02 灰色の祭壇
目の前を銀色の泡が次々とのぼって行く。
水に落ちたのだと理解するの前に、咄嗟に開いてしまった口に水が流れ込んでくる。
息苦しさにパニックになりながら、無我夢中で手を動かした。
上下も分からない恐怖に、ただひたすら明るく見える方を目指した。
これが水底で光る何かだったら、もう死を覚悟するしかない。
けれど、とっさの判断は友歌にとって吉と出たらしい。
飛び出した手が水面を叩いて、顔を持ち上げる。
「……はっ!げほっ、けほ。ふはっ」
飲んでしまった水を吐き出して、荒い息をしばらく落ち着かせる。
勝手に水だと判断していたが、少なくとも海水ではないようだ。
味はない。
呼吸もどうにか落ち着いて考える余裕が出て来る。
どこだろう。
薄暗くてはっきりと周囲を見渡せない。
ただ、外ではないらしい。
見上げれば何やら鉄製の無骨なシャンデリアのような物が見える。
「夢、の続き、とか?」
半笑いで呟いてみる。
けれど、手足を動かさなければ今にも沈んでしまいそうな身体とか。
水を吸って重たく感じる服の感触とか。
だんだんと冷えて動きが鈍くなる手足とか。
夢だと思うにはあまりに生々しい。
このままでは、また水中に逆戻りだ。
ふっと浮かんだ「死」の一文字がやけにリアルに迫る。
「と、とりあえず、泳いで、ここから、出よう」
友歌のいる場所は、さほど大きくはないプールのような所のようだ。
薄暗いせいで分かり辛いが、プールの縁が遠くはない場所に見えている。
走るのは得意ではないが、泳ぎはそこそこ出来る方だ。
唯一、体育の授業で褒められたのが夏場の水泳だ。
とは言え、着衣水泳の知識なんて小学校で特別授業を受けた時の物くらいしかない。
中学でも、高校でもそんな授業はなかった。
ただひたすら手足を動かして、平泳ぎで岸を目指した。
思ったよりも早くたどり着いた縁に手をかけて、重くなった身体を持ち上げる。
ぼたぼたと落ちる水滴を手で拭って、その場に座り込んだ。
跳ねた水は煉瓦の隙間をたどって流れ落ちて行く。
その様子をぼんやりと目で追って、友歌は自分がどこにいるのか気付いた。
薄暗い部屋の中。
灰色の煉瓦が積み上げられた大きな祭壇。
その頂上に友歌は座りこんでいた。
「どこ?ここ?」
ぽつりとした声は、広い室内で思いの外良く響いた。
水浸しの革靴を脱いで、逆さに振って水を出す。
ついでに靴下も脱いで搾る。
ひとつ気になると濡れて重くなった制服も気になる。
スカートの裾を一か所ずつ握って搾って行った。
分かってる。
こんな事して、時間を稼ぎたいだけなのだ。
肩に着くまで伸びていた髪を一つにまとめて水気を切る。
心地良いとは言えないまでも、水を吸ったままの状態よりは幾分マシだ。
のろのろと濡れた靴下を履きなおして、のろのろと同じように靴を履く。
いっそ誰か、やって来ないだろうか。
自分からこの部屋を出るのは怖い。
今も階段状に作られた祭壇から降りるのすら躊躇ってしまうのに。
ジリジリと待って、それでも誰も来る気配がない。
「うん、行こう。自分から動かなきゃ」
怖気づく自分に言い聞かせながら、重い腰を上げる。
階段状になっているとは言え、祭壇は大きく分けて三つの区切りがあるらしい。
頂上付近はかなり傾斜が急で、手摺もない。
気軽に歩いて降りるには躊躇う高さだ。
友歌は、座ったまま足を伸ばした。
ゆっくり一段、一段下って行く。
どうにか、最初の踊り場のような広い場所まで来る。
大した距離もないのに、息が上がった。
それでも、地上が近づいた安堵感はある。
もうちょっと頑張ろう。
続けて階段を降りようと踊り場から身を乗り出した時。
せいぜい水音しか聞こえなかった静寂を破る様な物音が届いて来た。
大勢が歩いて来る足音のような音。
思わず身を竦めて伸ばした足を引っ込める。
ついでに、隠れる場所がないかと探すが見つからない。
いっそ階段を戻って水の中に隠れようかとも一瞬考えた。
だが、それよりも早く重たげな音が響いて眩しい光が差し込んだ。
扉からの光は、友歌の足元近くまで届いた。
どれだけ大きな扉なのか。
変な所に思考が飛ぶ。
ぼうぜんと光を眺めている間に、次々と人が中に入って来る。
思わず固まって目の前の光景に見入る。
やって来る人は、皆同じような服を着ている。
制服だろうか。
けれど、友歌が来ている様な学校の制服とは違って見える。
どちらかと言えば、警察官や遊園地のアトラクションのスタッフに近い物を感じる。
デザインや色合いとかは、もちろん全く違うのだけれど。
「な、なに……?」
ぽつり、ぽつり室内に明りが灯される。
下を見れば松明の様なもので壁に明りを付けていた。
薄暗かった部屋が、幾つもの明りによってようやく見渡せる程度には明るくなった。
「……ディア・ミーレ!」
「ヤ―。ディア・ミーレ!」
聞き慣れない言葉がそこかしこで漏れる。
それは、やがて大きな一つの声となって行く。
「なに、なんなの……」
大勢の、十人や二十人ではない。
数えるのも馬鹿らしい人数が、一斉に友歌を見上げ両手を差しのべている。
そのほとんどが、友歌よりずっと年上の人々だ。
友歌の父親かそれ以上に年配の人間もいるように見えた。
「ディア・ミーレ!ディア・ミーレ!」
声がうねりとなって友歌を包む。
理解できない熱気が押し寄せてくる。
その場の空気に息も出来ない。
「サレイン フォルマーナ!」
そのまま気を失ってしまいたかった友歌だったが、場を沈めるひと際大きな声音に我に返った。
見れば、ゆっくりと一人の老人が階段を上って来る。
真っ白な長いひげが、やけに目についた。
ゆっくりと、けれど確実に階段を上って来るその老人は友歌はただひたすらに見つめた。
目をそらしたら、その隙に何かをされてしまいそうな、正体の掴めない恐怖があった。
じっと見上げる友歌に、目の前までやってきた老人は静かに膝を折った。
目元を隠す様なひげと同じく長くて白い眉毛の奥で、緑色の瞳がやわらかく瞬くのが見えた。
たったそれだけだったが、友歌は全身の緊張が解けて行くのがわかった。
「スォルティーダ ディア・ミーレ」
柔らかく静かな声がかけられる。
その言葉は友歌の知らないものだ。
少なくとも、英語にも中国語にも聞こえなかった。
「あ、あの。わたし、その……」
何かを言わなければならないのに、上手く言葉にならない。
「ヤ―。スィーレ。イェ レノーザ」
何度も口を開いては、何も言えずに閉じる友歌に老人は優しく声をかけると手を差し伸べた。
皺だらけの手を見て、また老人を見る。
緑色の瞳が温かく友歌を見守っている。
悪い人には見えない。
いつも友人や兄からは、人が良すぎるとか優しすぎると言われているが、この時ばかりは自分の直感を信じたかった。
おずおずと手を差し伸べると、意外と力強く握り返された。
「スィ―レ ディ・アーナ」
冷え切った手に、老人の手の温かさが伝わって来る。
ぎこちなく立ち上がった友歌は、その温かさに涙が出そうだった。
ぎゅっと唇を噛みしめて、溢れそうな涙はこらえる。
けれど、目の前の老人は全て見透かす様な瞳で微笑んでいる。
「イェ クローレ」
そっと手を引かれて、階段を降りて行く。
覚束ない足取りは、老人のゆっくりとした歩みにようやく追い付けるような頼りない物だったが、どうにか階段を降り切る。
地上に降りて見れば、自分を取り囲む視線の強さをより一層強く感じる。
何かを期待している様な、熱い視線だ。
悪感情ではないような気がするので、その点では安心したが、落ち着かない。
俯いて他とは目を合わせないように、ただつながれた手だけを見つめ続けた。
「くしゅっ」
濡れた身体が冷えたのか、堪え切れなかったくしゃみが空気を揺らす。
「スォルティーダ ディア・ミーレ。ノーラ クリリノン」
「スォルティーダ」
老人が誰かへと声をかけたかと思うと、ふわりとした布が肩にかけられる。
思わず顔を上げると、他の人とは違う恰好の若い男の人がいた。
白地に銀の縁取りのある上着を着込んだ人は、どこか映画や漫画で見た騎士のような格好をしている。
それに、良く見れば腰にあるのは剣ではないのだろうか。
ぼんやりとその男の人を見つめていると、困ったような表情でそっと肩を押された。
ハッと気付くとその人は、友歌の肩に少し硬さのある布をかけてくれていた。
慌てて落ちそうなその布をショールのように巻きつける。
薄紫の裏打ちのある布は、濡れた身体からほんの少し寒さを遠ざけてくれた。
「あ、ありがとうございます……!」
そのまま立ち去って行こうとする男の人に、お礼を言っていないととっさに声をかける。
思った以上に大きな声になって、周囲の視線を集めてしまった。
集まった視線の多さに首を竦めた友歌に、その人はまた少し困ったような顔して小さく笑った。
通じた、そう思えてホッと心が温かくなる。
「ディア・ミーレ イェ クローレ」
また、老人に手をひかれて歩き出す。
ゆっくりとした足取りで、祭壇のある部屋から外へと向かう。
胸がドキドキと騒がしい。
ここはどこなのか。
何が起きているのか。
まだ分からない中で、友歌は不安と恐怖をまとめてため息と共に飲み込んだ。