第三話
シュリが使っている部屋は、弟妹たちが暮らす場所から少し離れた棟にある。そこまで戻る途中、護衛兼侍従のアレスが何やらもの言いたげな顔をしていたけど、今は話す気分になれなかった。
無言のまま部屋に着き、アレスが開けてくれた扉から中に入る。
「シュリさま、お帰りなさいませ!お疲れ様でございました。……あらアンタもいたの」
にこやかに出迎えたのは、侍女のアリスだ。
ただし最後の言葉はアレスに向けられている。
シュリが治める領地でも侍女をしていた彼女は、王宮へもついてきてくれたのだ。それは護衛兼侍従のアレスも同じ。
二人とも年はシュリより五つ六つ年下で、あれこれよく気がつくのだけど。シュリもとても信頼しているのだけど。
これ、どうにかならないのかなあ。ならないよなあ。何年もこれだもの。
「いて悪いのか。僕はシュリさまの護衛なんだから、居るのが当然だろう。というか、何締めだそうとしてるんだっ」
ちっ、とアリスは舌打ちをして扉から手を離す。そう、シュリが部屋に入ったあと、アリスはすかさず扉を閉めようとしたのだ。それは不機嫌な顔をしたアレスにあっさり阻まれてしまったが。
「ところでシュリさま、お茶でも飲まれますか?それともお湯を使ってすぐおやすみになられますか?」
アリスは一転にこやかな顔で尋ねてくる。
うん、この二人の仲の悪さには慣れてるけど……なんでだろうねえ。
しみじみ不思議だ。仲が悪いならお互い傍に寄らなきゃいいのにとこっそり思ってしまうから。
二人ともそれぞれいい子なのになあ。
アリスとアレス。名前もよく似た二人は、顔かたちもよく似ていて、兄妹かと思われがちだったが。
実のところ、従姉弟どうしなのだった。
「あ~……ちょっと二人に話があるから、お茶、いれてくれるかな?」
夜も遅いが、取りあえず二人には今日の顛末を話さねばと思う。すぐにアリスが三人分のお茶をいれてくれて、居間のソファで向かい合って腰掛ける。
一応主と使用人と言う立場だけど、家族のような間柄だったりするので、他人の目がない時は、こうして同じテーブルを囲んでいた。
シュリの向かいにアリスとアレスは腰掛けている。不自然なほど間を空けて。
お茶を一口飲んで、実はねとシュリは切り出した。
「実はね、明日出発するの、無理になったんだよ」
予定が狂っちゃったと肩を竦めてみせると、
「それはまたどうしてですか」とアレスが尋ねる。
「許可証出してくれなかったから。まあほら、皆忙しいでしょ?そこを“一抜けた”ってされるのが、嫌なんじゃいかなあ?」
「あら~殿下たちも心が狭くていらっしゃいますね。……アレス、許可証持ち出して来なさいよ。簡単に取って来れるでしょう?」
「シュリさま、この女の言い分に従うわけではありませんが、お望みなら持ち出して来ますが。そうすれば明日にはここを発てます」
そうしましょう、それがいいでしょうと言わんばかりの顔を向けられ、シュリはげっそりとため息をつく。
何でこういう時は息があうのと言いたい。
「いや~……出来るのは知ってるけど、それはやめておこうよ。ええと、明後日には許可証くれるっていうからさ、強行突破しなくても穏便に行こうね、いいね?」
念押ししても、二人はどこか不満そうだ。
シュリがここでの生活が窮屈だった以上に、二人は馴染めなかったのだろう。明日にはここから離れられると思っていたところへ、急に延期されたのだ。気持ちはわからないでもなかった。
不承不承二人は頷いた。ひとまずは“国王の兄、許可証を盗み出して出奔!”などの騒ぎにはならないようで、何よりだと胸をなでおろす。ですが、とアレスは何かを考える仕草で口を開いた。
「ですが、これまでシュリさまが発たれる時は、大抵突然でしたよね。それでも許可証はすぐに出していただけたはずです。今回に限って何故」
「だから、それはさ」
「いえ、殿下たちもシュリさまのご事情はおわかりのはずですよね。さっきはつい頭に血が上りましたけど、よくよく考えたら敢えて引き留めるような真似はなさらない筈。何かあったのではないでしょうか」
「何かって……?」
シュリは首を傾げた。ここのところ弟たちに変わった様子はなかったし、恙無く即位式もその後の宴も終わった。まあ宴の前に妙なひとに絡まれたけど、大勢の人で溢れかえっていた広間では顔を合わせる事がなく、それには胸を撫で下ろした。
即位式には出られないと言った自分に対し、弟は、ならば宴の方には顔を出して下さいねと笑顔で圧力をかけてきたのだ。
妹の婚約披露もあります、居て下さるだけでいいのでと言われ、頷くしかなかったのだ。
着なれない盛装に身を包み、会場の隅で人波の向こうから弟妹たちを眺めていた。
豪奢な衣装に身をつつみ、秀麗な顔に笑顔を浮かべ他国の外交官や貴族、王族と会話をする即位したばかりの弟。その下の弟も親しみやすいおおらかな笑顔で招待した自国や他国の貴族と話をしている。
他国の王子と婚約したばかりの妹は、初々しい輝くような笑顔で、婚約者とともに踊っていた。
それを眺めながら、本当によかったと思っていたのだ。
もう弟たちは大丈夫だと。
宴に出るの、面倒だと思ってたけど、これを見られたからよかったなあ。皆立派になったよなあ。
シュリは壁際の椅子に腰かけて、給仕されたワインを舐めるように飲んでいた。人々の視線は即位したばかりの年若い国王と、その弟妹に向けられている。会場の隅の壁際で、一人ワインを飲んでいるのが、彼らの兄とは思ってもいないのだろう。宴にはあまり高位でない貴族も招かれているから、それらの内の一人だと思われているに違いなかった。
それでいいとシュリはこっそり笑った。
そして空になったグラスを近くのテーブルに置くと、密かに会場を後にしたのだ。
草臥れて帰って来るはずの弟妹のために、お茶の準備でもしていようと思って。
「別に何も思い当たらないけど……」
シュリの言葉は勢いよく開いた扉の音で遮られた。
「はあい、夜遅くにごめんなさいねえ。シュリ居るかしら?」
嵐のように飛び込んできたのは、王宮づき魔術師のミマナだった。
「ミマナさま、ちゃんとノックくらいして下さいませ」
アリスが棘だらけの声で言っても、ミマナは気にしたふうもなく、
「あ、お茶飲んでるの?あたしにも頂戴っ」
とちゃっかり強請っている。シュリの隣に腰を下ろし、お茶請けの焼き菓子をさっそく摘んでいた。アリスのこめかみが引き攣っているのを目にして、シュリはこっそり頭を抱えた。
何故かアリスとミマナは仲がよろしくない。というか、アリスがミマナを毛嫌いしているように見える。
この空気なに、居たたまれない……っ。
アレスも引き攣った顔で、従妹と魔術師の様子を固唾を飲んで見守っていた。
アレス、お願いだからこんなときに盾になってよう。そこで見守ってないで!
目で訴えてみても、アレスは顔色を悪くして首を振る。
いわく、女同士の争いに嘴を突っ込むほど命知らずじゃありません、と。
緊迫する空気を打ち破ったのは、ふ、と吐き出されたため息だった。
「……お茶を淹れ直してまいります」
アリスは一旦茶器を回収すると、居間を出て行った。やれやれ、激突は避けられたかとため息をついた。
アリスの後姿が見えなくなった頃、シュリはミマナに文句を言う。
「ミマナさま、あんまりアリスを挑発しないで下さいよ」
「んんん?ふふふ、だって可愛いじゃない。突っつきがいがあるっていうか~」
「ミマナさまの趣味はともかくも、ブリザードに晒される気分を味わいたくはないので。ほんと、勘弁して下さいね」
「わかったわよ、ほどほどにしてあげる。ん、ほんとこのお菓子美味しいわ。あんたも食べる?」
「わたしは遠慮します。ああ、アリス、ありがとう」
そこへアリスが新しいお茶をもってやって来た。笑顔で受け取るとアリスも笑顔を返したけれど。
ミマナに渡す時は一転、無表情の顔になるものだから、その落差がなんとも言えなかった。
「ん、お茶も美味しいわ~。ああ今日もほんと疲れたわ~。ルシュドってば何でこんな日程組んだのかしら。ああ忙しかった」
ルシュド、というのは宰相の名前だ。宰相という職よりも将軍の職が似合いそうな、男である。
父に仕えそして今度は弟に仕える事になるルシュドは、豪放磊落な物言いの半面、とても緻密な仕事をする事でも知られているのだが。
ここでも何かあったのかなとシュリは首を傾げる。
そして魔術師が焼き菓子を口に放り込み、お茶を飲んで一息ついたのを見計らって、尋ねた。
「ええとミマナさま、何か御用ですか?お茶を飲みにいらしたわけでは、ないんでしょう?」
するとミマナはぽん、と手を打ち、そうよそうよ、そうだったわ~と呟いて、シュリに笑いかけた。
「ここから出ようとしても、許可、出なかったんじゃない?」
何故それをと目を丸くするシュリに、どこか得意げに胸をはり、ミマナは答えた。
「だって、殿下……じゃない、陛下に、あたしが言ったんだもの。“兄上を簡単に帰しちゃ駄目よ”って」
「って、元凶、ミマナさまですか~~!」
「元凶ってなにそれ、ひど~い」
「ひど~い、じゃ、ありませんよっ。ミマナさまが余計なこと言わなかったら、明日にはここを発てたのに」
「そうして、もう二度とここには戻らないつもりなんでしょ?」
「……なんのことでしょう。領地のこともありますから、そう頻繁にはここへは来ないでしょうけど?」
「いいわよ誤魔化さなくても。それに、あたしだって言っていい事と悪い事の区別はつくわよ。陛下たちにもそれ以上のことは言ってないわ」
「充分余計な事ですよ……」
力なくソファに凭れたシュリの顔を、じいっと魔術師は覗きこんだ。心の奥まで見透かすように。
「そうかしらね。このまま、あの子たちに何にも言わないで行くつもりなの?あの子たちはあんたがしてきた事、何一つ知らない。それでいいの?」
「いいんです、知らせるつもりはありません」
「まったく、呆れた頑固ものね!イリスにそっくりだわ!」
母の名前を出され、シュリは思わず笑ってしまった。なぜなら。
「何笑ってるのよ?」
「……陛下にも、ああ、先の陛下にもまったく同じ事を言われてしまったので。母はともかく、わたしはそんなに頑固者ではないつもりだったんですけど、ね」
「自覚がないのが、また性質が悪いわね……ともかく」
苦々しげに吐き出し、ミマナはシュリの鼻先に、人差し指を突きつけた。
「あたしの言った事、ちゃんと考えなさい、いいわね」
言うだけ言って、嵐のように魔術師は去っていった。
ソファに力なく凭れ、シュリは天井を仰いでいた。ああ面倒な事になったなあとぼやきがこぼれてしまう。
考えるもなにも、答えは初めから決まっていた。
何も言わない事。知らせない事。今更弟妹たちに知らせて何になるというのだろう。
「シュリさま……」
躊躇いがちに名を呼ばれ、顔を向けると、アリスとアレスが、よく似た顔に同じ表情を浮かべ、こちらを窺っていた。
うん、でも多分大丈夫。明後日には許可証もらって、それでここから出て行こう。日にちは少し延びたけど、予定通りにすすめるのだ。
「ああごめんね。明後日にはここ発てると思うから、そのつもりでいてね」
二人は一瞬視線を交わし、すぐに逸らす。そして、わかりましたと声をそろえて答えたのだった。
「シュリさま?」
「・・・・・・」
「あらやだ、シュリさま眠ってしまわれたようね。お湯は明日の朝にでもつかっていただくとして、寝室にお運びしてよ」
「わかってる。よ、っと相変わらず軽いな。で、この衣装はどうするんだ」
「勿論脱がせてあげなさいよ。そのままだと寝苦しいでしょ。これ寝巻よ」
「……僕が着替えさせるのか?」
「他に誰がいるっていうの。なにその赤い顔は」
「無理無理無理っ、だいいち、あとで知られたらシュリさまだっていい気はしないだろっ」
「あ~……あんただったら気にしない気もするけど……まあ仕方ないわね。私が着替えさせるけど、あんたも手伝いなさいよ、流石に私一人じゃ厳しいわよ」
「……わかった」