第1話 小間使いから侍女へ
揚易棠の部屋から、怒鳴り声が聞こえた。
続けざまに、陶器の割れる音がする。
気難し屋の公子が、また壁に茶器を投げつけたのだろう。
扉が開いて、三人の侍女が飛び出してきた。
泣き顔の者もいれば、怒り顔の者もいる。
「もう、うんざり」
小走りで通り過ぎる彼女たちの誰かが、吐き出すように言った。
薇薇の顔をちらとも見ず、廊下を足早に駆けていく。
広々とした中庭には、色鮮やかに燃える楓や烏桕がある。
黄金に輝く銀杏は、秋もたけなわと告げていた。
揚府のお屋敷は、噂にたがわず、薇薇の想像をはるかに超える広さだ。
土間と居間しかない小さな小屋で暮らしていた方向音痴の薇薇にとって、舟遊びができるほどの池や入り組んだ回廊がある揚府は、まさに迷路そのものだった。
荒れた指で切りそろえた菊の花を両腕いっぱいに抱えて、薇薇は先輩たちが待つ大広間があるらしき方へと急ぎ足で向かった。
遅れたら、また叱責されてしまう。
夕食抜きは、もう嫌だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「え、私がですか?」
信じられない命令に、薇薇は『聞き直してはならない』と言われていたことをすっかり忘れて、尋ねてしまった。
案の定、柳掌事は腐った魚でも食べたかのように嫌な顔をする。
「聞こえなかった?」
「い……いいえ」
ふん、と鼻を鳴らした柳掌事が、背後の侍女に目配せした。
軽く頭を下げた侍女は、持っていた盆を雑に薇薇に手渡す。
盆がぐらりと傾き、茶杯が落ちそうになった。
薇薇は慌てて「おっと」と声を出し、盆を支える。
途端に、柳掌事から雷が落ちた。
「何度言えばわかるの?! 百姓言葉はやめなさい!」
薇薇は、亀のように首をすくめる。
柳掌事は大げさに嘆息し、揚易棠の住まう離れを顎で指した。
「今日から、揚二公子にお仕えするのよ。お茶を運んで挨拶なさい」
「は……はい」
「ほかにお付きの侍女はいないわ。食事からお着替えまでお世話するのよ」
今朝まで小間使いだった身が侍女になった。
ただの幸運でないことくらい、十三歳の薇薇にはわかっている。
柳掌事に一礼し、揚二公子の部屋へ向かった。
背中に視線が突き刺さる。
逃げ出さないよう睨みを利かせているのだろう。
前院の端にある小廂房の角に、揚易棠の部屋はある。
揚家の主要な家族が暮らす東廂房とは回廊でつながっているものの、かなり奥まった位置にあるので、ほとんど人の気配はない。
すぐに癇癪を起こすことで有名な公子だ。
どうなることやら。




