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小説作法:主体の初出はお早めに

 文章における情報伝達、特に小説における読解では、明示されず暗黙下で了解を構築している領域が大きく存在しています。

 その中でも重要でありながら軽視されがちな機能点の一つに、本文開始後のいかに早い時点で「視点を定める主体」が登場するか、表記初出するか、といった問題があります。


 人類は生物上の機能として自身の耳目を介して見聞きする以外の体験が誰にもできません。少なくとも現代までのテクノロジーではその制約を脱皮できていません。

 そのため、「完全な客観視」というものは誰にも真に理解することはできず、何かを伝え理解してもらう際の形は「擬似的な主観視」を取らざるを得ません。

 この原理原則があるいは、古来より物語の基本形が「語り聞かせ」であることを成り立たせ現行の小説文などの在り方も定めているのかもしれません。


 さて、表題の件、問題としては普遍的に共通しますが特に顕著であるのが一人称形で叙述される作品であった場合です。

 まず分かりやすく例示を一つ極端に示してみます。

 拙作「ガリ転生 目覚めたら寿司屋のショーケース」(https://ncode.syosetu.com/n7213cj/)より、冒頭部を抜粋します。

-----

 意味が分からない。

 おれはどうなっちまったというのか……ある時、ハッと目が覚めたら、寿司屋のショーケースの片隅に納まっていた。ホワッツ!?


 しかもガリ。つまりショウガ。

 あのね、根生姜を薄く切って甘酢漬けにしてね、薄紅に着色されたりしているヤツね。


 この理不尽……。

 しょうがだけにしょうがないねってうっさいわ(後略)

-----


 二行目の行頭にご注目ください。

 あからさまに「おれは」と先頭に書き置くことで判明を容易にしています。これは意図的な配置です。

 この配置にした理由は、ただ分かりやすさだけを優先するなら一行目の行頭が最も効果的ではあるのですが作中状況がシュールギャグであり一般的な理解が暗黙下のままでは困難であることから、タイトルの機能(読み手に意味不明な衝撃を与えながら興味を喚起させる)から引っ張って「意味が分からない」とワンクッション置くことで心境の同期を図りつつ常識的理解が最低限通じることを示すため、まず一行目を使いました。しかしそれだけだと視点が「どこの」「誰が」であるか不明なまま読解が混乱してしまいますので、早々に二行目行頭に優先して割り込ませて「おれは」と記述することで主人公の視点および一人称形の作品であることを示しています。

 このたった二行でどれほど多くの情報要素(読解の手がかり)が読み手側へ提示されているものか、当エッセイをお読みになられるような書き手の皆さまであればご理解いただけることかと存じます。いかがでしょうか。様々な教本や解説エッセイなどで「冒頭が大事」「冒頭がほぼすべて」とまで口をすっぱく述べられているゆえんの一端がここにも表れておりませんでしょうか。


 次に、駄目な例として書き換えてみると、下記のような形に書いてしまうこともできます。

-----

 ホワッツ!?

 いったい何がどうなっちまったというのか……。ある時、ハッと目が覚めたら、寿司屋のショーケースの片隅に納まっていた。意味が分からない。


 しかもガリだよ。つまりショウガだよ。

 あのね、根生姜を薄く切って甘酢漬けにしてね、薄紅に着色されたりしているヤツね。


 おいィこの理不尽……おれにどうしろと?

 しょうがだけにしょうがないねってかうっさいわ(後略)

-----


 ただインパクト重視で言葉を並べ立てた場合、上記のような形もありえます。

 主体たる記述「おれに」の初出が七行目の後半とかなり遅くなっています。読み比べてみた際の分かりやすさ、脳裏に浮かぶイメージの固めやすさ、いかがでしょうか。

(ちなみに最初に文を書き出した際が記憶に残る限りだとこのような感じだったのですが、前述したような主体初出の配置意図に基づいて組み替えてゆき、結果として出来上がった本文が前者の形です。)

 このような文章配置で主体の登場が遅くなっておられる作品、なろう上だと――あるいはなろうに限らずネット上だと――見かけやすいものではないでしょうか。

 しかし、ちょっと注意して配置を工夫するだけで、この問題はわりと簡単に解決できる部類のものです。一度書き出した本文を推敲される際にでも意識してみていただけましたら幸いに存じます。



 人間の頭脳が備える短期記憶の容量は、感覚的に思うよりも驚くほど小さいものです。

 他者が書いた文章を読む際、読解イメージなどの構築があやふやなまま(視点が定まらないまま)読み進めて脳裏に保持しておける長さは、せいぜい三行から四行といった程度でしょう。それ以上あとの行でようやく主体が判明してイメージを固めることができたとしても、冒頭部は既に脳裏から失われてしまっておりますから、改めて頭から読み直す手間をかけるか、もしくは理解を投げ捨てた形で読み進められてしまうか(無意識にスルーされることが多い)、と陥りやすくなります。結果として残る印象は「分かりにくくて手間がかかる作品」「描写があやふやでいまいち意味が読み取れない作品」といったところでしょうか。

 ここに当著者(あんころ)の個人的な経験則を加えますと、主体が未提示のまま読み進めなければいけない文章(特に小説)は二行目前半くらいまではストレスなく許容できる、二行目末尾まで待たされると負担感が生じてくる、三行目に入っても行頭に提示されないままだと苛立ちを感じ始める、三行目末尾ならギリギリ許せる、四行目以降では基本的に理解を放棄、となります。(何度でも読み直してまで正しく理解に努めなければならい義務を負っている、といった場合であればもちろん別ですが、そんな姿勢を一般の読者さんに求める意義などないことはご理解いただけることでしょう。)


 最後に補足ですが、三人称の場合であっても話ごとシーンごとなどにおける「名前の登場順」が読解イメージの固まり方を左右します。そのシーンにおける視点の着地において「誰が中心か」という観点を忘れずに備え、記述していく順番にも反映させられたなら、読み手が一行ずつ素直に読み進めるまま負担なく抵抗なくイメージを受け取ってもらいやすいと言えるでしょう。

(もちろんですが名前の他にも動作の描写などが矛盾なく同期している必要があります。それらをコントロールする上で「まずどこに着眼すれば」書き手としてメスを入れやすいかという切り込み口が、つまりは名前の登場順であり主体の初出優先度であるわけです。)



 なお、当稿の論じる対象はあくまで一般的な形式の小説文に対してであり、たとえば詩文や詩的な表現を追求した作品、文学的表現を追求した作品などであれば必ずしも当てはまるものではありません。書き手の方にとっては自明なこととは存じますが念のため断り書きを置かせていただきます。


 以上、近頃改めて気になった観点でしたもので、速記仕上げの雑文にて失礼ながら、この一例がどなたかのお役に立つことでもございましたら大変幸いに存じます。よろしくお願い申し上げます。

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