4.桜の記憶
このお話には残酷なシーンが含まれています。苦手な方をお気をつけください。
「お母さんっ!!こっち、こっち!!」
季節は春。庭に咲き誇った桜の花がうれしくて、お母さんと妹のみつきと一緒に、舞う花びらを追いかけながら、あの日の俺は桜ばかりを見ていた。
その日、父さんは用があるといい、静岡の親戚の家へと行っていた。
広哉兄さんは塾の宿題のため部屋に篭っていたが、2階にある自分の部屋の窓から俺たちを眺めていた。
「尚哉兄ちゃんっ!!みつきもいくっ!!」
まだ4歳のみつきが、つないでいたお母さんの手をほどき、俺を追いかけてきた。
「ほらっ!!こんなにいっぱい!!」
小さな両手いっぱいに花びらをすくい、みつきに分けてやる。
「うわぁ……」
みるみる、みつきの顔は笑顔で満たされた。
それがうれしくて、うれしくて。俺はもっと、もっと花びらを集めようと、しだれ桜の木の下へと潜り込んだ。
みつきはお母さんにたくさんの花びらを見せ、うれしそうにはしゃいでいた。
「よかったわねぇ」
お母さんも満面の笑みでみつきの頭を撫でていた。
だが。
「母さんっ!!みつき!!にげろぉぉ!!」
広哉兄さんの絶叫だった。
俺は驚いて振り向いた。
……。そのとき、お母さんの姿も、みつきの姿もなかった。
あったのは、お母さんのサンダルを履いている足首2本と、みつきの赤い靴を履いている両膝から下の足2本だけだった。その上はなぜか無くて……。代わって、その場にいたのは……。
漆黒の細長い「物体」だけだった。
2メートルはあっただろうか?何かを咀嚼しながら、ぼりぼりとリアルな噛み砕く音だけが、なにが起こったか理解出来ずにいる俺の耳に届いていた。
(お母さんとみつきを……あいつが食べた……?)
薄い皮膜で覆われているような存在。時々、人間の頭や手などの輪郭を、その柔らかそうな膜に浮き上がらせていた。
ごっっくん。大きい何かを飲み込む音。
ただの黒い物体だけなのに、飲み込んだあとはいかにも満足そうに、体を小刻みに痙攣させていた。
-おいしかったぁぁ-
……みつきの声だ。
そのとき。俺はすべてを知った。
「……ぅ、うわぁぁぁぁぁあああっ!!!」
こいつは……お母さんとみつきを飲み込んだんだ……。
俺は絶叫した。
刹那。俺の前に広哉兄さんが立ちふさがった。この物体に何かをしている。
「尚哉!!見るなっ!!!」
振り向くことなく、兄さんは俺に叫んでいた。
―いたぁいっ!!いたい、いたい、いたいっつ!!
尚哉兄ちゃんっ!!広哉兄ちゃんがひどいことするぅ!!助けてっ!!!-
みつきの声で……飲み込んだみつきの声で俺に叫んでいた。
俺は必死に耳を塞いでいた。
怖くて、怖くて、恐ろしくて。
ぎゅぅっと両目を瞑っていた。なにも聞こえない。なにも見ていない。
なにも……なにも。なにもっ!!
こぼれ落ちていた涙に気がついて、恐る恐る両手を耳から離し、両目を開けた。
「……怖かったな。ごめんな。俺がすぐ来られなくて……ごめんな」
広哉兄さんが泣いていた。ぼろぼろ泣いていた。
俺もぼろぼろ泣いていた。
気がついたら、兄さんの左手が肘から下が無くなっていた。
血がだらだらと流れているのに、兄さんは俺の頭を、残った右手で撫でながら泣いていた。
そのとき強い風が吹いた。桜の花びらが、風に身を乗せ一斉に舞い上がった。
俺は起き上がった。
もう何度目なんだ……この夢は。気持ちが不安定なときには、必ず見るな……。
部屋を見回した。俺の部屋でないことを思い出す。
ここは神楽の部屋だ。神楽は俺の右にあるベットに横たわり、すぅすぅと寝息を立てている。
〔根源体〕との戦いのあと、神楽が怪我をして、それを見るためにここに来たんだった。
はぁと大きく息を吐き出した。
まだ外は暗かった。
時間を見ると、デジタル時計は4時17分を表示していた。
2時間程度は寝たらしい。
まだ、だれも起きていないだろうと考えながら、水を一杯貰おうと、水道のあるキッチンへと向かった。
んっ?人の話し声と、灯りが廊下に漏れている。
俺がキッチンを覗くと、倭さんと希空さんがコーヒーを飲んでいた。
「あれ……早いな、尚哉。おはよう」
「本当だ。おはよう。眠れなかった?」
倭さんと希空さんの優しい言葉に、現実感を取り戻し、少し安堵しながら
「おはようございます。お2人とも早いんですね」
と話しながら、俺はキッチンに入った。
「僕は脱稿明け。希空さんは僕の付き合い」
このマンションの部屋は元々倭さんが住んでいた。倭さんの職業は自称「物書き」。
それなりに有名な賞なんかとってる、それなりの「小説家」。
そこへ神楽と和が同居し始め、最近希空さんがそれに加わった。
倭さん曰く、「希空さんは同棲だよ」だそうだ。希空さんはどう思っているかは、俺は知らないが。
「尚哉、怖い夢でも見たのかい?随分汗を掻いてるね」
急な倭さんの指摘に「そ、そんなことは……」と言葉を度漏らせた。
「……コーヒー飲む?」
「あっ……いただきます」
希空さんの言葉にすがりつくように、俺はぎこちない笑みを浮かべて頷いた。
「希空さん、仕事は……?」
「今日は本当のお休み。たまたまトイレに起きたら、尚哉くんと同じく、キッチンに灯りがついてたから誰だろうってね」
「そうですか」
「なんだ。僕とずっと一緒だったとかは、言ってくれないんですね」
倭さんの言葉に、希空さんの頬がきれいなピンク色に染まった。
初めて会った時から綺麗な人だと思っていたが、こんな姿を見るとつい惹かれてしまいそうになる。
「ちょっと尚哉くん。希空さんは僕が先だよ」
「はぁ……」
俺は返事に困った。ここまで強引だと、希空さんもどう言っていいかわからない様子で
さっきから困惑しているようだ。
倭さん、こういうところは意地悪いからな……。
このマンションに一緒に住むようになった理由も、希空さんのパートナーになった和を
出汁にしてだったからな。
「尚哉くん。ちょっと聞いてもいいかな?」
「あぁ……はい」
希空さんが真顔で俺の顔を見ている。俺は笑顔しか印象のない、希空さんの真剣な表情に押され、戸惑い気味に返事をした。
「尚哉くんは……神楽をどう思っているかな?」
「……弟です」
意外な質問に、それでも俺は言い慣れた言葉を選択した。
「そうか……神楽が苦労するはずだ」
「なんであいつが苦労を?」
倭さんはどこか俺と神楽を見透かした言い方をした。
俺は少しムカつきを覚え、倭さんに言い返した。
「……ごめんね。あたしがこんな言い方をするからいけないんだよ。
忘れて……」
「いいよ、希空さん。もう気がついてもいい頃でしょ?」
どうも倭さんの言い方が気にくわない。
「はっきり言ってください。そうじゃないと、俺は馬鹿なんで……」
「そう?じゃぁ、老婆心から言わせて貰おう。神楽は尚哉を「好き」だと思うよ。
でも、尚哉の態度がはっきりしないから、尚哉を困らせたくなくて、距離を置こうとした行動が、僕のところに来た理由じゃない?」
「……なっ!?」
倭さんは、にこにこと腹立つ笑顔で俺を見ている。
「俺だって神楽を好きですよ」
「意味が違うよ。希空さんが和や神楽を好きなことと、僕を好きなことと違うようにね」
例えが……。あんたは希空さんを、からかって遊んでいるだけだろうがっ。
神楽は大事な「家族」だ。それ以上なにがある。
だからあいつを傷つけたくない。あいつを守りたいと思うんだ。
「尚哉くん……。倭さんの例えはおかしいとしても、意味はわかるな。
神楽は尚哉くんを「大事な家族以上の存在」として見ていると思う……。
傍から見ていてすごくわかるんだ……。それが可哀想なくらい切なくて。余計なお世話だと思う。
でも尚哉くんはどう考えているんだろうって、倭さんとさっき話してたの。そのとき尚哉くんが来たんで驚いたけど」
さりげなく倭さんを拒絶しつつ、希空さんは厳しい現実を俺に突きつけた。
いや……本当なのだろう。俺も気がついていないわけじゃない。
俺から距離を置きたがっていることも。
俺は夢の……過去の出来事を思い出した。
あれは俺が6歳のとき。
その出来事のあと、俺は1年間「言葉」を失った。
父さんや広哉兄さんたちのお陰で、「言葉」を取り戻した1年後。神楽と会ったんだ。
「俺は……」
無意識に俺は口を開いていた。
倭さんはこの事実を知っている。希空さんに語るのは初めてだった。
俺は過去の出来事と共に、それまで誰にも家族にも話したことのない、俺自身の神楽への想いを2人に話した。
神楽が俺にとって、「生きる証」だという事実を。