第7話 美濃の影
清洲城の朝は早い。
夜明けと同時に城門が開き、城下町の人々が動き始める。商人は荷を運び、農民は市へ野菜を持ち込み、武士は巡回を始める。
だが、その日――清洲城下の空気はどこか違っていた。
理由は一つ。
楽市楽座である。
望月梓が提案し、織田信長が即座に認めた新制度。
それは、戦国の常識を覆す政策だった。
そして、その変化は目に見える形で現れ始めていた。
市場には見慣れない商人が増えた。
他国から来た者もいる。
尾張国だけでなく、三河国や美濃国からも商人が訪れ始めていた。
商売が自由になれば、人は集まる。
これは時代を超えた経済の法則である。
市場の中央。
新しく設けられた広場で、梓はその様子を眺めていた。
「思ったより早いですね」
隣に立つ木下藤吉郎が笑う。
「そりゃあそうですぜ」
「殿の城下で自由に商売できるって話ですから」
藤吉郎は腕を組みながら周囲を見る。
「それにしても……」
「たった数日でここまで変わるとは」
実際、市場の規模は明らかに大きくなっていた。
屋台が増え、商品も増えた。
塩、魚、布、鉄、薬草、木材、陶器。
人の声が飛び交い、値段の交渉が行われる。
戦国の町とは思えないほど活気に満ちている。
梓は小さく頷いた。
(順調)
だが。
彼女は知っている。
これはまだ序章だ。
本当に国を変えるのは――
金融と物流。
その時だった。
城から一人の足軽が走ってきた。
「藤吉郎様!」
息を切らしている。
「殿がお呼びです!」
藤吉郎は眉を上げた。
「殿が?」
「はい!」
藤吉郎は梓を見る。
「また何か面白いことが起きたみたいですな」
二人は急いで清洲城へ向かった。
城に入ると、すぐに評定の間へ通される。
そこにはすでに多くの武将が集まっていた。
柴田勝家。
丹羽長秀。
池田恒興。
名だたる織田家の重臣たちである。
そして。
その中央。
織田信長が座っていた。
信長は梓を見ると、すぐに言った。
「来たか」
「はい」
梓は頭を下げた。
信長は机の上に置かれた巻物を指で叩いた。
「美濃国からの報せだ」
その言葉に場の空気が変わる。
美濃国。
尾張国の北にある国。
そしてそこを治めるのは――
斎藤道三。
戦国屈指の策略家。
油売りから大名になった男。
信長は言った。
「道三が動いた」
家臣たちがざわめく。
柴田勝家が聞く。
「戦ですか」
信長は首を振った。
「いや」
「商人だ」
沈黙。
意味がわからないという顔が並ぶ。
信長は巻物を投げた。
丹羽長秀が受け取り、読み上げる。
「清洲城下へ商人を送るな、との通達……」
家臣たちは顔を見合わせた。
「商人を?」
梓はすぐ理解した。
(なるほど)
これは戦だ。
経済戦争。
楽市楽座が成功すれば、商人は皆尾張国へ集まる。
するとどうなるか。
美濃国の市場が衰える。
つまり。
斎藤道三はそれを恐れている。
信長は梓を見る。
「どう思う」
試す目だった。
梓は答えた。
「当然の反応です」
武将たちが黙る。
梓は続けた。
「市場は国の血です」
「商人が逃げれば国が弱る」
信長は笑った。
「その通りだ」
梓は言う。
「つまり」
「美濃国はもう警戒しています」
柴田勝家が腕を組む。
「ならば攻めるか」
だが梓は首を振った。
「いいえ」
そして言った。
「戦はまだ早いです」
信長の目が細くなる。
「理由は」
梓は静かに言った。
「戦う前に」
「経済で勝てます」
広間が静まり返った。
信長はゆっくり笑った。
「面白い」
「どうやる」
梓は答えた。
「簡単です」
「商人を奪います」
武将たちがざわめく。
梓は言う。
「清洲城下を」
「戦国一の市場にする」
「そうすれば」
「商人は勝手に集まります」
信長は立ち上がった。
そして言った。
「よし」
「やれ」
短い言葉。
だがそれが決定だった。
織田信長は笑う。
「戦はまだだ」
「まずは」
信長は言った。
「美濃国の金を奪う」
こうして。
戦国史上初の。
本格的な経済戦争が始まった。
そしてその中心には――
未来から来た女。
望月梓がいた。




