創作論:女性主人公の特性
それは、「素直に泣ける」ではないか、と考えます。
悲しいとき嬉しいとき、その心情描写に率直なままの「泣いた」「涙を流した」といった表現を用いられること、です。
男性主人公だとそうはいきません。なぜなら、男の思考というものは厳しくキツイときほど「問題」に「対処」して「解決」すべきと思考が向くようにできているからです。
そのため、本気で悲しいときほど男は涙を流しません。心の中でだけ激情を振るわせます。あるいは背中で語る、行動で示すのだともいえます。
男性主人公が小説作中で泣くことができる場面は、全編を通して一度きり、最も大切な場面で描写とその描き出すまでの手順を最大限尽くして、ようやく許されるか、といったところでしょうか。
そうでなく何度も泣いていると、読み手からは「なんだこいつ……」「うっとうしい」「進歩がない」といった風に呆れられる形で受け止められてしまうでしょう。
さて、ひるがえってこれが女性主人公だとどうなるか。
たとえば、マルティナちゃんという名前の十代半ばの年頃の女の子が主人公であったとして、それまでずっと仲良く暮らしてきた家族と不運な事故によって死に別れてしまったとします。
その悲しみを描写するとして……
―――――
葬儀の手配は村の皆々が進めてくれた。
喪主は唯一生き残った肉親たるマルティナということになるのだろうが、何らの意味ある言葉も行動も示せなかった。
マルティナはただ泣くことしかできなかった。
何も考えなかったというわけではない。けれど、両親兄弟の棺を前にしたら、呆然と立ち尽くすままに涙を流すことしかできなかった。
それでも周りの皆が気を遣ってくれたのだろう、葬儀の手順自体は粛々と進み、日の暮れとともにしめやかに閉じられた。
見送られ、家に帰ったマルティナの。だが本当に身を苛む時間はここからだった。
家族で過ごしてきた屋敷。ずっとずっと暖かな何かに満ちていたはずの空間。
いまは誰もいない。
ひたすらに静かな夜。
寝台に埋もれるように逃げ込んで、マルティナは耳を閉ざすとまた泣いた。
―――――
と、ほんの短いワンシーンで三度も、「泣く」「涙を流す」「また泣いた」と繰り返しています。
でも、角は立っていないですよね?
これがもし男の子だったら、同じ年頃(十代半ば)だとしてもやはりメソメソしく映ってしまうのではないでしょうか。(あるいは、泣くだけでなく何かを決意して立ち上がり直すところまでの描写を要する。)
主人公が女の子だからこそ、悲しみにただ泣き暮れるという状態への感情移入を、素直な文章表現のままに提示できるし、そこに意義もあるわけです。
よく「涙は女の武器」などといわれますけれど、これはもう本当にその通りで、表現者(書き手)として取り扱ってみると実感するところしきりです。
男女の性差がどうこうとかいう正論を装った屁理屈はうっちゃってください。そんなもん創作の役には立ちゃしないです。事実として生物学的にも雌雄の役目は分かれているのですから、自ずから生じる役割分担というものがあるわけですよ。善いとか悪いとか優劣がどうこうとかではないんです。
ぜひあなたも一度、ご自身の作中において「泣く」表現を取り扱ってみてくださいませ。主人公が男性の場合と女性の場合で特性が異なることを実感していただけるかと存じます。この理解はまた他の場面でも色々役に立ってくると思うのでオススメです。
主人公に対する読み手の投射投影論、感情移入論、さまざまにあるとは存じますが、男女の別で分かれる要素って突き詰めると「泣くこと」ではないかなと。
当著者(あんころ)の経験から一つの判断がつきましたもので、この「小説家になろう」という場において互いの創作への取り組みに役立つところもあればと、一例としてここに開陳させていただきました。
以上、何とぞよろしくお願い申し上げます。