創作論:ルールではなくツールである
1.先人の教えは押しつけではない
起承転結。
あるいは序破急。
三人称、一人称。
音韻の踏み方。
などなど。
今日ではこれらがまるで小説(文章創作書き)のルールであるかのごとく取り扱われることが多くあります。
けれど、違います。
それらはルールではなく、創作に際して作る側の人物にとって役立つようアドバイスとして洗練されてきただけの、いわばツールなんです。
使うためのものなんですよ。使われるのではなく。
小説に形式はありません。
小説文は、自由です。
ただ、自由だからといってまったく取り留めもなく書き散らされたのでは、読む側の人物と共通理解を構築することが難しくなってしまいます。
そのため、整理された「伝えやすい形」の則り方として、起承転結といった方法論が提示されてきました。
でもそれは、あくまで後追いの、先行例を分析した結果として割り出された「ベターな捉え方」でしかありません。
起承転結があって小説があるわけではないのです。まず小説があって、そこに起承転結を見出すこともできるという順番なんです。
だから、たとえばドラマティックさにもっと躍動感を望む場合などに、起転転承転転転転……結、と転がしまくった構造をとったところで構わないのです。それで面白くなるのであれば、ではありますが。
人称の使い方もそうです。
よく小説作品として「三人称か、一人称か」を前提として選択するような扱いがあります。これは、おおむねでは間違っていません。なるべく統一性の貫かれていた方が読み手にとって理解しやすいからです。
しかし、局所的にはその限りではないのです。たとえば、
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吉彦は嘆息した。彼にとって、このように興味も向かない些事に時間を浪費させられることは、苦痛でしかないのだから。ああ、まったく、なんでいちいちこんな手間ばかりおれにかけさせたがるのかね……。そう内心で愚痴吐きながらも、表面上は慇懃な態度を崩すことなく、彼はこの益体もない仕事の片付けに取り掛かるのであった。
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このように、地の文において三人称の中に一人称を含めた独白文など、商業プロ作家さんの作品でも珍しくもないですよね?
これを自由間接話法などと区分することも可能ですが、本質はそこではないんですよ。
小説の“表現”こそが先にあって、人称の分別は後から言及された用法に過ぎないということです。
だから作品の前提的「人称の設定」などありませんし、よって矛盾もしません。
やはり繰り返しますが、人称の識別もまた作り手のための支援ツールであって、従わなければ“間違い”などというルールではないのです。
2.文章のルーツ
古来、文章の種類は二つに大別できます。
一つは、情報伝達のための、事務的文章であり。
一つは、芸術表現のための、詩文派生文章です。
小説文とは後者、詩文の系譜を汲み派生してきた芸術表現の一種です。
詩文に本来の形式などなく、せいぜい唄(詩歌よりもっと前の、原始的な唄)が原形かというくらいです。韻踏みですら、後追いで整えられた望ましさにすぎません。
よって、小説に元来的な形式などないです。小説文はその本質において自由です。
日本語にも、文章としての作法において現代の型嵌めは無理やりな面が大きいことを知っておきましょう。
本来の日本語に、句読点はありません。字下げもありません。カギカッコだとか、感嘆符や疑問符も例外的な存在です。
この法則は現在でも死に絶えたわけではないのです。毛筆書きの手書きで、和紙や木簡などに書き綴る場合、句読点は使いません。字体、大きさ小ささ、行の改め、書き出し位置の上げ下げ、末字の筆の払い。そうしたところで書き手が任意に「美しさ」「見分けやすさ」を調整します。
あらかじめ定められて従わねばならぬ「書式」などなく、自由の幅が大きい。それがもともとの日本語でした。
ではなぜ、現在このような形が常識とされているのか。
はっきりいってしまうと、単に印刷機の都合です。
つまるところの「原稿用紙の書き方」とは、まさにこのことでしょう。
あるいは出版業界の都合とも言い換えられます。それが“事実上の標準”として作用して広まった結果、現在の形式が定まってゆきました。
実用上はたしかにこれが利便に優れているのですが、小説文は芸術表現ですから、ただ実用のためだけに表現を窮屈にしなければならないとしたら、多少の感情的な言い表しが許されるものならば、それは敗北なのです。
とはいえ、現実にはパソコンさんとインターネットが全盛の時代。
デジタル文書データとしての整え方には妥協も要するでしょう。
そのため、実際には自由自在とはいきませんが、「ルールではなくツールである」この観点を忘れないならばもう一つ、脱出の観点も平行して備えておくべきでしょう。
3.現代小説への脱出
実のところ印刷出版物だろうとウェブサイトページであろうと、手間(と費用)を惜しまないなら、かなりの自由自在な書式変形、表現形を追求可能だったりはするのですよね。
やりすぎると「いたずらが過ぎたような」悪文と堕してしまいますので、加減が難しいところではありますが。
ネット小説というものも、一昔前は自前のサイトでHTML修飾がバリバリ踊っているようなものの流行もありました。それが淘汰され、いまの簡素なテキスト表示こそがスマートで受け入れやすいとされているわけですが、あくまで過渡期です。二周まわって三周まわって、HTML標準定義やCSS機能が進化してゆけば、その内もっと自由度の高い文章表現が可能になるかもしれません。
それがよいことかどうかはともかく、現在の形が絶対ではないということです。
さて、一例として拙作より「起承転結」の崩し方を取り上げてみたいと存じます。
またぞろ同じヤツで申し訳ないのですが「異世界ヒキニートにロボ娘さん」(https://ncode.syosetu.com/n9789ci/)です。
起承転結、成り立っているか成り立っていないか、さっと目を通してご判断いただけますでしょうか。
わたしはこれは、最低限ながら「成り立っている」と判断しています。
根拠を解説すると以下の通りです。
・一行目「彼は死んだ。」が「起」として機能している。
・二行目以降の〔1〕が「承」として機能している。
・同じく〔2〕が「転」として、〔3〕が「結」として機能している。
です。
また、末尾まで読んだ後、最初の一行目「彼は死んだ。」を読み直した場合に、登場三者のどの視点からだったのか、深読みする余地もあるでしょう。(途中で主役が交代するような形をとっていることが無意味ではない。)
この短いたったの一文にだって、そうした機能を織り込めることができたりするわけです。
また、「起承転結」ではなく、「ストーリーのモジュール化理論」などで言及される「I・D・C理論」の三部構成としても合致しうるでしょう。
すなわち、
・Introduction/導入部として〔1〕が。
・Development/展開部として〔2〕が。
・Conclusion/終結部として〔3〕が。
それぞれとして、です。
ただし、はじめから当てはめることを計画立てていたわけではないです。
もう身に染みついてしまった作法という側面もあるのですが、単に物語として読み解く最低限の共通理解要項を書き出しておいたら、結果としてはこのような形に収束してくるというだけです。
やはり小説が先、ツール理論は後なんです。
繰り返しになりますが理論分析というのは、先人があとに続く後進へ向けて「こうしたらもっと上手くいきやすいんじゃないか」「こういう考え方したら役立ちやすいんじゃないか」とアドバイスを贈っていただいたものであって、「こうしろ!」「こうじゃなきゃダメだ!」と命令されているわけでも押しつけられているわけでもないんですよ。
従うことはもちろん効果的だけれども、従わない人(作品)がいたとしてもそれは非難されることではないということです。自由にやっていいんです。
ただしもちろん、それで面白いか面白くないか、は別の話です。わけが分からない、読んでみたけどつまらないといった“感想”であれば、それは正当なものです。
なお、以上の追求に関しては、一定よりも作法や理論に習熟の済まれた方、ちゃんと調べて、ちゃんと学んで、ちゃんと守ろうとしてきたがゆえに「こうしなきゃ」と頭の固さに囚われている方にこそ有効的なものです。(学ぶことと囚われることは同質の両面たる性質なので、これ自体は良し悪し優劣がどうこうという話ではなく、その状態である人物に過ちや責任が問われるわけではありません。)
そのため、まだこれから学んで書いてみようという段階の方、つまり初心者の方は、いきなり自由を志しても破綻してしまいやすいので、まずは型通りに則ってみることを優先していただけるようお願い申し上げます。
以上、よろしくお願い申し上げます。