01 雨音と足音
友歌(ゆうか)は鈍く痛む頭を押さえてため息をついた。
外を見ればどんよりとした曇り空。
雨が降る寸前の空模様にさらに頭痛が酷くなった気がした。
「友歌ー?どうしたの、また頭痛?」
「サトちゃん」
声を掛けられて顔を上げれば、友人である里見(さとみ)の綺麗な顔が目に入った。
小学校からと言う長い付き合いの里見は、切れ長の目がクールな印象を与える少女だ。
黒のセーラー服も彼女が着ると何だがドラマの衣装のように見えてしまう。
時に、冷たそうだと倦厭されてしまう友人だが、外見に反して気遣い家で細やかな優しさを持っている事を友歌は良く知っている。
「ちょっとだけ。雨が降りそうだからかな」
「大丈夫?薬飲んどく?」
言いながらバックからポーチを取りだす里見を慌てて止める。
頭痛持ちの友歌を気遣って里見のポーチにはいつも鎮痛薬が常備されている。
里見が言うには、自分の為の備えだと言うが本人が飲んでいる所を友歌は見たことがない。
「大丈夫、まだそんなに酷くないから」
「薬って言うのは、酷くなる前に飲むものなのよ」
「でも、これから部活だし。眠くなっちゃうと困るし」
どうにか断りを入れると深々としたため息を吐かれた。
「自分じゃ見えてないんだろうけど、ひどい顔してるわよ」
「え、そう?」
パッと自分の顔に手を当ててみるが、良く分からない。
「部長には言っておくから、今日は帰って休みな」
「でも、もうすぐコンクールが…」
「駄目!コンクールなんてまだ一カ月も先じゃない。一日くらい休んだって大丈夫よ」
所属している合唱部の部長には死んでも聞かせられない台詞を言いきった里見に思わず笑ってしまう。
あと一カ月しかない!と言っていたのはつい先日の里見自身だ。
「そんなに酷い顔色かな?」
「誰に見せても酷いって言うわ。いちごオレを賭けても良い」
「安いなぁ」
自販機で100円のジュースを賭けられても釈然としないけれど。
「今日は、それじゃ帰ろうかな」
頭痛は先ほどよりもじんわりと強くなっている気がする。
もう教科書なんかを纏めてしまった鞄を机の上に置く。
「そうしな。そんで、土日でしっかり休んで月曜日にまた会いましょう」
「サトちゃん、権藤先生みたいだよ」
「失礼な!私の方がぴっちぴちで可愛いでしょう」
担任のいつもの締めの言葉をなぞった友人に笑ってしまう。
「失礼なこと言う人間には、鞄を没収します!」
「あ、うそうそ。サトちゃんの方が百倍可愛いよ」
「百倍だけ?あーあー、私傷ついちゃう」
言いながら友歌の鞄を持って教室を出て行く里見を慌てて追い駆ける。
「サトちゃん、待って」
「昇降口まで一緒に行こう」
廊下で立ち止まって振り返った里見の優しさに笑顔で肯く。
ちゃんと没収された鞄は取り戻しておくけれど。
「そう言えばさ、今度新しいALTの先生が来るらしいよ」
放課後のごった返す廊下を里見は器用に人をよけながら歩いて行く。
友歌の方は、時々人にぶつかりながらどうにか里見を追い駆けるのが精いっぱいだ。
「そうなの?どんな先生だろう?」
「なんかね、アメリカとかイギリスみたいな国とは違ってて。ちょっとあんまり聞かない国の人だった気がする」
「へぇ」
里見のこう言った情報の早さにはいつも驚いてばかりだ。
人よりのんびりした所のある友歌には出来ない芸当だ。
「良い先生だと良いね」
「男か女かも大事だけどね」
「そうなの?」
少し驚いて聞くと里見は茶目っけたっぷりのウィンクを返した。
「あら、女子高生の感心事は恋愛と決まっているじゃないの」
「そんな事言って、サトちゃんは好きな人がいるんでしょ」
「それは、それ。これは、これ」
「そう言うもの?」
「そう言うもんよ」
堂々と言ってのける友人に、友歌は呆れながら笑ってしまった。
そんな他愛もないお喋りをしていれば、アッと言う前に昇降口まで来ていた。
「それじゃ、ちゃんと休みなよ。酷くなる前に、薬も飲んで」
「うん。分かってる。部長にごめんなさいって言っておいて」
「ちゃんと伝えとく。それじゃ、またね」
「部活頑張ってね。バイバイ」
手を振り合って別れて、靴箱で靴を履き替える。
行き交う生徒たちの声に、忘れかけていた頭痛がやって来る。
「…っ!」
今日はいつもより少し酷いかもしれない。
頭の奥がジクジクと熱を持つような痛みは、鈍くそれだけに後を引く。
部活を休ませて貰って良かったかもしれない。
こんな状態では、歌うどころではない。
早く帰って、ベッドでゆっくりしよう。
図書館に寄りたかったけれど、また今度にして。
つらつらと思いを巡らせて昇降口の扉に手をかけて、ふと立ち止まる。
視線の先に、雨に濡れたガラス戸がある。
それは当たり前に、当たり前の光景だ。
なのに、どうしてだろう。
目の前がグラグラと揺れて見える。
歪む視界に気持ち悪くなって、それ以上立つことも出来なくなった。
頭の奥から首筋にかけてが異様に冷えて行く。
凍える様な寒気に合わせるように視界も暗くなる。
「…!」
「……いじょうぶですか!」
周囲が騒がしくなる中、バタバタと駆け寄って来る足音が聞こえて来た。
どこか癖のある優しい男の人の声がすぐ近くで聞こえる。
認識できたのは、そこまでで。
友歌の意識はそのまま吸い込まれるように消えてしまった。
ひんやりとした肌寒さを感じる。
雨音だろうか。
滴り落ちる水の音が遠くで聞こえた。
身体はいろんな情報を読み取って来るのに、何故か瞼は重く意識はそれ以上に鈍く重たい。
なにかの上にいるような気がする。
身体が横たわって、まるで海の上を漂っているみたいな。
「あー、次に選ばれたのは君か」
とうとつに声が聞こえた。
まだ若い男の人の声だ。
どことなく軽い雰囲気のただよう喋り方だ。
何か喋りかけたいのに、口は瞼と同じく重たい。
「さて、女神さまはこれが最後とお決めになられた。ある意味、光栄なお役目を君は任せられたね」
語りかけられる言葉の意味が分からない。
分からないけれど、なんだかその言葉が当たり前のように身に馴染んでいく。
友歌は選ばれた。
だから、これからやらなければならない事がある。
「まぁ、これを幸運と思うか不運と思うかは君次第だ。他の誰にも出来る事ではないのは確かだから」
ふっ、と継ぐ言葉を迷うように声が途切れる。
「そろそろ時間だね。いや、この場所に時間なんて無粋なものはないけど。でも、ダラダラしていても仕方がない」
閉ざされた瞼の奥が、徐々に明るくなっていく。
浮遊感が薄れて、ゆっくりと身体が落ちて行く。
最初は気のせいかと思っていたが、だんだんとその失墜感が激しくなる。
これは本当に落ちていると思った焦りが、気だるかった瞼を押し上げた。
「君は、君の心のままに。選ぶのは君自身だ」
既に、点としてしか認識できない人の声が妙にハッキリ聞こえた。
落ちる。
落ちて行く。
咄嗟に伸ばした手は、鮮やかな薄紫の空を掴んだ。
初めて見る空の色。
薄く刷いた雲は、艶やかな薔薇色。
風によって巻き上げられた髪の隙間から覗き見た世界に息を飲む。
一瞬、自分が落ちている事すら忘れる光景だった。
空へと向かって大地が両翼を伸ばしている。
まるで羽ばたく寸前の巨大な鳥のようだ。
空は薄紫から水色へと色を刻々と変え、薔薇色の雲が美しいグラデーションを重ねている。
右翼に当たる大地からは、白くけぶる滝が流れ落ちている。
その滝は巨大な湖へと注がれ、両翼の大地の下にも別の大陸が広がっているのが見えた。
大地は緑に覆われ、ところどころに輝いて見えるのは川だろうか。
あまりに幻想的で、そしてあまりに現実味のない光景だった。
夢だ。
昨日読んだファンタジー小説のせいだ。
そうに決まっている。
今までも変な夢を見たことはあるが、ここまでリアルな夢は初めてだった。
どんどんと加速するスピードに恐怖心は欠片もなく。
それこそが、夢である証のように思えた。
だから、大丈夫。
「大丈夫、大丈夫……」
いつしか声にしながら唱えていた。
大丈夫、きっと大丈夫。
目が覚めたら、自分の部屋で目が覚めるから。
だから、大丈夫。
大丈夫。
友歌は両手を握り締めて、強く目を閉じた。
やがて派手な水音と共に友歌の身体は水に沈んだ。