第38話 近江突破
秋の空は高く澄み渡り、遠くの山々までくっきりと見えていた。
岐阜城の城下では、朝早くから太鼓の音が響いている。
ドン――ドン――
低く重いその音は、町の隅々まで広がっていった。
出陣の合図である。
城門の前には無数の兵が集まっていた。槍を持つ足軽、弓を背負う兵、鉄砲を担ぐ鉄砲足軽。馬に乗る武将たちも整列している。
風に揺れる旗印。
木瓜紋。
それは織田家の象徴であった。
やがて城門が開く。
ギィ……と重い音を立て、巨大な門が左右へと開いた。
そこから現れたのは一頭の黒馬。
その馬に乗る男。
織田信長。
黒い陣羽織をまとい、鋭い目で前方を見つめている。
兵たちは一斉に頭を下げた。
「殿!」
その後ろには、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、そして木下秀吉ら重臣が並んでいる。
信長はゆっくりと馬を進めた。
「行くぞ」
ただそれだけを言う。
しかし、その声は不思議と兵すべてに届いた。
「おおおおお!」
歓声が上がる。
こうして織田軍は岐阜を出発した。
目的地――
京都。
その道を阻むのが近江を支配する六角家である。
数日後。
織田軍は近江の国境へ到達していた。
広い野原に陣が張られている。
兵の数は二万を超えていた。
夕暮れ。
本陣では軍議が開かれていた。
中央に座るのは織田信長。
その周囲に重臣たちが並ぶ。
柴田勝家が腕を組んで言った。
「敵は観音寺城に籠もっております」
観音寺城。
六角義賢の本城。
山の上に築かれた巨大な城である。
丹羽長秀が地図を指差す。
「城の周囲には支城が多くございます」
「まず外を落とさねば」
しかし。
信長は地図を見ながら言った。
「必要ない」
家臣たちが顔を上げる。
秀吉が尋ねる。
「攻めぬので?」
信長は言う。
「敵は戦わぬ」
静かな言葉だった。
勝家が笑う。
「そんなことがあるものか」
信長はゆっくり顔を上げた。
「ある」
「恐れているからだ」
沈黙が流れた。
信長は続ける。
「美濃を取った」
「二万の軍勢」
「勢いは止まらぬ」
「ならばどうする」
誰も答えない。
信長は言う。
「逃げる」
その予想は、すぐに現実となった。
翌日。
織田軍が近江へ進軍すると、各地の城が次々と降伏していった。
戦いはほとんど起きない。
兵が逃げていくのである。
そしてついに――
観音寺城。
その巨大な山城を望む丘に、織田軍は到着した。
城は高い山の上にそびえている。
しかし。
様子がおかしい。
城門が開いている。
兵の姿が少ない。
柴田勝家が目を細めた。
「……静かすぎる」
斥候が戻ってくる。
「報告!」
「六角義賢は昨夜逃亡しました!」
ざわめきが広がる。
信長は静かに言った。
「やはりな」
観音寺城は、ほぼ無血で落城した。
近江最大の勢力、六角家は崩壊したのである。
その夜。
信長は城の上から西を見ていた。
夕焼けの彼方。
その先にある都。
京都。
木下秀吉が近づく。
「殿」
信長は振り向かない。
「見えるか」
秀吉は西の空を見た。
「……いえ」
信長は小さく笑う。
「すぐだ」
そして言った。
「都は近い」
その頃。
京都では大きな動きが起きていた。
三好三人衆。
三好長逸
三好政康
岩成友通
彼らは織田軍の接近を聞き、城や屋敷の防備を急いでいた。
「二万の軍勢だと?」
「美濃を取った男だ」
「本当に来るのか……」
都には恐怖が広がっていた。
戦国最強と噂される男。
織田信長。
その軍が、ついに京都へ迫っている。
そして。
観音寺城を出た織田軍は、西へ進んでいた。
その先にあるのは――
京都。
都を巡る大戦が、いよいよ始まろうとしていた。




