔を見せても、付き合いの長い分簡単に誤魔化されてはくれない。何処までも胡散臭げにシュリを見つめていたが、ふいに太い息を吐き出して、まあいいさと口元を歪めた。
「お前さんが何を考えているかは知らんが、好きにしたらいい。離宮に比べたらどうしてもここは肩苦しいからな……窮屈だったろう」
「思ったよりは居心地はよかったですよ。でもそろそろ領地も気になりますからね、ここらでお暇させてもらいますよ」
わたしがいつまでも居るのは、要らぬ火種でしょう?そう言えば宰相はがりがりと頭をかいた。
自分がここで暮らすようになった経緯を思い出しているのだろう。あの頃とは状況も違うから、今更自分を担ぎ出してくるようなモノ好きがいるとは思えないが……それでも不安の目は摘んでおくに限る。
宰相は、彼にしては不似合いな、苦い笑みを浮かべた。
「まったく……今更言っても仕方ないが、初めからここで暮らしてくれていれば、そんな厄介な立場にならずに済んだのに。お前さんの母親がああまで頑固でなけりゃあな……あれは、ちゃんとお前さんも母親も守りきるつもりでいたぞ?」
「それこそ今更でしょう。わたしは自分の立場をそうまで厄介とは思っていませんよ。まあ多少面倒だとは思いますが」
「もと王族ってのを“面倒”と言い切るのはお前さんくらいなもんだよ。あれは鬱陶しいくらい嘆いていたぞ?なんでも臣下に下るのを許してくれなけりゃ出奔するとか言ったんだって?母親と同じような事を言いやがって……まあ、またそのうち顔を見せろよ。あんまり来なけりゃ、お前さんの弟妹たちが領地の方に押し掛けるぞ」
それは宰相の本音でもあった。年に似合わず、いつも冷静な即位したばかりの王にしても、その弟妹たちにしても……彼らの兄が長く不在である時はいつも落ち着きがなくなる。王はどこか神経を尖らせているし、その弟は言動が荒々しくなるし、妹姫は行動に落ち着きがなく、また脈絡がない。
彼らにしてもあからさまに周りに当たり散らしたりとか声を荒げたりするわけではないが……近くで仕えていれば分かってしまうものだった。
公の場には出ない先王の長子は、たとえばこの国のたいていの貴族や官僚たちにとっては、居ても居なくても変わらない存在なのだろう。
けれど、生活の場である奥宮で働くものにとっては、無くてはならない存在といえた。主に国王兄妹の精神安定をはかる存在として。
また自分をあくまでも臣下に下った身であるからと言って、過分な世話を断っている彼を、歯がゆく思う者も大勢いた。奥向きを取り仕切る女官に零されたこともある。
お立場はわかりますが、もう少し私たちを頼りにしていただけないものかと、悔しく思います、と。
あまりに自分を軽く見ていると言いたかったらしい。それには宰相も同意だった。
さて、またあいつらの落ち着きがなくなるし、傍に居る方も大変だなあと内心で思っていた。宰相自身は、それなりに対処方法を知っているので、逆にからかう余裕もあるのだが。
「まあその辺りは……いずれは取り紛れてしまいますよ。ま、またそのうちに」
いい加減お年なんですから、お体には気をつけて下さいねと言えば、宰相は、お前らの父親よりは若いんだぞと反論してきたのだった。
「えと、父上より年上だと思っていましたが」
「あいつの方が年は上だったっ」
「ちなみにいかほど」
「……一歳」
「変わらないじゃないですか」
「一歳でも若い事には変わりない!」