第39話 入洛の時
秋の朝、近江の空には薄い雲が流れていた。
観音寺城を出た織田軍は、西へ向かって進軍を続けている。旗印は風に揺れ、槍の穂先は朝日を受けて鈍く光っていた。
軍勢の数はおよそ二万。
その先頭を進むのは、黒馬に乗った一人の武将。
織田信長。
彼の視線は、遥か西――京都の方向へ向けられている。
その後ろには柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、木下秀吉らの重臣たちが続いていた。
秀吉が馬を寄せる。
「殿」
信長は視線を前に向けたまま答える。
「何だ」
「このまま進めば、数日で山城に入ります」
山城の国。
つまり京都のある地域である。
信長は短く言った。
「進め」
その言葉だけで軍は動いた。
進軍は速かった。
各地の豪族や小城の主たちは、織田軍の勢いを恐れて次々と降伏していったのである。
戦はほとんど起きない。
兵の士気は高く、勢いは増すばかりだった。
数日後。
織田軍はついに山城の国境へ到達した。
そこには一つの関所がある。
逢坂関。
古くから都の入口とされてきた場所だ。
ここを越えれば、いよいよ京都である。
兵たちはざわめいていた。
「都だ……」
「ついに来たのか」
戦国の世で、京都は特別な意味を持つ。
天皇の都。
そして将軍の都。
その地に軍を進めるということは、天下に名を轟かせることでもあった。
信長は関所の前で馬を止めた。
静かに都の方角を見る。
遠くに山並みが見え、その向こうに都がある。
秀吉が言った。
「殿」
「ついにでございますな」
信長は小さく頷いた。
「そうだ」
そして言う。
「都へ入る」
織田軍は逢坂関を越えた。
その知らせは、すぐに京都へ届いた。
都では大騒ぎになっていた。
町人たちは家に籠もり、商人たちは店を閉める。
寺院では僧が祈りを捧げていた。
武士たちは武具を整えている。
その中心にいるのが――
三好三人衆。
三好長逸
三好政康
岩成友通
彼らは都の政を握る実力者であった。
三好長逸が言う。
「本当に来たか」
三好政康が険しい顔をする。
「美濃を取った男だ」
「油断はできぬ」
しかし岩成友通は不安そうに言った。
「兵の数が違う」
「二万だぞ」
都にいる兵はそれほど多くない。
しかも各地の武士たちの多くは、すでに織田信長の勢いを恐れている。
重苦しい空気が広がった。
そしてその夜。
密かに話し合いが行われた。
「戦えば負ける」
「都を捨てるしかない」
こうして。
三好三人衆は京都から退くことを決めたのである。
翌朝。
織田軍は京都の郊外に到着した。
町は静まり返っている。
城門は閉ざされていたが、戦う気配はなかった。
やがて城門が開く。
白旗が掲げられた。
都は降伏したのである。
兵たちはどよめいた。
「戦わずして……」
「都が開いた!」
信長はゆっくりと馬を進めた。
京都の町へ入る。
長い歴史を持つ都。
古い寺院。
貴族の屋敷。
細い路地。
町人たちは道の脇で頭を下げていた。
誰も声を上げない。
ただ静かに、新しい支配者を見ていた。
やがて一行は大きな屋敷の前で止まった。
そこに現れたのは一人の男。
足利義昭。
将軍家の血を引く人物である。
義昭は深く頭を下げた。
「よくぞ参られた」
信長は馬を降りた。
二人の視線が交わる。
義昭は言う。
「これより私は将軍として幕府を再興する」
「どうか力を貸してほしい」
信長は静かに答えた。
「よかろう」
それは短い言葉だった。
しかし。
その瞬間。
歴史が動いた。
京都を制した織田信長。
そして将軍となる足利義昭。
こうして新しい幕府が始まろうとしていた。
だが――
この同盟が、やがて大きな戦乱を生むことになる。
その時、まだ誰も知らなかった。




